無題Name名無し25/01/01(水)06:34:11 No.562724
明けましておめでとう!
というわけで古今東西軍隊とお正月スレ
無題Name名無し 25/01/01(水)07:52:07 No.562726
https://may.2chan.net/39/src/1735685527270.jpg
正月料理といつても戦場では何も出来ない。それで、やはり糧秣廠でつくりた小判形の大きい缶詰につめられて、小さいけれどもびんと尾頭を張つた鯛の焼ものや艶やかな黒豆やうこん色の金とん、それに数の子、昆布巻、田作が一通り揃つてゐる
これが一箇づゝ渡つた時の兵隊達の喜びやうは、大へんなものである
平たい缶の衣面には、毎年銃後の気分を表象したレッテルを貼ることにしてゐるが今年もレッテルが貼られて行つた
第二二一号 「お正月の野戦料理」 陸軍糧秣本廠 昭和16年1月1日
無題Name名無し 25/01/02(木)23:06:48 No.562764
昭和13年11月にIJA北支那方面軍隷下の第2軍経理部が作成した「新年用品補給基準表」によりますと、兵隊さん一人当たりの新年の御馳走の分量は、
「口取罐詰(上で紹介されているものですね)」1個、詰合祝賀品(勝栗、田作、鯣、羊羹、昆布の詰め合わせ)1個、糯米1キログラム、酒400ミリリットル、小豆30グラム、塩鮭30グラム、田作10グラム、数の子20グラム、みかん2個又はりんご1個」
…という内容であったそうです
このうち「糯米1キログラム」は当然現地の部隊でオモチに搗くわけですが、杵と臼につ
いては現地器材を利用して作るよう指示が出ていたとのこと
(画像は現地部隊自製の足踏みで動かす餅つき器)
無題Name名無し 25/01/02(木)23:07:59 No.562765
昭和16年に婦女界社という出版社が出した「火線の母」という本にも、著者の萩萩月さんという女性が大陸の前線部隊を訪問した際体験した、前線部隊でのモチ搗きの様子が活き活きと描かれているんですが、曰く
「新年を祝うことは前線でも内地でも変りはない。従って其の象徴である鏡餅は、やはり戦地の将士の間でもつくられる」
「先ず、ちょうど野球の始球式みたいに、軍の司令官が最初に搗き、それから兵隊たちがえいさえいさと始める勇ましいもので、司令官殿は三軍を叱咤する将軍だが餅搗技術は一向におヘタで、一等兵二等兵の方が遥かに上手である」
「不馴れな手付きで司令官殿がポタポタ二杵三杵打ち下すと、後は兵隊さんが向こう鉢巻で力瘤を入れて搗くのである」
…んですとか
無題Name名無し 25/01/02(木)23:09:01 No.562766
糯米を蒸すのに、中国の甑では勝手が違って糯米を焦がしてしまった話や、一部隊分を搗くのに朝暗い内から夜中の3時まで搗き続ける餅つき係の兵隊さんが気の毒で手伝った所、隊長さんより先に搗きたての美味しいお餅を差し出された話など、和やかな光景が目に浮かぶエピソードが幾つも紹介されているんですが、
「一人の兵隊さんが餘り器用に餅を取廻すので、これは普通の町家の人にしては、少しうま過ぎると思って聞いてみたら、それも其の筈、菓子店鹽瀬の菓子を作る方の番頭さんと分かって」
…「餅は餅屋かと感心した」なんてこともあったそうですw
恐らく杵や臼の現地製作にも、「前職」の経験を活かした兵隊さんが大勢おられたんでしょうが、この番頭さんは戦中戦後を無事生き抜かれて、元の職場で餅づくりのお仕事に戻ることは出来たんですかしら…
無題Name名無し 25/01/03(金)11:21:20 No.562776
口取り缶詰って同じ缶にはいって加熱されるから味が混ざってあんまり美味しくなさそう…
無題Name名無し 25/01/03(金)21:11:01 No.562794
>…「餅は餅屋かと感心した」なんてこともあったそうですw
見習いたいくらいのキレイなモチもといオチ
無題Name名無し 25/01/03(金)15:01:56 No.562790
餅つきに手間がかかるなら最初から餅を支給した方が・・・
とも思うけど、部隊みんなで餅つきってのがレクリエーション
の一つだったのかな
無題Name名無し 25/01/03(金)21:51:58 No.562795
>部隊みんなで餅つきってのがレクリエーション
>の一つだったのかな
