無題Name名無し25/09/29(月)11:24:02 No.567697
https://www.facebook.com/photo/?fbid=579016098118171&set=pcb.579016191451495
米海兵隊太平洋基地
本日9月29日は洋菓子の日!
というわけで軍隊とお菓子のスレ
無題Name名無し 25/09/29(月)11:25:17 No.567698
辛ーい軍隊生活の甘ーい慰めについて思う存分語ってどうぞ!
無題Name名無し 25/09/29(月)18:58:56 No.567700
青島攻略戦が我が国にもたらしたものはジャーマン・シェパードとである
わたくしは声を大にしてそう主張したいのであります
無題Name名無し 25/09/30(火)09:47:23 No.567712
ソーセージとかハムの製法伝えてくれた人もいたよね
無題Name名無し 25/10/02(木)16:56:11 No.567732
駆逐艦「雪風」の乗組員だった西崎信夫さんという方の手記に、日本占領下のシンガポールに上陸した際、憲兵さんの目を気にしながら同僚の人とこっそり現地の喫茶店に入った話が出てくるんですが、曰く「そこで私たち食べたのは、苺と生クリームのケーキ。生れて初めてのショートケーキは、それはもうお腹が痙攣を起こすほど」
…だったそうで、同僚の方とこんなに美味しいものがあるんだな…と満面の笑みを浮かべながら夢中で頬張ったそうですw
残念ながらその後一緒にショートケーキを食べた戦友の方は「雪風」艦上で戦死、西崎氏は戦後は供養の気持ちも込めてケーキはショートケーキしか口にしないことにしたそうなんですが、それは
「ショートケーキを見るたびに、彼の元気な笑顔を思い出すことができるからである」
…からなんですとか…
無題Name名無し 25/10/02(木)16:57:43 No.567733
それはともあれ、当時にはもうイチゴショートがあったのですね…
と調べてみましたら、明治22年(1899年)初版発行の「和洋菓子製法独案内」なる書物では、早くも「スコツトランドシヨルドブレツケーキ(ScotchshortBreadcakes)」と「デルビーシヨルドケーキ(derbyshortcakes)」なる2種類の”shortcakes”のレシピが紹介されているそうです
ただこれらのショートケーキの製法は、例えば「デルビーショートケーキ」の方は
「牛酪(バター)半斤、温飩粉一斤を混和し、玉子一箇と細末の砂糖三十目を加へ、能く混和して、其糊の如くなるまで牛乳を少しづゝ混こんじて掻かき廻し」
…た生地を型抜きして、砂糖を振りかけて鉄板の上で焼き上げるもので、ケーキというよりはどちらかというとクッキーめいたお菓子であったようでしたり(ショートブレッドとかに近いですかも)
無題Name名無し 25/10/02(木)12:06:47 No.567729
バターたっぷり使った洋菓子は最初期とかは日本人の口には合わなかったんじゃなかろうか
無題Name名無し 25/10/02(木)17:19:55 No.567736
>バターたっぷり使った洋菓子は最初期とかは日本人の口には合わなかったんじゃなかろうか
最初期でもなんでもないけど
昭和のバターケーキは不味かった
無題Name名無し 25/10/02(木)21:34:55 No.567738
>最初期でもなんでもないけど
>昭和のバターケーキは不味かった…
海兵がシンガポールで食べたっていうショートケーキも
現代で手に入るものに比べたらずっと不味かったんだろうな
無題Name名無し 25/10/02(木)16:58:49 No.567734
その後やや時代は下って、明治38年出版の「欧米料理法全書」にはズバリ「ストロベリー・ショートケーキ」と称するお菓子の製法が紹介されているんですが、小麦粉にベーキングパウダー、塩、砂糖、牛乳・バターを混和した生地を焼き上げたものを割り、砂糖で甘くした苺を間に挟んで上にも飾り、「クリームソース(※ホイップクリームに近いもの)」をかけて供する…というもので、大分今私らにお馴染みの形に近づいた感があります
もっとも、生地自体は後年のスポンジケーキとはやや趣が異なるようなんですが、面白いのがこの菓子が紹介されているのが第5章の「ビスケット、ブレックファストケーキ、ショートケーキ、グリッドルケーキ」の中であるのに対し(ドーナツなども同じ章)、別に第31章「ケーキ」の中で、スポンジケーキや各種デコレーションケーキの製法が紹介されているところで、或いは当時は「ショートケーキ」と「ケーキ」は別物…という認識であったのかもしれません
無題Name名無し 25/10/02(木)17:00:41 No.567735
それが何故現在のように、ホイップクリームでデコレーションしたスポンジ生地に果物を飾るスタイルに変化したのか…という肝心なところは、残念ながら研究者さんたちの間でもはっきりした定説が得られていないそうなんですが、発祥の時期としては大正末期、乳製品メーカーが遠心分離式の製造機を国外から導入、生クリームの商業生産が軌道に乗り始めたころ…というのは一致しているようでして、昭和の初めには銀座の不二家、コロンバン、千疋屋…といったモダーンなカフェや洋菓子店では、すでにかなり現在の形に近い各種の「ショートケーキ」が提供されていたとのこと
戦中のシンガポールで西崎さんらが味わった苺ショートも、恐らくは商魂逞しく現地進出した業者さんらの手による日本式の物だったと思われるんですが、生まれて初めてケーキを食べる西崎氏らの口にも合うものだったのは、こういう歴史の中でアレンジが加えられ続けてきた故だったのかもしれませんですねえ…
無題Name名無し 25/10/02(木)19:14:28 No.567737
明治のその頃ならイチゴも高いし手に入れ辛いだろうな…
無題Name名無し 25/10/04(土)01:42:07 No.567749
防衛省ホームページ
増加食(おやつ)は民生品のお菓子や栄養食・サプリ類をそのまま支給したりするけど戦闘糧食とは異なるカラフルなパッケージがメンタルケアとか
無題Name名無し 25/10/04(土)10:15:51 No.567751
>増加食(おやつ)は民生品のお菓子や栄養食・サプリ類をそのまま支給したりするけど戦闘糧食とは異なるカラフルなパッケージがメンタルケアとか
これ、スイス軍だと戦闘糧食そのものが民生品だったりするし、米軍でも演習・部隊移動用の糧食キットが民生品ベースと言うものが有る
