無題Name名無し25/04/05(土)08:53:00 No.564365
https://may.2chan.net/39/src/1743810780347.jpg
天守閣は加農砲を耐えられるのか
無題Name名無し 25/04/05(土)09:07:51 No.564367
日本で天守閣に砲撃が加えられたケースとしては、1614年の大坂冬の陣と1868年の戊辰戦争時に起きた会津若松城籠城戦等があるから、それを参考にすれば?
無題Name名無し 25/04/05(土)09:46:16 No.564369
https://may.2chan.net/39/src/1743813976366.jpg
そんな事より門が砲弾一発で粉々になることを考えたほうが良い
無題Name名無し 25/04/06(日)09:06:16 No.564393
>そんな事より門が砲弾一発で粉々になることを考えたほうが良い
枡形内に大砲入れられないから防御効果絶大なんだよなあ
まあ小口径の歩兵砲とかでも余裕で突破できるんだけど
無題Name名無し 25/04/05(土)21:08:15 No.564384
>天守閣は加農砲を耐えられるのか
頑張りましたけどダメでした
無題Name名無し 25/04/06(日)09:40:47 No.564394
https://may.2chan.net/39/src/1743900047626.jpg
>天守閣は加農砲を耐えられるのか
福山城 鉄板貼りました
>頑張りましたけどダメでした
外観からは損害が大きいように見えるが柱や梁は損傷していなくて構造的には問題無かったという記録がある
無題Name名無し 25/04/06(日)09:49:32 No.564395
https://may.2chan.net/39/src/1743900572531.jpg
>天守閣は加農砲を耐えられるのか
当たらなければ(届かなければ)どうという事はない
無題Name名無し 25/04/06(日)13:30:41 No.564397
第四師団司令部ですぐそばに陸軍砲兵工廠があり1トン爆弾が落ちてきたりもした大阪城の石垣が今も健在なのすごいよね
無題Name名無し 25/04/06(日)19:00:36 No.564398
逆に戦国が長く続いて攻城砲が日本にも普及したとき
どう進化したか知りたい
無題Name名無し 25/04/06(日)20:09:25 No.564401
>逆に戦国が長く続いて攻城砲が日本にも普及したとき
>どう進化したか知りたい
江戸時代の停滞を経て幕末再び戦乱が迫ったとき
新たに建てられた松前城や園部城では大砲の目標にならないように櫓門の渡櫓の背を低くしたりした
五稜郭では縄張りは西洋式だったし大砲の的になるような大型の建物は殆ど建てなかった
あのまま17世紀で大砲時代が本格化したら櫓や天守は消えていただろう
無題Name名無し 25/04/06(日)21:51:30 No.564403
>新たに建てられた松前城や園部城では大砲の目標にならないように櫓門の渡櫓の背を低くしたりした
松前藩は艦砲の射程外になる函館郊外に築城しようとしたが街が廃れると反対意見が出て仕方なく住んでいた福山館を改修して松前城と改めた、希望の地に築城できると限らないのが辛い所
>あのまま17世紀で大砲時代が本格化したら櫓や天守は消えていただろう
大坂城、江戸城天守が焼失しても城の機能に差し支えないから幕府は再建しなかった、一方、諸藩の大名にとって天守の修繕費用は頭の痛い問題だった、特に姫路城天守は地盤沈下で天守が傾いていて城は幕府からの預かりものであるから絶対に倒壊させる訳にはいかず、金銭面だけじゃなく精神的にもプレッシャーだった、壊せるものなら壊したいという大名も居たかも
無題Name名無し 25/04/07(月)02:18:46 No.564406
>あのまま17世紀で大砲時代が本格化したら櫓や天守は消えていただろう
櫓はともかく、天守は周囲に権威を見せつけるための
もので実用性 (居住や防衛施設) は元から皆無では…
無題Name名無し 25/04/07(月)06:24:13 No.564407
ある物を活用するって方法論だったが天守実戦で実用性皆無では決して無いぞ
朝鮮征伐でも本丸内で守備戦になって天守から反撃したとかあるようだし
関ヶ原以降の天守は防御施設のつもりで建ててる
無題Name名無し 25/04/07(月)20:33:27 No.564416
https://may.2chan.net/39/src/1744025607178.jpg
>実用性 (居住や防衛施設) は元から皆無では…
姫路城天守の周りを小天守が囲っているのは威厳を示す目的もあるが本丸内に天守曲輪を造る事で防御力を高めるのが真の狙い、熊本城、松江城天守は内部に井戸を掘り、天守単独でも籠城できるようにしている、破風なども単なる飾りでは無く内部は隠し部屋として兵を忍ばせるようにした城もある、彦根城天守の狭間は漆喰で隠されているが、有事には内部から、ぶち破れるようになっている
無題Name名無し 25/04/12(土)20:34:26 No.564532
>逆に戦国が長く続いて攻城砲が日本にも普及したとき
>どう進化したか知りたい
江戸時代に入ってからだけど岡山城後楽園は大砲に対抗するために庭という名目で作られた
城を大砲の射程距離外に置く広さで庭としての体裁を持ちながら池などで防御力も持たせたとか
無題Name名無し 25/04/12(土)21:19:46 No.564534
https://may.2chan.net/39/src/1744460386197.jpg
岡山城は防御正面には水堀で区切られた曲輪が重ねられていたが後背の守りを旭川にまかせていた
しかし旭川の対岸に大砲を置かれると城内が射程圏内になる
そこで後楽園を築いたと
無題Name名無し 25/04/08(火)08:15:02 No.564425
西洋の城はどうだったんだろう?