昭和40年代の「宇宙戦艦ヤマト」でもオクトパス原始星団で足止め状態になった時
森生活班長がそうした目的での餅搗きを沖田艦長に進言していたな
あれを作っていたスタッフの世代まではごく自然な感覚だったのかも
無題Name名無し 25/01/04(土)08:54:22 No.562801
>>部隊みんなで餅つきってのがレクリエーション
>>の一つだったのかな
>昭和40年代の「宇宙戦艦ヤマト」でもオクトパス原始星団で足止め状態になった時
>森生活班長がそうした目的での餅搗きを沖田艦長に進言していたな
>あれを作っていたスタッフの世代まではごく自然な感覚だったのかも
戦後30年だから終戦時二十代のスタッフならなだ五十代でわかる話ですね
無題Name名無し 25/01/04(土)11:28:22 No.562813
駆逐艦「夏潮」の乗組員さんだった大西喬さんと言う方の手記に、昭和17年のお正月、ミンダナオ島マララグ湾に南方艦隊が終結して遥拝式が行われた際、艦上で餅つきをした話が出てくるんですが、「夏潮」には要具がないので、水雷戦隊旗艦の軽巡「神通」から臼と杵を借りてきたんですとか
ところが烹炊所の近くに据え付けて餅つきを始めたものの、肝心の餅取り粉がなく、止むを得ずメリケン粉で代用したところが、メリケン粉が水分を吸収しすぎてたちまちベタベタの仕上がりに
艦橋後方の涼み台に出来上がった小餅を並べてみたものの、時間を経てもいっこうに固まらず、熱い南洋ということもあって忽ち腐敗が進み、結局雑煮らしきものを味わえたのは1回きり、という残念な結果に終わってしまったそうで
無題Name名無し 25/01/04(土)11:30:32 No.562815
このへん、正月になる南洋での餅の傷み問題というのはIJNでは共通の悩みであったようで、重巡「加古」艦長だった高橋雄次さんが、昭和17年に南洋ウォット島で元旦を迎えた時の回想談では
「年末も近くなって、副長から相談があった。
『餅搗きの準備もしてありますので、28日に搗きたいと思いますが』
私は、前年の正月、内南洋で勤務中に、黴の生えた雑煮を食わされたことを思い出した。
『ちょっと待て。ここでは餅を搗いて2、3日もたつと、まっ青な黴が生えてしまう。乗員に黴の生えた雑煮を食わせたくないから、なるべく正月の直前にしたほうがよい』
31日には他の準備もあったため、餅搗きは30日にやることになった」
…なんてありましたり
因みに、餅搗きのはじめはエライ人から…というのはIJAと同様であったようなんですが、
「慣例だというので、私も初日に杵をふるった」
無題Name名無し 25/01/04(土)11:32:00 No.562816
「ちょっとマネごとをしさえすれば、だれかがかわってくれると思って大いにがんばったが、しばらく搗いても、みな、なにもいわずに見ている。私の方からかわってくれといいだすのもシャクなので、とうとう汗を流しながら一臼、おわりまで搗いてしまった」
…とのこと
それでも、31日には糧食船も到着、松飾りもサンゴ礁の島に上陸してそれらしい木を採り代用として
「艦長室にも、いつのまにか譲り葉に似た木の葉の上にお供えが据えられた。橙がないので、てっぺんには糧食船から到来のリンゴが載せてある。これは艦長従兵の心尽くしらしかった」
…と、何とか艦内は無事、正月用意を終了
「加古」にとっては17回目、そしてこの年ソロモン海で最期を迎える同艦最後の元旦光景は、こうしたものであったそうです
無題Name名無し 25/01/04(土)14:42:26 No.562818
そう言えば米軍でも感謝祭(Thanksgiving Day)の七面鳥を司令官が切り分けたりするけど
あれも一人でやり通すものなのか象徴的にちょっとやってみせるだけなのか…
>「ちょっとマネごとをしさえすれば、だれかがかわってくれると思って大いにがんばったが、しばらく搗いても、みな、なにもいわずに見ている。私の方からかわってくれといいだすのもシャクなので、とうとう汗を流しながら一臼、おわりまで搗いてしまった」
みたいなこともあったりするのか
無題Name名無し 25/01/04(土)18:33:52 No.562819
>「ちょっとマネごとをしさえすれば、だれかがかわってくれると思って大いにがんばったが、しばらく搗いても、みな、なにもいわずに見ている。
艦長の邪魔をしてはいけない、とでも思ったのかな?