民生品だと皆が食べ慣れているから安心感が高いし、軍隊の規模によっては専用品を少数作るよりは大量生産されている民生品を流用した方が安上がりと言う事情が有るそうだ
無題Name名無し 25/10/05(日)09:09:11 No.567762
IJNの主計中佐だった瀬間喬さん著の「日本海軍食生活史話」の中に、給糧艦「間宮」艦上で生産されていた甘味類についての話も出てくるんですが、曰く
「主なものは羊かん、もなか、洗濯板と俗称していたパン菓子、アイスクリーム(食中毒の恐れのないよう卵を使用せずカーネーションミルクを使用)」
…であったとのこと
この内「洗濯板」については、実際に「間宮」の乗組員だった脇原徳夫さんという方の回想記では羊羹の別名であった…ともされているんですが、やはりIJNの給糧艦「伊良湖」主計長だった石踊幸雄さんという方の手記によれば
「洗濯板とは奇妙な名前に思われるが、中に餡が入った長形のパン菓子で、表面の刻みが洗濯板を思わせるところから付いた俗称」
…であったそうです
無題Name名無し 25/10/05(日)09:10:19 No.567763
https://may.2chan.net/39/src/1759623019601.png
戦艦「長門」の乗組員だった村田平吉さんという方の回想録にも、「間宮」が入港した際の楽しみとして「洗濯板」の話が出てくるんですが、
「下士官兵に親しまれ好まれている菓子で、グレッチング(洗濯板)と呼名をつけている現在市販で見受けるアンボールのようなもので、形が、長さ12センチ・幅6センチ・厚さ1.5センチくらいの表面がちょうど、洗濯板の様にキザミが入れてあり、黒アンが覗いている非常に美味な菓子である」
…と、かなり具体的に描写されているんですが、どうやら中身は小豆餡の和洋折衷型のお菓子であったらしいことが伺えましたり
無題Name名無し 25/10/05(日)09:11:03 No.567764
https://may.2chan.net/39/src/1759623063028.png
ただ村田氏の手記では「グレッチング(洗濯板)」とあるものの、例えば前述瀬間喬氏著の「海軍用語おもしろ辞典」には「洗濯板」も「グレーチング」も出てくるものの(但しこの本では洗濯板が菓子の一種の別称であった記述はなし)、「グレーチング」は現在のフォークリフトなどで荷物を移動する際使うパレット類似のもので「『すのこ』とでも訳すべきであろうか。"grating"=浴室に敷いたり(略)烹炊所におく味噌樽の下が、水に濡れないように樽の下に敷いたりする木製の下敷き」
…のことで、洗濯板の別称とはされていなかったりします
ただ戦艦「霧島」乗組の主計兵だった高橋孟さんの「海軍めしたき物語」内にでてくる厨房用具の「グレッチン」、氏自身による挿絵では完全な格子状ではなく、縦木の上に横木が並ぶ構造であったようなので、そのさまが洗濯板の凹凸を連想させての名称であったのかもしれません
無題Name名無し 25/10/05(日)09:13:17 No.567765
ともあれIJNオリジナル菓子の「洗濯板」=「グレッチング」というのはあくまで村田氏の手記からの推測になるんですが、駆逐艦「夕立」乗組員さん達編による「駆逐艦夕立」という本の中にも、畑尾秀治さんという方が艦内酒保で珍しく「たしかグレッチングと呼んでいた」生菓子が販売された時のことを記されていたりします
残念ながら形状の描写は無いんですが、「柔らかなねっとりした舌触り」とあるあたり、ぼそぼそしたパン生地やカステラ様ではなく、パンケーキかワッフルみたいな生地だったのかな?とも思われます
尤も久しぶりの生菓子の魅力に惑わされた畑尾さん、一緒に買い出しに行った同僚と思わず夢中で同班の他の人の分まで分け合って食べてしまい、食べ終わった後で我に返って青くなったそうなんですが、こちらもやはり「間宮」などの給糧艦の艦内で製造されたものだったんですかしら…?
無題Name名無し 25/10/05(日)10:14:45 No.567767
大正13年に竣工した間宮もその時点ではアイスクリームやラムネの製造設備は未整備で
こちらは間宮にそれらを搭載する昭和8年の決裁(軍務局一課長は井上成美)
無題Name名無し 25/10/06(月)01:04:00 No.567789
>No.567767
次官代決で岡田大臣は後閲かな?
主計士官だった御次男が築地の経理学校から上陸して銀座の甘味処若松に行くと日比谷東宝からやって来るヅカガールとお互いにチラ見してたと水交会誌に書いてるのを読んだことがあるけど
若松も一昨年に閉店してしまった
無題Name名無し 25/10/05(日)10:19:43 No.567768
https://may.2chan.net/39/src/1759627183108.webp
件の「洗濯板」についてもいろいろ考察があるようですが
>長さ12センチ・幅6センチ・厚さ1.5センチくらいの表面がちょうど、
>洗濯板の様にキザミが入れてあり、黒アンが覗いている非常に美味な菓子
ということで
何となく「ガリバルディ」(東ハトオールレーズンの原型)のレーズンを小豆餡に置き換え
割って食べやすいように刻み目を入れたようなものかと想像
無題Name名無し 25/10/05(日)13:28:27 No.567779
m&mももともと暑い地域で溶けにくいようにする工夫という
無題Name名無し 25/10/08(水)03:33:06 No.567815
「間宮」では補給対象の他艦艇向けに「間宮だより」という連絡・注意事項を記載したペーパーを発行していたそうなんですが、昭和8年(1933年)7月5日付け号によると
「『アイスクリーム』『最中』『ラムネ』の新増設に依り生産量前期の二倍」
…となった、なんて誇らしげに書かれておりましたりw
昭和6年(1931年)9月発行の「罐詰時報」掲載の「給糧艦間宮見学記」によれば、当時のアイスクリーム製造能力が1日1500個、ラムネが1日6千本ということで、この時点でもそれなりの数が既に製造されていたようなんですが、やはり専用機械の導入は大幅に効率を向上させたようですねえ
アイスクリームは1個4銭、ラムネは1本1銭5厘売りであったそうなんですが、大戦中「間宮」乗組みだった主計士官の宮崎虎雄さんによると、当時の名物は「抹茶アイス」であったそうです
無題Name名無し 25/10/08(水)03:34:21 No.567816
「間宮」主計長の一人だった井川一雄さんという方の回想によると、「間宮でつくる菓子は、最中と羊羹であった。而して主計長が交代するごとに菓子の種類が多くなってゆく。設備がどんどん改良されて大きくなった」
