ソ連軍の秘密戦史50
取り残されたT-62
文:nona
https://gamestoday.info/pc/war-thunder/nasty-situation-with-t-62-545/
ダマンスキー島の近くに残置されたT-62-545号車両
難航したT-62の回収作戦
激戦から2日後の3月17日、氷上に残置されていたT-62戦車の回収作業が開始されました。
ところが、人民解放軍は対岸からの銃撃で作業を妨害。さらにSU-122自走砲を前進させ、砲撃の準備に移りました。
これに対し、ソ連地上軍の152 mm 榴弾砲が応戦。SU-122は追い払うも、回収作業に当たっていたウラソフ軍曹が死亡。作業は中断されました。
この戦闘の前後で中国兵が夜闇に乗じてT-62に忍び寄り、いくつかのベトロニクス類を持ち去っており、戦車の回収を妨害しようと新たな地雷の埋設を試みます。
が、流石の国境軍も中国人が夜中に動きまわっていることに気づいており、暗視装置で彼らを見つけ地雷の埋設は阻止しました。
最終手段
3月21日、ソ連はT-62の回収を断念し、爆薬でT-62の破壊を試みます。しかし、車底に仕掛けた爆薬は戦車を宙に浮かせはしたものの、爆風が側面から逃げてしまいT-62の破壊には至りませんでした。
その夜には車内に爆薬を仕掛けようとしたものの、途中で人民解放軍に察知され(あるいは察知されたと誤解し)爆破作業は中断されました。
3月22日、今度は人民解放軍がT-62の牽引を試みたため、ソ連軍は240mm迫撃砲や152mm榴弾砲を投入。砲撃でT-62ごと撃破しようとします。
砲撃で人民解放軍は追い払われたものの砲弾がT-62に直撃せず、またも破壊に失敗します。
しかし、榴弾と対コンクリート弾が2m以上の厚みがある氷を叩き割ったことで、T-62は川底へ沈没。
戦車は戦場では簡単に壊れてしまうのに、完全破壊を試みるとなかなか上手くいかない不思議な兵器です。
諦め
中国によるT-62の奪取は阻止されたかに思えたのですが、水温の上昇した4月27日、人民解放軍は海軍のダイバーを川に投入しました。
国境軍は重機関銃でこれを追い払ったものの、亡きレオノフ大佐の後任であるアレクセイエフ大佐にモスクワから電話がはいり、銃撃を止めるよう厳命されました。
モスクワは壊れた戦車1両と引き換えに、中国と三度目の争いを起こすことを望まなかったのです。
この間にダイバーは川底のT-62を発見してワイヤーをかけ、ウインチで中国側へ引き寄せはじめました。数日後の朝、国境軍の歩哨が中国側の岸にT-62が曳かれていった跡を見つけました。
https://gamestoday.info/pc/war-thunder/nasty-situation-with-t-62-545/
中国に鹵獲されたT-62。
恰好の宣伝材料
中国に鹵獲されたT-62は、同時期に開催された13年ぶりの中国共産党大会のまたとない宣伝材料にされました。
T-62はソ連が中国に侵攻した証拠品であり、中国の勝利を示す戦利品でした。
同車は人民解放軍の戦車修理工場で入念に調査され、中国軍は新型の115mm滑腔砲 に加え、アクティブ赤外線暗視装置、砲安定化装置、ガス式自動消火装置、冬季用エンジン始動装置などのベトロニクスを取得。
この成果をもとに69式戦車(制式化は1974年)に改良が施され、T-62を全面的に凌駕する新型戦車122式も試作されました。
なお、T-62との戦闘で人民解放軍の対戦車火器ではソ連の戦車を完全に破壊できないことも明らかになり、対戦車火器の更新が急がれることになりました。
https://kknews.cc/military/jvbj666.html
中国で修理されたT-62。打倒蘇修(修正主義のソ連を打ち倒せ )の看板を砲身に下げている。
ソ連にも意外な教訓
ダマンスキー島での戦闘は、人民解放軍のみならずソ連軍にも数々の教訓を与えました。
その中の一つとして驚くべきものが、兵士達が氷点下での野営について初歩的な教育をうけておらずに凍死者を出した、ということでした。
凍死者の報告に驚いたソ連軍参謀本部は、無作為に3個師団を抽出して冬季戦の実験演習を命じます。そこで判明したのは、かつての冬戦争で得た苦い戦訓をこれらの師団がすっかり忘れ去っていた、ということでした。