無題Name名無し 25/01/04(土)20:50:23 No.562821
艦長「(誰かがそのうち言うだろ・・・)」
幹部「(誰かがそのうち言うだろ・・・)」
部下「(誰かがそのうち言うだろ・・・)」
無題Name名無し 25/01/05(日)08:10:13 No.562823
>てっぺんには糧食船から到来のリンゴが載せてある。
品種は何だったんだろう…年末まで日保ちする当時のソレったら
印度か国光(多分コッチ)だと思うんだけど
無題Name名無し 25/01/05(日)17:25:21 No.562833
今と昔では正月の重要度がレベチなんだろうなぁ
無題Name名無し 25/01/05(日)22:59:34 No.562835
>今と昔では正月の重要度がレベチなんだろうなぁ
昭和40年代までほとんど連休ってのが無くて
まとめて休みが取れるのが正月だけでしたもの
無題Name名無し 25/01/06(月)16:10:37 No.562843
昭和18年の元旦をお屠蘇で祝うラバウル基地の零戦搭乗員さん達
注連縄で飾った愛機に供えるのは鏡餅ならぬバナナと…ココナツの実ですかしらん
因みに同時期にやはりラバウル基地に進出中の、IJNの22号駆潜艇に乗艦取材していた従軍記者の吉永康平さんと言う方の手記に、やはり海上での餅つきの様子が出てくるんですが、曰く
「モチは軍需部が、内地から届いたのを(略)配給したが(略)もっと気分を味わいたいというので(略)モチ米1俵と小豆、砂糖の配給を受けて、モチ搗きをすることになった」
「ドラム罐で急ごしらえのかまどが一つ、軍需部から借りて来た石臼一つと、大釜には、すでに湯気が上り、セイロ五段にモチ米がふかされていた」
…と準備万端整ったものの、臼が一つでは全員分を搗き上げるにはどう見ても不足
無題Name名無し 25/01/06(月)16:11:48 No.562844
そこで洗濯桶に使う鉄製の「オシタップ(ママ)」を綺麗に洗い、ありったけの雑巾で作った土台の輪の上に載せ臼替わりとし、機関科の工作兵さん達が上陸して切り出してきた木で製作した杵で搗きだしたそうなんですが、やはり金盥では重さが足りず
「搗くにつれ、米がモチになってゆくと、キネについたモチのねばりで、ウスがおどり出したり、ケツをはずして横にずれたり」
…と、大いに苦労することになってしまったものの、
「醤油の樽を持ち出し、太鼓代わりに叩くもの、杓子を打つもの、洗面器を叩くもの、祝い酒がじんわりしめり、甲板につきたてのモチのなつかしい匂いがたちこめると、艇はあげて、お祝い気分に浸って行った」
…そうです
そして開けて昭和18年の元旦、晴朗な天気に恵まれた朝の食卓は
「屠蘇に尾頭付きの小鯛の焼き魚、雑煮、ゴマメ、カズノコ、キントン、コンブマキ」
無題Name名無し 25/01/06(月)16:12:55 No.562845
「銀飯、ミカン、リンゴ、海軍の型通りのお祝い献立が出そろって」
…豪勢な内容であったそうなんですが、
