軽空母? いえ、いらない子ですね~小型空母という憂鬱な存在

文:烈風改

 日本海軍は多数の艦隊型小型空母を運用しましたが、実際には日本海軍はこれらの空母を積極的に欲したことはありませんでした。実際の所、規模が小型なことからくるコスト的なものを除けば、空母戦において小型航空母艦には殆どメリットは無いのです。

 では、なぜこれらの艦隊型小型空母…“軽空母”と俗称された艦は日本海軍で多用されたのでしょうか。

■軽空母の誕生経緯

 鳳翔は、そもそも軽空母として建造された訳では無く、未知の新艦種「空母」に対する実験的な存在でした。空母として大型・小型という概念の無い中、 艦としての規模も含めて手探り段階の産物と言えるでしょう。

 日本海軍が軽空母の建造を指向した契機は軍縮条約にありました。
 大正12年のワシン卜ン軍縮条約で、日本海軍は米海軍が戦艦を転用した3万トン近い空母を計画していることに衝撃を受け、同様な空母を計画します。ですが条約の排水量制限もあり、米海軍と対等な数の大型空母を揃えるのは不可能でした。

 そこで“やむを得ず”考えられたのが、条約制限外の一万トン以下の小型空母を多数揃えて対抗するプランで、この方針に従った第一艦が龍譲でした。

 しかし、ワシントン条約に引っ掛からない艦艇を多数建造して、戦力比を埋めようとする日本海軍の目論見をアメリカやイギリスが見過ごすはずもなく、昭和5年のロンドン軍縮条約では、これらの抜け道はものの見事に塞がれてしまいます。(龍譲は条約制限枠に入れられることになってしまい貴重な排水量制限枠を小型空母で消費する羽目に陥りました)

 追い詰められた日本海軍は“やむを得ず”、制限外の艦種に偽装した空母改装前提艦を整備する方向に切り替えます。異様に大きい軽巡や、やけに巨大なクレーンだらけの水上機母艦等と共に怪しい形状の潜水母艦、給油艦が「空母予備艦」として①~②計画で整備されました。

 空母予備艦である大鯨は昭和8年11月、剣崎は昭和10年6月に進水しましたが、これらの艦は新技術として導入された電気溶接やディーゼル機関の採用が裏目となりました。
 
 大鯨は溶接部の不具合で船体を何度も手直しするハメに陥り、さらに昭和10年10月の第四艦隊事件で露見した問題点のため、これらの艦は船体への補強工事が必要となってしまいます。このような状況の中、工廠が友鶴・第四艦隊事件対策に忙殺されたこともあり、進水した高崎、剣崎の工事は進捗せず昭和13年頃まで放置された状態となってしまいます。

 無条約時代の到来と共に条約の制限が無くなったため、昭和13年7月頃に剣崎・高崎は、より最終状態の空母に近い状態に近づけた潜水母艦に改装されることがようやく決定し、先ず剣崎の改装が着手されます。


■苦境に立つ軽空母

 しかし、そもそも条約の制限が無ければ、艦種偽装等するまでもなく必要な規模の空母建造が可能となるため、小型空母建造に拘る必要は無くなりこれら空母予備艦ベースの軽空母の意義は薄くなります。そして、この頃になると、これら空母予備艦の空母としての価値は微妙なものとなっていました。

 当初はディーゼル機関で33ノットの高速を発揮する予定だったものの、大鯨での実績は芳しいものでは無く、安定稼働では20ノット程度の発揮が限界と見做されるような状態で、機関をタービンに換装したとしても、もはや高速空母に帯同して行動するような速力は得られないことが明らかでした。さらに、空母予備艦は当初、艦爆を搭載し、高速空母部隊と共に先制急降下爆撃任務に就く予定でしたが、新鋭機、九九式艦爆は機体の大型化で、九四/九六式艦爆と比較すると、配列機数は2/3程度となってしまい。ただでさえ飛行甲板のスペースが限られる小型空母では必要な攻撃力の確保に懸念が生じました。このような配列機数不足の問題は以降も小型空母の戦力化に対する大きな不安材料となり最後まで海軍を悩ませます。

 性能不足から、早くもその存在価値そりものに疑問符がつく状態となった軽空母でしたが、昭和14年頃に聯合艦隊から主力(戦艦)部隊支援用の空母が要望されると、これらの軽空母を支援任務に充てることが考えられるようになります。弾着観測や主力艦の警戒任務なら多数の艦攻や艦爆を同時発艦させる必要はないからです。

 このような経緯から昭和14年9月に、ようやく、これら空母予備艦の主機をタービンに換装した上で空母へと改装することが決定しました。潜水母艦に改装中の高崎から空母改装が行われ、続いて剣崎、そして開戦後には大鯨も改装が着手され、それぞれ、瑞鳳、祥鳳、龍鳳となったのです。