…そうなんですが、やはりIJNの主計士官だった内山正太郎さんという方曰く
「代々の主計長が前任者以上の物を作ってアッと云わせようとする処に悩みも努力もあって現今のように進歩した」
…んですとか
まあ性能要求のエスカレーションは兵器には付ものなわけですが、こちらの進歩は大いに現場の将兵さんには歓迎されたんでは無いですかしら
無題Name名無し 25/10/08(水)03:35:02 No.567817
因みに井川氏は第一次上海事変(昭和7年/1932年)の際に「間宮」乗組であったそうなんですが、
「どんな食糧をどれ位持って行けばよいのか、少しも見当がつかないので、とにかくどっさり積むことにした。しかし(略)菓子のことはあまり考えなかった」
「上海に於ける軍艦に生糧品を配給して見ると、どこの軍艦でも、生糧品よりも菓子を持って来いと云うので、すっかり驚いてしまった」
「こんなに菓子の要求があっては…というので間宮では徹夜で製菓事業をやったのである。45日間に十万個の最中やロールケーキを作った。各艦の菓子要求はいよいよはげしく、陸戦隊などは自動車を持って来て運ぶという騒ぎ」
…であったとのこと
無題Name名無し 25/10/08(水)03:35:41 No.567818
井川氏が昭和9年に語っておられるところによれば
「最中は皮だけを買ってきて、こちらで餡をつめる。その皮に間宮という字を入れたり、海軍独特の波や千鳥を描いたりする(略)ロール(※ケーキ)やロックケーキ(間宮ではフルーツバーという)ドーナッツを作って売る」
…そうで、この内の「ロックケーキ」、もしかして「洗濯板」のことでは…?と思い調べてみましたが、例えば同年出版の「製パン法図解」なんて書籍に紹介されている一般的な書籍によると、薄力粉に砂糖、重曹、鶏卵、レーズン等を混ぜた生地を文字通りゴツゴツした岩のように成形して焼き上げるもののようで、ちょっと「洗濯板」のイメージとは異なるものであったようです
無題Name名無し 25/10/08(水)03:36:21 No.567819
昭和8年2月に佐伯湾に入港した際の「間宮だより」によると「ロックケーキ」は1個2銭5厘、「ロールケーキ」は1本=8個計算で1本が20銭、「最中」が1個1銭、「羊羹」が1本4銭、「特製羊羹」が1本6銭であったとのこと
「特製羊羹」が気になるところなんですが、単純に1.5倍の特大サイズであったのか、それとも砂糖や小豆の質や量が良かったものなのですかしら
そしてこちらにも残念ながら「洗濯板」に相当するパン菓子の価格は掲載されていないようなんですが、果たしていつぐらいから艦内生産されていたものなんでしょかね…?
無題Name名無し 25/10/08(水)11:31:53 No.567822
間宮のアイスはほとんど士官向けだったらしいし、兵隊さん向け駄菓子っぽい洗濯板とかは記録が残らなかったのかも・・・
無題Name名無し 25/10/08(水)20:09:39 No.567831
いくら日本海軍が飲酒に寛容とはいえ禁酒だったアメリカと比べて飲める機会があるというくらいのものだっただろうしな
酒保でも酒だけは自由に買えず許可制だったし記念日や祝日に酒が出るくらいだったからな
中東諸国が甘い物を食べ過ぎるので糖尿病罹患率高いらしいし
飲酒できない環境だと自然に甘みを欲するようになるんだろうなぁ
無題Name名無し 25/10/08(水)21:48:11 No.567833
禁煙者の人も口寂しくなるのでつい甘味とかに手が出ちゃうとかも聞くね・・・
無題Name名無し 25/10/09(木)01:13:55 No.567837
>「特製羊羹」が気になるところなんですが、
表面がパリパリの被膜になっていたということをいつか見かけた記憶にがあります。
通常のレシピから外れた配合になっていたんでしょうね。
無題Name名無し 25/10/09(木)16:57:10 No.567843
昔の羊羹は日持ちするように練りが硬くて、表面が糖化してぱりぱりだったんですよ。
最近のはパックされて保管を気にしなくていいから、舌触りがいいようにすべすべプルプルのが好まれますけどね。
無題Name名無し 25/10/09(木)21:01:45 No.567845
ミッドウェー海戦の際、空母「赤城」に報道班員として乗艦していた牧島貞一さんという方の手記によれば
「赤城の食事はうまいことで有名だった。朝は普通の日本食であったが、昼はかならず洋食で、東京の一流レストランに匹敵するほどのものだった(略)デザートには、果物と菓子とコーヒーがでた。しかも量がうんと多かったから、私なぞよく食い残した。夜はまた日本食(略)それから午後9時ごろには夜食だった」
「これらは、特別にコックを雇って作らせていたのだ。このコックは甘いもの、とくに洋菓子には相当の自信を持った、腕達者な男だった」
…そうなんですが、そんな赤城の夜食の内容はというと
無題Name名無し 25/10/09(木)21:02:13 No.567846
「おしるこ、みつまめ、ショート・ケーキ、カステラ、おはぎなどの甘いものばかりだった」
…とのことで、便乗していた攻略後のミッドウェーに駐留予定の飛行隊の士官さんと「赤城」の主計士官さんの間で
飛「本艦の夜食はじつにうまいね。娑婆じゃ絶対に食えねえぞ」
主「本艦の料理人は、甘いものが得意でしてね…砂糖だけでも、5トン積み込みましたよ」
飛「また思いきって、たくさん積み込んだものだね。もし本艦が沈みでもしたら、太平洋が甘くなってしまうぞ」
…なんて会話が交わされていたとのこと
無題Name名無し 25/10/09(木)21:02:55 No.567847
海戦のあと、MI付近海域の海水の塩分ならぬ糖分濃度が上昇したかはともかく、士官用烹炊所に民間から軍属の料理人を雇うのは「赤城」に限らずIJNでは一般的なことでしたから、こうした民間からの雇人を通じて、それこそショートケーキのような新しい味覚が海軍内に持ち込まれる…なんてこともあったんでしょうね
(画像は昭和5年刊行の「パンとケーキ」という書物所蔵のショートケーキレシピ)
もっとも、士官待遇で牧島氏が味わった赤城の食事は当然士官食で、下士官兵以下の乗組員さん達までこうしたスイーツの恩恵が生きわたっていたかはまた別の話になるんですが、例えば重巡「愛宕」の掌衣糧長だった高林金太郎さんなどは
「新兵時代の体験から戦時下食べることにしか楽しみのない兵隊さんにはまずうまい物を腹一杯食べさせることが私の職責」
…と、常に努力と工夫を怠らなかったそうです
無題Name名無し 25/10/09(木)21:03:58 No.567848