「が、そのごちそうの中に、一品妙なものが兵隊たちの目をひいた。食罐のフタに、白いナマコみたいな、ダラリとしたものがのっていた。雑煮は具だけで、モチが見当たらぬと思っていたら、これがモチであった」
「きのう大騒ぎにはしゃいで、せっかく搗いたモチは、とうとう固まらず、このとおりダラリとしたままであった」
…そうで、艇内神社に供えるぶんも、鏡餅にはまとまらず、大食器に盛り込んで供えざるをえなかったんですとか
それでも、待ちわびていた内地からの便りや慰問袋も届いて、戦地での正月ながら艇内の兵隊さん達は、「どの顔を見ても、明るい笑顔であった」そうです…w
無題Name名無し 25/01/08(水)00:35:55 No.562869
日露戦争の終結した1905年は120年前、ちょうど今年と同じ巳年に当るわけですけれども、IJA第2師団所属の陸軍歩兵だった根来藤吾さんと言う方の戦中日記によれば、戦地の元旦は興隆屯近くの前哨陣地で迎えたそうなんですが、
「今日本隊より送られし五合餅、塩鮭、砂糖、牛鶏肉、鶏卵あり。他に当前哨本隊より得たる餅米五合、酒二合及び小豆其他(略)下給されし事とて、鶏肉とカブと卵汁、汁粉餅、卵酒等の料理あり」
「酒は常に用いざるも、今日のみは満面熟柿の如く、又満腹となり」
…と、ささやかながら御馳走にありつけたそうです
無題Name名無し 25/01/08(水)00:38:04 No.562870
午後11時には旅順要塞守将ステッセルが開城を通告して来たとの吉報も入り、
「一同大喜びにて、前哨の事なれば大なる騒ぎもなかりしも、後方に注意すれば、万歳万歳の声、遠くブリキ缶を叩く音も聞えぬ。師団及び旅団(略)などにては、殆んど徹夜にて祝捷せり」
…とのことで、日本側にとってはめでたい雰囲気でのお正月となったようなんですが、そこは未だ敵味方が直接対峙する緊張した最前線、翌2日の深夜には、興隆屯の別の前哨小陣地に中隊規模のロシア軍が来襲して
「我が兵下士以下11名を捕虜し」
…去っていったとのこと
無題Name名無し 25/01/08(水)00:41:45 No.562871
オショーガツの三が日くらい戦争を休まないロシア軍はいかにも無粋…というか、新年早々露軍の捕虜になってしまった兵隊さん達の心中を想像すると胸が痛むんですが、やはりオモチや御馳走の差し入れにはしゃいでも、決して心の底からはくつろげない…というのが、前線のお正月のツラい所ではあるんでしょうね
…そう…「2日から出れるよね?」とか当たり前に聞いてくる職場など、滅んでしまえばいい…!
(私怨)
無題Name名無し 25/01/08(水)07:30:18 No.562872
帝政ロシアはユリウス暦(ロシア暦)だったのでは
無題Name名無し 25/01/12(日)18:09:17 No.563032
昭和16年発行の「写真週報」新年号より
大陸戦線で初日の出を迎えるIJN軍艦上の美しい画
軍艦の玄関といえば舷門!というわけで松飾もちゃんと飾られてお正月らしくなってますけれど、竹が細長くて先もカットされてないのでちょっとオショーガツというよりタナバタめいた雰囲気に
…でもこれはこれでバエるから良いですよねっ!