 これらの空母予備艦は新型機に対して不十分な能力だったため、飛行甲板は、発着艦能力向上のため艦橋より前側に延長されました。しかし、この措置は艦橋前方の視界を著しく悪化させ、以降に完成した平形甲板を持つ軽空母共通の欠点ともなりました。

 軽空母は開戦時に4隻、改装中1隻という状態で昭和17年末には5隻が揃う予定でしたが、前述のような性能的な問題から開戦後も主力の高速空母部隊に配備されることは無く、単独で上陸部隊に付属した支援や訓練、輸送等、強力な敵空母や航空兵力の居ない第二線的な任務に使われるに止まりました。

 それでも龍驤は航空脅威の少ない戦場で、上陸作戦支援に大活躍し、真珠湾の六隻以外で開戦の勝ち戦をくぐり抜けた唯一の軽空母となりました。


■空母部隊主力への道程

 この状況を再度変転させたのが、ミッドウェ一海戦の大型中型空母の大量喪失でした。対空母戦用空母は翔鶴型の二隻のみとなってしまい、運用側である第三艦隊は残された小型空母の活用を考えざるを得ない状況に追い込まれます。

 この結果、対空母用部隊である第一、第二航空戦隊に一隻づつ軽空母が配備され、艦戦と少数の索敵用の艦攻といった役割分担が行われます。

 失われた主力空母を補いうる中型空母(雲龍型)の建造には2年以上かかるため、短期間で改装可能な小型空母を“やむを得ず”さらに追加することとなり、水上機/甲標的母艦の千歳型が軽空母として改装着手されました。しかし、千歳型は、空母予備艦と異なり空母化を殆ど考慮していない艦で、下部格納庫は配置的にも大きな問題が有り、何よりこれまでの軽空母と同じ攻撃戦力にあまり寄与できない艦であることは明かでした。

 珊瑚海戦で祥鳳が、第二次ソロモン海戦で龍驤が失われたものの、千歳型が増勢され、軽空母は日本海軍の空母勢力の中で最多数を占め、これれまでの補助的な役割に止まらず、軽空母を攻撃の主軸として有効活用することが必要となってきます。具体的には、空母戦を有利にすべく先制急降下爆撃戦力を補完することが求められました。

 しかし、新鋭・彗星艦爆は発艦距離が大きいため、十分な機数が配列出来ず、有効な発艦促進装置が間に合わないのも明白で、そもそも配備機数も限られ大型主力空母への補充で手一杯でした。

 そこで考えられたのが、小型・短距離で離発着可能な爆装零戦(=爆戦)を主体とした戦法の導入でした。この考え方に従って編成されたのが、爆戦+少数の誘導用の艦攻という搭載編成です。昭和19年に編成された軽空母のみで構成された第三航空戦隊は、爆戦による対空母打撃力の獲得を目指した軽空母の再生プロジェクトと言っても良いでしょう。

 この編成は実戦で必ずしも有効な戦果を上げた、とは言い難いのですが、爆戦は比較的入手容易な零戦と、艦爆に比して搭乗員が一人で済むため、錬成・補充が格段に容易であり、海戦の度に全滅に近い損害を受ける母艦の搭載機部隊を短期間で再建するために外せない方策となっていきました。


■軽空母の、そして日本空母の終焉

 このように実戦における使いづらさが目立つものの、配備や増勢のハードルの低さから軽空母は、日本空母部隊の編成初期から供給が続けられました。そして、昭和18年の第三段作戦以降で主力空母の増勢が諦められた時も、“やむを得ず”ただ一隻追加が決まったのもまた軽空母だったのです。

 最後に建造(改装)が計画された日本空母となったの軽空母-伊吹は、それまでの軽空母とは一線を画す艦でした。軽空母の標準型だった、歪な二段格納庫、飛行甲板の延長と引き替えに艦橋が機能不全となる平甲板型を諦め、一段ながら天井の高いクリアな格納庫、飛行甲板から舷外に張り出した島型艦橋、期待出来ない高角砲を大幅に減じた対空砲構成等、苛酷な戦訓を経て割り切った仕様や噴進器による発艦補助等新機軸の技術を限られた艦型に盛り込んだ設計は、新世代軽空母に相応しい内容と言えるでしょう。

 しかし、昭和20年2月に、南方との補給路が断たれ、大型艦艇の行動が不可能になったことにより、伊吹の建造は中止されついに最後の軽空母は完成を見ること無く、海軍最後の空母戦となった昭和19年10月のエンガノ岬沖海戦では軽空母部隊の第三航空戦隊が主力となり全滅、その後、第一機動艦隊解隊時の最後の旗艦は唯一残存した軽空母“龍鳳”でした。

 戦備計画の節目事に“やむを得ず”起用され続けた軽空母は帝国海軍の名実共にその掉尾を飾ったのです。

<著者紹介>
烈風改
帝国海軍の軍艦、特に航空母艦についての同人誌を多数発行。
代表作に『航空母艦緊急増勢計画』
Twitter: https://twitter.com/RX2662