そうした信念の下、シンガポールに入港した際などは自らトラックに乗り現地の農村に赴き、母港呉から大量に持参した煙草と物々交換でパイナップル、パパイヤ、バナナやマンゴスチンといった「南国の珍菓」をトラック一杯に集めたそうで
尤もそれでも千数百名の乗組員相手ではこれでも平等に分けるのは至難の量、暫し配分になやんだそうなんですが、
「経理学校時代、銀座千疋屋でフルーツポンチを食べたことを思い出し、烹炊員長にこれでフルーツポンチは出来ないだろうかと相談したところ、シロップさえうまく作れば可能との事」
「幸いに入港中で氷も充分手に入りましたので、あるだけの4斗樽を動員し大量のフルーツポンチを作」
…ったそうです
無題Name名無し 25/10/09(木)21:04:25 No.567849
「日本海軍広しといえども南洋の珍菓で作った豪華なフルーツポンチを兵隊さんの夜食に供したところは、愛宕が初めてではなかったでしょうか」
…とは高林氏は語っておられるんですが、「愛宕」の所属する第4戦隊4艦重巡の掌衣糧長は4人とも同年兵、しかも3人まで選修学生という縁もあって
「献立表も交換しあいお互いに研鑽しあった」
…為、「愛宕」のみならず第4戦隊全体のメシウマ化に繋がったんですとか
アイデアの元ネタになった銀座千疋屋のフルーツポンチは大正12年同店発祥のデザート、元祖とはいえ、原料果物の鮮度という点ではこの時の「愛宕」特製品には流石に一歩譲ったと思われるんですがw
熱意ある担当者に恵まれた艦や部隊では、時には水兵さん達も思いがけない上等のデザートにありつけたみたいですねえ…
無題Name名無し 25/10/10(金)09:37:25 No.567853
海軍の経理学校が築地にあったんだっけ?
きっと勉強と称して銀座の色んな店の食べ歩きを・・・
無題Name名無し 25/10/11(土)05:09:17 No.567863
海軍経理学校から海軍省まで歩いていくと途中に東宝(東京宝塚)劇場があったのよね
無題Name名無し 25/10/11(土)08:45:19 No.567865
>本艦の料理人は、甘いものが得意でしてね
三代目艦長だった山本五十六は名うての甘党なので
その薫陶が艦の空気に残っていたものか
陸軍の「軍隊調理法」で羊羹の砂糖は「蒸し羊羹」で1人あたり90グラム
「流し羊羹」で1人あたり60グラムとされている一方で
海軍の教範では10人前1500グラム、即ち1人あたり150グラムで
どうも海軍のものの方が甘かった模様
確か阿川弘之が「軍艦長門の生涯」か何かで
「海軍は自前のフネで外地から無税の砂糖を持ってこられるからラムネも甘い」
と書いていた記憶があるが
海軍で砂糖が潤沢に使えたのはあるいはそういうことだったのかも
無題Name名無し 25/10/11(土)09:20:56 No.567867
>陸戦隊などは自動車を持って来て運ぶという騒ぎ
これ、もしかして宣撫工作用途?
現地の子供が「ぎぶみーよーかん」「ぎぶみーせんたくいた」
…とは言わないだろうが
羊羹の老舗「とらや」も軍に菓子を納めていたことはよく知られているが
この「海の勲」という銘からして海軍専用品だったのだろうか
そうすると陸軍専用銘柄もあったのかね
無題Name名無し 25/10/12(日)18:08:51 No.567874
>そうすると陸軍専用銘柄もあったのかね
「虎屋」17代目社長の黒川光博さんの著書によると
「虎屋が軍に納入した菓子の主力は羊羹でした。海軍用は円筒形の『海の勲』、陸軍用は四角形の『陸の誉』。これらは出征した兵士に配られるため、携帯できるよう小ぶりに作られていました。もともと『海の勲』は桜、『陸の誉』は星を配した羊羹として店頭販売していたものでしたが、昭和16年以降本格的に軍用菓子の製造が始まるようになったのを機に、形を変えて同じ菓名で作るようになったのでした」
…そうです
他にも戦地慰問用に菊と桐をかたどった押物菓子なども製造していて、戦死者のご遺族などにも下賜されていたそうなんですが、戦争が激しくなると生産が追い付かなくなり、一家族当たりの配布量を減らさざるを得なくなった…なんてちょっと悲しい話も記されておりましたり
無題Name名無し 25/10/12(日)18:10:29 No.567875
https://may.2chan.net/39/src/1760260229799.png
ともあれ「海の勲」らしきヨーカンの話は、海軍の戦記など読んでますとちょこちょこ出てきまして、例えば吉田満・原勝洋さん共著の「日米全調査戦艦大和」には「大和」は沈んだ時、「虎屋の羊羹」を食べずに沈めてしまったのが本当に残念だ…なんて乗組員の方の証言が紹介されていたりします
因みに光博氏の先代光朝さんの回想記にもこのIJN御用達の羊羹の話が出てくるんですが、「戦争中は(略)ボール紙の円筒に羊羹を流し込み、海軍の糧秣として南方へ送った。現在の羊羹のほとんどは紙袋に流しているが、その最初のものである」
「戦後しばらくして、銀座のバーで米国の二世の方と隣に席を並べたことがあった」
無題Name名無し 25/10/12(日)18:11:20 No.567876
https://may.2chan.net/39/src/1760260280490.png
「虎屋の社長と名乗りをあげたら、その二世は
『実は戦争中南方の島で捕獲した、虎屋の円形の羊羹を積んだ船が、日本軍の爆撃にあって沈没しました。漂流していた数日間、羊羹ばかり食べて過ごしたところを救助されたのです』
と話された。羊羹のカロリーは100グラムで約300カロリーあるので、当時の120グラムの羊羹を5、6本も食べれば、何とか身体がもったのだと思う。皇軍将兵のための羊羹が、二世の方の命をも救ったわけで、何か因縁話のような事実である」
…なんて、ちょっと面白い話が紹介されていたりします
この時光朝氏は二世の方から「新しい羊羹の食べ方」として、ウィスキーやブランデーをストレートで飲むとき、賽の目に切った羊羹をつまみにすると美味しい…と教えてもらったそうなんですが、お酒も甘味も両方好き…という方は、試してみては如何でしょうか…w
無題Name名無し 25/10/12(日)18:40:56 No.567877
詳細な御教示ありがとうございます
沈めたと言えば武蔵も被雷の時に浸水で海水に浸かった虎屋の羊羹を処分した話が
堀元美さんの著作にもありましたな
無題Name名無し 25/10/13(月)00:17:53 No.567878
>17代目社長の黒川光博さんの著書によると
実体験かと思ったけど昭和17年生らしいから先代から聞き取った話しの取りまとめなのかな?