因みに余談ですが、前年昭和15年、皇紀2600年の元旦を迎えた宮中ですが、折から支那事変も4年目とあって、宮中で天皇、皇后両陛下に供されたお正月料理は、三食とも前線の将兵さんに倣った「陣中正月料理」であったんですとか
無題Name名無し 25/01/12(日)18:10:38 No.563033
IJAの外郭団体糧友会が同年発行した「糧友」誌に掲載された所によると、三食のメニュー内容は
「御朝食」
・高粱小豆粥(餅入) ・焼羊肉 豆もやし胡麻和 ・梅干 ・口取罐詰
「御晝食」
・支那饅頭 ・豚シチウ 甘藷ジャム ・澤庵漬
「御夕食」
・大豆飯 ・豚豆煮 空揚(冷凍魚)五目ソースかけ ・福神漬
…というもの
それぞれ「御朝食」は蒙疆方面、「御晝食」が満州方面、「御夕食」が北・中支方面の第一線部隊の陣中正月料理を象ったもので、屠蘇も御酒もなしの質素なお正月であったそうです
無題Name名無し 25/01/12(日)18:11:40 No.563034
献立の調整は宮内省を通じて陸軍糧秣本廠に御下命があったとの事で、無論実際の調理に当っては、現地の兵隊さん達が気楽な男所帯で作るオトコ飯とは、比べ物にならない細心の注意が払われていたんでしょうけれどもw
逆に言えば当時の各方面軍の定番の食材が反映された内容ということで、個人的には興味深いところでしたり
ともあれ、一向に終わりの見えない大陸での紛争の先行きを案じ、両陛下とも心から新年の訪れを寿ぐ心持にはなれなかったはずで、お気の毒ではあるんですが、お節料理に陣中食を望まれたというあたり、常に現地の将兵さん達の労苦に思いを馳せられておられた、両陛下のお人柄が偲ばれる話であるんではないでしょうか
それにしても「口取罐詰」、実は「皇室御用達」だった…というか、両陛下もお召し上がりになっておられる品物だったわけですが、どんな感想をお持ちになられたのか、ちょっと気になるところではあります…w
無題Name名無し 25/01/24(金)10:49:36 No.563231
>No.563034
口取り缶詰め、現在でもある昆布の煮しめ缶みたいな感じなのかな、
広島市の宇品の郷土資料館(元は陸軍の缶詰工場)に牛肉の大和煮の缶が展示してあった気がします。
無題Name名無し 25/01/26(日)01:09:05 No.563259
「口取罐詰」は民間業者数社に製造が委託されていて、内容にもいくらかバリエーションがあるようなんですが、1934年にIJA糧秣本廠が「糧友」誌に寄稿した「在満皇軍に追走せし新年糧食」という記事に掲載されているレシピでは、小鯛の塩焼き、エビとレンコン、慈姑の塩ゆで、醤油・味醂・砂糖で照煮した田作り、罐詰グリーンピース、紅白かまぼこの7種を1ポンド入り楕円缶に汁なしのドライパック法により封入するというもので、わりとシンプルな味付けであったようです
他に鮒の昆布巻き・筍・牛蒡・黒豆・椎茸を醤油・砂糖・味醂で味付けした「野菜詰合せ罐詰」、いんげん豆の餡に日本栗の含め煮を合わせた「きんとん缶詰」、数の子の粕漬の「数の子罐詰」の計4種の罐詰が1人あて配られたそうなんですが(「口取缶詰」以外は半ポンド罐)、これに別途清酒と糯米も送られたとのこと
無題Name名無し 25/01/26(日)01:10:56 No.563260
また1939年の同じく「糧友」誌で、糧秣本廠調理室所属の原金次さんという方が紹介する「口取罐詰」の内容は
「生魚の味付照焼、日の出かまぼこ(赤白)、人参・牛蒡(味付)、昆布巻、栗きんとん、
鶉豆含め煮」
…というものになっているんですが、コレなどは6年前の4種の罐詰を一つに簡易化したような感じもしますですね