無題Name名無し 25/04/08(火)09:13:53 No.564429
>No.564425
大砲の発達と比例するように城壁という存在が綺麗に消滅していったことが答えかと。
無題Name名無し 25/04/12(土)21:06:55 No.564533
https://may.2chan.net/39/src/1744459615280.jpg
>西洋の城はどうだったんだろう?
垂直の城壁は容易に崩されるのがコンスタンティノープルの陥落で知られた
なので斜面の低い防壁に変わった
防御側も火器を有効利用するために十字砲火が利く星型などの構造になった
無題Name名無し 25/04/12(土)21:33:40 No.564535
火縄銃は密集しすぎると飛び火して暴発を起こしかねないとか
なので城に配置する場合面積当たりの火力を高めるのには限界がある
しかし二階建て三階建ての建物を構築し配置すれば同じ面積で火力を二倍三倍に高めることができる
防御側は相手の鉄砲から守られながら火力でも圧倒することになる
無題Name名無し 25/04/13(日)11:29:29 No.564547
稜堡式城郭が欧州で築かれるようになったのは、攻城砲の進化により城塞都市が砲撃に晒されるようになったので、防衛用に、その周りに築かれるようになった、日本で言えば大坂城の真田丸のようなもので、五稜郭のように単独で築いても戦術的価値は低く砲撃に晒されるだけ、領主の居館になるような施設でもない、また日本でも戦乱が長引いて攻城砲が普及したらという話も出るが、欧州の様になるかと言えば、考えにくい面がある、日本は国土の7割が山という山岳国で、欧州の様に陸路は舗装されておらず橋も木橋、重量物を運べるインフラが整っていない、鶴ヶ城の砲撃にアームストロング砲が使用されたが口径64ミリの軽野砲で爆発の威力も現代の手榴弾と大差ないレベルらしい、投入された数も僅かで主力となったのは四斤山砲、熊本城の攻撃にも使われたが、これでは落城まで追い込むのは難しい、艦砲が浴びせられる立地の城なら別だが内陸部の城攻めには厳しいと思う
無題Name名無し 25/04/15(火)04:50:02 No.564603
大阪城の陥落は?
あと長篠の合戦で銃だけぐるぐるまわせば名人が連射できるのに
と思ってたけどそういう理由だったんですね
無題Name名無し 25/04/16(水)21:32:06 No.564662
なんで宇土櫓?
無題Name名無し 25/04/17(木)19:47:53 No.564681
>なんで宇土櫓?引用元:https://may.2chan.net/39/res/564365.htm
熊本城、第三の天守と言われているからじゃね、現存天守と比較しても姫路、松本、松江城天守に次ぐ高さ
コメント
先ず作事(建築物)について。戦国時代末期の慶長年間には西欧の大砲が導入されたため、城壁や天守などには耐砲撃用の分厚い外壁が設けられました。例えば名古屋城天守などには、一寸3cm厚の檜板積層に一尺30cm厚の漆喰壁を耐砲撃城壁としています。一方で、一世代前の豊織系の望楼式天守(例えば松本城天守など)には耐砲撃性は見受けられず、徳川系の層塔式天守(名古屋城天守など)が普及する慶長後期から耐砲撃性城郭作事に切り替わったのでしょう。その耐砲撃性は、250年後の最新西洋砲撃にも崩壊しなかった会津若松城天守が、見事に証明しています。
次に普請について。西洋城塞は石・煉瓦の壁を建設したのに対して、日本城郭は自然の傾斜地形を用いた土質・石垣壁面を多用しました。この違いによって、西洋城塞がトルコ帝国を始めとする大砲攻城戦には破壊的な脆弱性を現してイタリア式(稜堡式)城塞に移行して近代を迎えたのに対して、日本城郭の石垣は(耐震性すら持つ耐久性から)近代火砲に対してすらも、充分な耐久性と防御性を維持しました。それは火災によって作事が焼失した熊本城が薩摩勢を撃退した事実が証明しています。
よく、大坂冬の陣や会津戦争における籠城戦の逸話から、日本城郭の対西洋攻城戦の弱さを指摘する意見が支配的ですが、それらは大坂・会津の両戦が「攻城側に比して守城側が著しく近代火砲を持たなかった」非対称籠城戦であった事を見過ごしています。もし大坂豊臣方が英国大砲で反撃したら、もし会津若松城が脆弱な新政府軍砲撃陣地を大量の最新砲で砲撃していたら、日本の歴史と日本城郭史はまったく別の逸話を生んだでしょう。
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