無題Name名無し 25/10/13(月)07:18:21 No.567881
羊羹は常温でも長持ちするって点で兵隊さんにはありがたいお菓子だよね
他のアンコ菓子はみんな生菓子ばかりだし・・・
無題Name名無し 25/10/14(火)16:18:41 No.567892
>羊羹は常温でも長持ちするって点で兵隊さんにはありがたいお菓子だよね
>他のアンコ菓子はみんな生菓子ばかりだし・・・
実際カロリー電池としての携帯糧食にはうってつけなんだ
そもそも砂糖自体が結構有効な防腐剤なわけだし、水分量によって劣化しちゃう付属物(求肥とか)がなければそれだけで長持ちするんだ
無題Name名無し 25/10/14(火)16:28:03 No.567893
https://may.2chan.net/39/src/1760426883989.png
千葉県成田の老舗菓子店「米屋」さんなども戦中、主に同県内のIJA相手に羊羹などの甘味を納めていたそうなんですが、千葉日報社刊の「幻の本土決戦:房総半島の防衛」という本に、戦中昭和18年、米屋本店社長の諸岡長藏さんが零戦1機を献納(報国118号)したというエピソードが収録されていたりします
諸岡長蔵さんの伝記には、養子順一さんが召集され、横須賀海兵団に入団し香取国体に所属した時の兵籍番号が「横ロ水1181号」で、「諸岡号の1181と同じ番号(ママ)」と聞いた時には
「これはいいわい(1181)、いいわい(1181)」
…と大いに喜んだ、と伝えられているそうです
当時の零戦の献納価格が1機8万円、千葉では野田醤油が「キッコーマン号」として4機を献納したりもしているそうなんですが、少なくとも羊羹の売り上げで戦列に加わった零戦が1機はあったみたいですねw
無題Name名無し 25/10/14(火)16:29:48 No.567894
余談ですが明治33年(1900年)の長崎で、中川安五郎さんという方が地元老舗の福砂屋さんなどで修業の末、カステラが主力商品の菓子店を開いているんですが、明治42年(1909年)にセールスマン役として入店した、実弟の宮崎甚左衛門さんの回想記によると
「その頃のカステラの値段は1斤40銭だった(略)弟が何所から聞いて来たか、三日月堂という菓子屋が軍艦に注文取りに行って、相当な商いをしていることを聞きこんだ」
「これはいい考えだ──と思って、早速そのとき長崎の港にはいっていた『千歳』という少尉候補生の練習艦に行ってみた。すると、たしか10円くらいの商売があった」
「すっかり味を占めて、それから長崎に軍艦が来るたびに行った」
無題Name名無し 25/10/14(火)16:31:57 No.567895
「軍艦での商売には、これまた要領があった。1斤を20切れぐらいに切った見本を持って行って、味を見てもらうのである(略)愛嬌よく応対しているうちに、──おれのくにの家に何斤だけ送ってくれ──というようなことになるのである」
「こうして、軍艦行きがなかなかいい商売になることがわかり(略)茂木に第3艦隊の『周防』『相模』などがはいったときくと、だれよりも先に飛んでいった。そして1日で100斤以上の注文をもらった。100斤を越したことは、それまでになかったので、まったく天にも昇る思いだった」
「大正5年の春。佐世保に連合艦隊がはいってくるという情報を聞いたので、思い切って遠征してみた。もちろん紹介も何もない(略)片っ端から軍艦に乗りつけるのである。ところが、なんと、最初の日に2百数十斤を売り上げたのであった」
無題Name名無し 25/10/14(火)16:32:47 No.567896
「私は、いつかは独立して店を持ちたいとその機会をうかが(略)ていたのだが、この外売りの好成績によって、すぐさま意を決した」
「軍艦には『申し受け』というものがあった。これは食卓長が管理しているオヤツの菓子である」
「軍靴の夕飯は5時、これを食べてしまったら、なんにも食べるものはない。若い人たちだから、消燈までに腹も減るし、当直の士官は夜中にウォッチに立たねばならない。そこで、1袋10銭という甘味品を用意しておくのである。この注文を受けると、ずっとひきつづいて取ってもらう可能性が多いので有難かった」
「呉鎮守府に司令長官村上格一中将を訪ねて注文をもらった。佐世保時代にひいきにしていただいたからである」
無題Name名無し 25/10/14(火)16:38:10 No.567898
「司令長官や艦長に直接注文をとりにゆくのである。普通だと、当番の水兵が取り次いでくれない。それを、長官にお気に入られてしまったので(略)長官室にドシドシ入ってようになった。水兵が直立不動の姿勢で敬礼してくれるのである。ある水兵が、『カステラ屋さんは、えらいもんだなぁ、長官室に入って行けるなんて…」と、つくづく感心してそう言った」
…そうです
もっとも好事魔多しの例え通り大正10年(1921年)のワシントン会議で世界的な海軍軍縮の流れが確定、海軍さん相手の商売の未来にも暗雲が立ち込めてしまうんですが、逆にそれをきっかけに一念発起した宮崎氏、華の帝都への進出を図り、紆余曲折はあったものの、大手百貨店との提携を勝ち取るなどして、遂には今日も「文明堂」の名で知られる全国的企業にまで発展させたそうなんですが、その礎になったのは、九州時代のIJN艦船への飛び込み営業であった…ということなんですかしら…
無題Name名無し 25/10/14(火)18:13:44 No.567899
紹介も何もないのによく軍艦なんて機密の多いところで門前払いされなかったな…
それだけ甘味が欲しかったというところか
無題Name名無し 25/10/14(火)21:45:56 No.567903
>紹介も何もないのによく軍艦なんて機密の多いところで門前払いされなかったな…
>それだけ甘味が欲しかったというところか
イギリスの軍艦にスイカを売りに行くでごわす!(薩摩脳
まあ太平洋戦争の最中でも民間の漁船から直接魚買ったりもしてるし・・・
無題Name名無し 25/10/14(火)18:31:25 No.567900
>茂木に第3艦隊の『周防』『相模』などがはいったときくと
『周防』『相模』と言えば元「ポビェダ」「ペレスヴェート」ですな
改装工事の時に烹炊施設も全部日本式に置き換えて