因みに原氏によると、前線でのお正月向けのごちそうとしては他にも「速成正月餅」なるものがあったそうで
「飯盒の水の線まで、水を入れて沸騰させて、その中へ一袋分を入れて煮ると、立派な搗き立ての餅と同様になります。袋の中には定量の黄粉の類が入って居りますから、将兵の好きなように自分で適当にかけて頂けます」
…というものだったんですとか
無題Name名無し 25/01/26(日)01:12:41 No.563261
もっとも、現地の兵隊さんたちはやはり搗き立てのオモチの方が嬉しかったというか、餅つき自体を楽しみにしていたそうで、1941年の「糧友」誌上でのIJA主計将校さん達の座談会では、戦地で兵隊さんたちに「おもちと糯米どっちでほしい?」と聞くと、糯米が欲しい!と答えが返ってくる、なんて話が紹介されておりましたり
「喜んでぺったんぺったんやる」そうなんですが、そうして支給されたお餅を兵隊さんたちは自分たちの間だけでなく、日頃労苦を共にする軍馬にも分けてあげるのが普通であったそうです
おウマさんも餅や饅頭は大好物だったようで、馬小屋にも簡単ながら門松を飾り、人間以外の戦友さん達とお正月気分を分かち合っていたようなんですが、さすがに軍犬なんかはお餅をあげても喜ばないというか、むしろ危険だったかもしれないですね…w
無題Name名無し 25/01/26(日)13:20:02 No.563263
引用元:https://may.2chan.net/39/res/562724.htm
>さすがに軍犬なんかはお餅をあげても喜ばないというか、むしろ危険だったかもしれないですね…w
軍犬の場合は慰問品や犬菓(角砂糖やビスケット)を楽しむくらいですかね
「生餅のやわらかなるを喰わすべからず。口中に粘著き、あるいは咽喉に詰って苦しむものなり」「蝦類を食すれば、脚かがみて弱くなりて、腰抜の如く成るものなり。堅く禁むべし」と江戸時代のペット飼育書で指南されているので、正月に欠かせない餅や甲殻類は禁忌であるとの認識は昔からあったようです
ネギ属による健康被害も明治中期に判明していたのですが、こちらは何故か忘れ去られてタマネギを喰わされる軍犬が続出しました(正月とは関係ないですけど)























コメント
幹部「(誰かがそのうち言うだろ・・・)」
部下「(誰かがそのうち言うだろ・・・)」
とても恐ろしい、集団心理である・・・
これノリの良い部隊だと「頑張れ!」「いいぞ!」「まだまだ!」とか周りが囃し立て続けさせて途中で「お前達いい加減に交われ(笑)」となるフリなんだよね。
味の違いはすくないんだろうが、
海軍だとお雑煮の味で揉めたりしたのかな?
当時は階級差が絶対だから艦長(佐官(巡洋艦クラスなら大佐、駆逐艦なら中佐や少佐))に、職務以外で口をきける役職者は無く(科長クラスでないと艦長へ自ら口を出せる人間はほぼ居ない)、ましてや祝賀行事に兵卒が口を開こうものなら所属の班員全員が連帯責任でバッターものじゃないかな。
事前に主計科長が艦長に聞いて艦長の出身地に合わせた味付けになってると思う。
士官・下士官・兵は、艦長が決めたと言われると内心不満はあっても文句は言わないと思う。
ハッピーニューイヤーでお祝いはするぞ
ただし、ロシアに倫理観は期待するな
メーカーはカモ井食品で
味付け竹の子 祝海老 焼きホタテ なます 丹波黒煮豆 高野豆腐の含め煮 里芋含め煮豆 田作り 栗きんとん にしん一口巻昆布の10種類が小分けのパックに入ってましたね。
餅はきな粉とお汁粉でカット餅を焼いた物でした。
餅つきの代わりに施設のパワーショベルで書き初めをしてました。
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