ロシア式のオーブンやら何やらは撤去してしまったんでしょうね
無題Name名無し 25/10/16(木)08:49:45 No.567907
>ロシア式のオーブンやら何やらは撤去してしまったんでしょうね
多くは飯炊き用のボイラー窯に入れ替えただろうけど一部は残してたんじゃないかな
士官は洋食を食べる機会も多いからオーブンも使うと思うし
無題Name名無し 25/10/16(木)12:22:10 No.567908
>「大正5年の春。佐世保に連合艦隊がはいってくるという情報を聞いたので、思い切って遠征してみた。もちろん紹介も何もない(略)片っ端から軍艦に乗りつけるのである。ところが、なんと、最初の日に2百数十斤を売り上げたのであった」
長い船上生活で娯楽と刺激に飢える水兵さんにとって、港への寄港とそれに伴う上陸は最大の楽しみで食物にも金を払う気満(航海手当もたっぷり)。
例えすぐに艦に入れなくても、門前にいれば飢えた水兵さんがわんさか出てくるし、そこで好評を得れば船上でも楽しもうとまとめ買い&艦に戻れば「おいその菓子なんだよ」って水兵同士で話題になり、本当に美味い菓子なら酒保用に大量購入も狙える。
賞味期限の長い菓子屋にとっては理想的な売り込み先だなぁ。
無題Name名無し 25/10/17(金)21:15:21 No.567916
1995年頃の話だけど自分の居た分屯基地にも
何か商品の説明に来ている業者の人達が居たな
勿論許可を取ってだろうけど。
自分はマホガニーのCDラジカセを買った
同期の子はマッサージ機
無題Name名無し 25/10/17(金)22:52:28 No.567917
基地や駐屯地にも「ヤクルトさん」は来るのだろうか
地連みたいな街中のオフィスなら来てそうだが
無題Name名無し 25/10/19(日)15:02:33 No.567928
>基地や駐屯地にも「ヤクルトさん」は来るのだろうか
場所にもよるだろうけど市ヶ谷や目黒は来てたよ
オフィスグリコもやってたしキッチンカーも定期的に来る
部隊によっては近くの授産施設の手作りパンとか
厚生センターの展示即売は色々来るね
無題Name名無し 25/10/19(日)10:49:11 No.567921
日露戦争の頃、東京赤坂溜池の辺りに店を構えていた森永製菓さんでは、バルチック艦隊撃滅の大勝利を記念して「砲弾形マシマロー」なるお菓子を製造、東郷連合艦隊司令長官にも献上した、なんて記録が残っておりますそうで
やっぱり、口に含むと下瀬火薬の炸裂のようなパンチの効いた味がしたんですかしら(棒)
因みに日本海海戦の行われた明治38年(1905年)、東京牛込区(今の新宿区ですね)市ヶ谷の陸軍士官学校に、後の陸軍大将今村均さんが入校されておられるんですが、氏の回想記によりますと、規律厳正な候補生生活の間、最も苦痛な懲罰は週一の楽しみである日曜外出の差し止めであったそうです
無題Name名無し 25/10/19(日)10:52:29 No.567923
そして幾度目かの外出止めの際、その時今村さんの規律違反の原因となった同期生の方が、お詫び代わりに外出先でこっそり買って校内に残る氏に差し入れてくれたのが「ワッフル」であったそうなんですが、
曰く
「半世紀前の、東京での洋菓子は、ワッフルが最上のものとなっており、値も高かった。包みといてみると、20個ほどもはいっていた。こんなものを、校内で口にすることは、大きな反則だ。が、同輩の友情、否、私の餓えている腹の虫は、これを捨てるような気にはさせず、誰もいない広い自習室で、すぐ3つ4つを口に入れた」
…ものの、
「何んと不運のことか(略)将校靴の響く音が、聞こえてきた。週番士官の巡視」
…が近づいてきたんですとか
無題Name名無し 25/10/19(日)10:54:51 No.567925
咄嗟にワッフルを上衣の下にかくし、自習室を出たものの、その様子がいかにも怪しげだったものか、週番士官さんはそのまま今村さんの後を追ってくる様子
校内の松林辺りに隠れて残りを口にするつもりだった氏も進退窮まり、敷地内をあちこちを延々と歩きまわった挙句、咄嗟に便所に飛び込んで、残りのワッフルをその中で投げ捨てざるを得なかったそうです
便所を出たところで早速待ち構えていた週番士官さんにつかまり、不審な行動を追及されたものの、何とか言い逃れには成功したそうなんですが、惜しまれるのは大半が食えずじまいに終わったワッフル
大いに悔いが残ったそうなんですが、その後無事卒業・任官した今村さん、およそ5年後に所属の師団とともに朝鮮に駐屯することになったんだそうで
無題Name名無し 25/10/19(日)10:55:47 No.567926
そこで再会したのがIJA在朝鮮軍の参謀になっていたその週番士官さん、早速今村氏ら同期生が恩師を民間料理店に招いて食事会を行ったそうなんですが、その席で氏がその件の実情を告白すると、後日の参謀さんから会食の礼状にそえ、ワッフルが50個ほど送られてきたそうですw
食べそびれたワッフルは5年後に倍になって戻ってきたようなんですが、ここで気になるのはこのワッフルの詳細
ワッフル自体は先述の明治22年刊の「和洋菓子製法独案内」にも「ウヲツフルズ(Woflles)」として紹介されているそうなんですが、東京の界隈の菓子店でメジャーになり始めるのは明治20年代、京橋南鍋町(銀座)の米津風月堂分店で販売が開始されてからであったそうです
無題Name名無し 25/10/19(日)10:57:28 No.567927
風月堂の物は生地などが日本人向けにアレンジされていた他、風月堂日本橋両国店の店長米津松蔵さんの生まれが信濃だった縁で、同地の乾杏を使ったジャムがサンドされているのが特徴
一方、今日は新宿中村屋として有名な中村屋さんがジャムではなくクリームワッフルを売り出すのが明治37年(1904年)
此方だったならまさに考案されたばかりの新しい味だったわけですが、中村屋さんは新宿に移転するのが明治42年とのことで、この時点では店舗の所在地は本郷の帝大(現東大)前であったようです
市ヶ谷の士官学校から買いに行くとして、さて若き日の今村IJA大将の思い出のワッフルの味は銀座風(ジャム)か本郷風(クリーム)か、はたまた後追いの他店の製品であったのか…どうだったんでしょかね?
無題Name名無し 25/10/20(月)09:07:24 No.567933
軍人さんはお酒と甘いものが好き…
といっても両方いける人よりはどっちかっていう人のほうが多いんですかね?
無題Name名無し 25/10/25(土)09:04:27 No.567994
>軍人さんはお酒と甘いものが好き…
>といっても両方いける人よりはどっちかっていう人のほうが多いんですかね?
亡父は少年飛行兵出身だったので10代で任官していた
未成年喫煙禁止法は1900(明治33)年、未成年者飲酒禁止法は1922(大正11)年だが
少なくとも現地部隊では未成年関係無く
階級職務相当の酒、煙草等嗜好品も「上がった」(亡父は支給されることをこう表現)
想像するに補給する側にしても「何某部隊・下士官パイロット何名」とあれば
「うち支給時点の未成年者何名」とまで煩雑な作業はしない・できないのは当然で
煙草などは吞まない人間が支給された分を物々交換に使うことはあるにしても
娯楽の少ない戦地のこと、結局は酒も甘味も全部楽しむようになったものかと
無題Name名無し 25/10/25(土)09:10:57 No.567995
ちなみに下士官パイロットに「上がる」煙草の銘柄は内地では「鵬翼」
ジャワに駐留するようになってからは現地生産の「興亜」
ジャワだけに砂糖もコーヒー豆も有り余っていたので
菓子は品物を憶えているほどありがたがられていなかった模様
むしろ外出時に現地人の屋台で買い食いする揚げバナナあたりのほうが思い出せたとか
無題Name名無し 25/10/24(金)15:58:40 No.567977
明治45年に、明治天皇の後を追って殉死された乃木希典陸軍大将のご自宅には「壽号」と「璞号」の二頭の愛馬の暮らす馬小屋もあったそうなんですが、大正3年発行の「乃木院長記念録」によればその最後の日のこと、
「院長(※乃木大将)は突然手に菓子(カスティラ)を山の如く携え厩の馬に与えんとせられ(略)二頭の鼻梁を交る交るに愛撫せられ左手に携えたる菓子を親しげに与えられ暫し見詰められて後還り行かれ」
…ておられたそうです
愛馬たちとのお別れのお土産は「カスティラ」であった…というお話みたいなんですが、不謹慎ながらやはり気になるのは何処のカステラであったんでしょう…というところ
先述のように、今東京でもお馴染みの文明堂さんが東京に進出するのは関東大震災のちょっと前ごろ、大正の御代になってから暫くのことですので、少なくともそちらではないのは確かであります
無題Name名無し 25/10/24(金)15:59:53 No.567978
とはいえまあ確たる記述は見つけられなかったんですが、小島政二郎さんという作家の方のエッセイに戦前の東京のスウィーツの思い出について語ったところが有りまして、曰く
「カステラ、これも風月のがうまかった。今や東京は長崎のカステラに征服されてしまったが(略)ネバリのない、サッパリとした風月のカステラの方が私は好きだ」
…とのこと
私なんかはもうカステラ一番電話は二番♪三時のおやつは…の方が馴染み深い世代ですけど、乃木さんが愛馬達に与えたのもやはりそうした昔ながらの「東京風」のカステラだったんでしょかね、やっぱし
因みにコレは余談ですが、時代は下って大東亜戦争の真っ最中の昭和17年に発行された本で、「高射砲戦記」と題するものがありましたり
無題Name名無し 25/10/24(金)16:01:58 No.567979
内容はあるIJA高射砲部隊隊長さんの体験記なんですが、進行中の対米英戦ではなく、昭和14年のノモンハン事件のときのもの
その中に「今川焼と兵隊」と題する一章があるんですが、戦闘中一旦後方連絡にハイラルまで下がった下士官さんが、部隊の兵隊さん達に頼まれて序に買い出してきた甘味品を配る際の
「戦場(戦場には違いないが…)のような大変な騒ぎ」
…の様子が、活き活きと描かれていたりします
兵隊さん達のリクエストは「キャラメル」「羊羹」「グリコ」「パイ罐」と多彩で、「今川焼」もその一つなんですが、リクエストした上等兵さんが折角の今川焼を買い出しの帰り道に空腹に耐えきれなかった曹長さんに全部食べられてしまい拗ねるも、「羊羹6本」で賠償され忽ち機嫌を直す…というような他愛のない様子が温かい目線で語られていて、なかなか読んでいて心温まるものがあります
無題Name名無し 25/10/24(金)16:02:57 No.567980
著者の田中新三郎さん曰く
「戦場では、兵隊は非常に甘い物を欲しがるものだ。羽子板や風船、独楽等が喜ばれると言う人があるが、事実だろうか。切実に欲しいもの嬉しいものは、この甘味品じゃないだろうか」
…とのことで、もしかしたいくら銃後の方々の善意とはいえ、甘味品を期待して開けた慰問袋からそういう玩具の類が出てきてガッカリされた実体験があるのでは…?なんて邪推しちゃうんですが(棒)
ともあれ、戦場での甘味類の価値がよく伝わってくる話ではあります
…まあそれにしても、こちらは戦中の検閲を経て出版された書物ですから、やはりアレは大判焼きでも回転焼きでもなく、今川焼こそが正しい名称というコトが、IJAのお墨付きで判明してしまったようですねえ…
(火種を撒く発言)
無題Name名無し 25/10/24(金)20:07:03 No.567985
>(火種を撒く発言)
やっと世が平定される音がした。
大正義今川焼。
っていうか、そんな昔からあったんですね。
無題Name名無し 25/10/24(金)20:17:20 No.567986
>>(火種を撒く発言)
>やっと世が平定される音がした。
>大正義今川焼。
うちの方では太鼓饅頭ですな
無題Name名無し 25/10/24(金)20:23:26 No.567988
ベイクドモチョチョとかいう
何から生まれてどんな意味があるのかすらわからん
へんな呼び名が好き
無題Name名無し 25/10/24(金)21:34:32 No.567989
御座候だろう?!引用元:https://may.2chan.net/39/res/567697.htm
というか調べたら江戸時代からあるお菓子なのね
満州国でも売られていたとは・・・


























コメント
結果的に洋菓子を食べる機会も増えた。
対して一般兵は馴染みの和菓子で満足することに。
間宮で羊羹と最中がメインだったのに通じる。
異色なのがパイロット糧食。
必ずチョコレートがあった。
インド人のケーキ作り動画で生地を手で混ぜてて、
衛生意識の低さにドン引きしたが。日本でも昔は手で混ぜてたんだな。
もしかしたらインドのあれも、イギリス由来の古いやり方が今でも残ってるだけなのかも。
個人的にはシベリアみたいなもの説が一番しっくりきてますが真相は果たして…
そもそも証言者たちが残した『洗濯板』が同一のものであった確証もないので永遠に謎なんでしょうけど
「肉じゃが発祥地論争」のように金が絡んでやっかいなことにならないままでいて欲しいですね
お菓子大国のフランスとドイツではどんな軍用菓子があったんだ?
料理に砂糖使わない欧州だと食後の甘味は必須だと思うのだが。
それにしても、軍人稼業は偉くなるほど&歳食うほど糖尿病リスクが上がりそうね。
自腹なので艦長クラスは職人を乗艦させたりができた。
途中出てくる従軍記者は、自腹ではなく会社が金を出しているので士官食堂で士官と同じものを食べながら、タダ飯なのでそりゃあ美味いだろうよ。
フランスは分からんけどドイツはショカコーラが代表例>軍用菓子
他には棒状のクッキーなWeike Bardeとか粉ジュースのMarsch-Getränk
後は即席プリンが作れるプディングパウダーとかもあったみたいね
ショカコーラ食べた事があるよ。
戦闘糧食で必ず出てくるショカコーラ、どんな味なのか楽しみで近所の店で買えると知って結構な量を買って食べた。
あれは人気が出る味だと思う。
いけませぬ…この白い粉が私めを狂わせるのでしてー
「棗ケーキ」を食べてみたい。
レーション本体の評価は散々だが、コイツは評価高い。
イギリスのレーションといい、レーション本体が不味いと菓子が美味い法則が発動するようだ。
不肖宮嶋氏はオットットがカンボジアで人気だったって。
軍用だと「不眠不休」になる魔法の粉を疑う。
昭和のケーキが不味かったのは日本が貧しかったからだと思う。
昭和40年代のショートケーキは本当に不味かった。
小学生の頃、見た目に騙されて、親に強請って買って貰ったけど、
実際に食べるとひたすらに油っこくて、だだ甘い一つ食べると気分が悪くなるような代物ばかりだった。
戦後の食糧難の時代を生きてきた人たちが大人になって作ったケーキだから、きっと甘くて油っこいこと自体がご馳走だったんだろうなぁと推測
>海兵がシンガポールで食べたっていうショートケーキも現代で手に入るものに比べたらずっと不味かったんだろうな
貧しかった日本の洋菓子と同列に語るのは、シンガポールに失礼じゃなかろうか?
君こそ戦後の食糧難を生きた人に対して失礼だぞ。
昭和のショートケーキが不味かったのは質の良いバタークリームや生クリームが無かったからだよ。
その後、改良されていった現代のショートケーキと1940年代の世界で出せるショートケーキを比べてどちらが不味いか?となれば当時のケーキの方なんじゃないの?
ショカコーラ、俺も買って食べたが、人により好みがかわる味だと思う。自分は割て口にあっていたが。
トッカグンが人民解放軍のレーションのチャーハン試食してたけど味は良かったみたいよ。
米軍らしいというかなんというか。
>昭和のショートケーキが不味かったのは質の良いバタークリームや生クリームが無かったからだよ
君、想像で語ってない?
昭和40年代のショートケーキ食べたこと無いでしょ?
油の質だけじゃなくて、糖分過多で異様なまでに甘かったんだよ。
私は実際に食べていた世代だし、更に言うと祖父が中国大陸で出版事業をやっていた関係で、母は戦後の引き上げまで北京や南京で暮らしていた。
実体験として戦前戦中の大陸側の食糧事情を知っているし、戦後の食糧難も体験している。
>昭和のショートケーキが不味かったのは質の良いバタークリームや生クリームが無かったからだよ。
乳製品の入手難易度が全世界共通だとでも思っているのかな?
実体験として知っているのは母で、その体験談を聞いて育ったから、国や地域によって各種食材の入手難易度に違いがあるのは理解している。
開戦当初の中国の都市部と日本の戦前、食料難の時代、昭和40年代、いずれも乳製品の入手難易度は異なる筈で、実際に食べた事もない昭和10年代後半の外国のショートケーキと現代日本のショートケーキを空想で比較してマウントを取る行為は恥ずかしいことだと思うけどね。
教えてくれてありがとうね。
ただ何に怒ってるの?
・昭和のショーケーキは不味かった
→クリームなどの質が悪かったから他の食材でごまかした結果、あなたの書いた通り脂っこい上に糖分過多になってたんじゃないの?
あなたはそれを「ご馳走だと思って作っていた」という推測をしてたのでそれは違うでしょとコメントしましたが、不味かったことは否定してないでしょ。
・空想で比較してマウントを取る行為
→昭和10年代後半の外国のショートケーキを食べたことが無いのはあなたも同じでは?
私は当時のケーキの味を知りませんが、その後数十年改良されてきた現代のケーキの味の方が上だと思っています。
それともあなたは当時のケーキを実際に食べた経験や何かの知見があって現代を凌ぐ味だと考えてるの?
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