これまでには朝鮮戦争の空中戦、ハンガリー動乱時の市街戦、チェコスロバキア侵攻時の兵站などで、ノウハウの共有や継承が上手くかなかったことで失敗を繰り返すケースは多々ありました。
今回の問題に関してソ連軍は適切な対策をとったようです。この時以来、地上軍や国境軍の全部隊は、駐屯する地域の気候にかかわらず、モスクワ近くの演習場で冬季訓練をやり直すようになったのです。
5人の英雄
https://shieldandsword.mozohin.ru/personnel/bubenin_v_d.htm
ババンスキー伍長(左)とブベニン上級中尉(右)。右胸にソ連邦英雄章とレーニン勲章が光る。
2度の軍事衝突の後、ソ連では戦闘に参加した国境軍と地上軍将兵へ褒章が与えられます。最高位のソ連邦英雄章とレーニン勲章は、最初の奇襲で戦死したストレルニコフ上級中尉、T-62からの脱出時に戦死したレオノフ大佐、島の奪還中に戦死した地上軍のオルホフ伍長ら3名と、3月2日の戦闘で目覚ましい働きのあったブベニン上級中尉、ババンスキー伍長ら生存者2名に授与されました。
事件後、ブベニン氏は今回の功績もあって一気に出世。1974年にはKGBの特殊部隊アルファグループの初代司令官に任命されました。
ただし、1977年に自発的に国境軍への復職を望んだとされ、少将で退役するまで地方の司令官を務めています。
ババンスキー氏は、元は兵役のために国境軍に配属され、上官によるしつこい推薦で下士官教育をうけたといい、国境軍に長く勤める予定はなかったようです。
そんな彼も事件後にはモスクワなどで専門教育をうける機会を与えられ、長く国境軍の政治部門で活躍しました。
両名は2021年現在も存命で、複数のメディアで今回の戦闘について語っています。
https://zen.yandex.ru/media/id/5a85b8e855876b90a66b001d/geroi-ussuri-boi-za-ostrov-damanskii-mart-69go-5cded8267ea51b00b38aa2b0
事件後に撮影されたババンスキー氏。この写真は雑誌に掲載され女性にもてたという。本人いわく5人も6人も妻がいるという噂が立った。そんな彼が実際に選んだのは故郷の幼馴染だった。
戦争の危機は去らず
人民解放軍はダマンスキー島の戦闘で戦車1両を得たものの、2度の戦闘でも撃退され手ひどい打撃を被りました。
しかし、限定条件下ではソ連軍に打撃を与えられることを示し、ソ連の積極的行動を抑制しました。
その点では当初の目的を果たせたといえます。
ただし、ダマンスキー島の戦いが落ち着いた後も、人民解放軍による挑発が減ることはありませんでした。1969年4月から9月までの間、ソ連は中ソ国境各地で300回以上の武器使用を記録します。
この間におきたアムール川のゴルジンスキー島(八岔島 )や、ウイグルのテレクチ(鉄列克提) の軍事衝突は特に大きなものでした。
そしてダマンスキー島でも8月に人民解放軍が再々上陸を果たします。
これらの挑発にソ連軍は抑制をきかせるものの、1969年夏の中ソ国境では、まるで戦争前夜のような緊迫した空気が漂いました。
強硬派で知られるグレチコ国防相は1度限りの限定的な核使用まで要求したものの、ブレジネフ書記長や文民の閣僚達はこれを認めませんでした。参考
中ソ国境 国際政治の空白地帯(前田哲男 手嶋龍一 ISBN4-14-008487-1 1986年5月20日)
中国とソ連(毛利和子 ISBN4-00-430069-X 1989年5月22日)
現代中国の国境紛争史(山崎雅弘 2011年4月)
パワー・シフトと戦争 東アジアにおける事例を用いた因果分析
(野口和彦 2009年)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=25131
Горячий остров
(Валерий Яременко 2009年3月17日)
https://polit.ru/article/2009/03/17/china/
«Военная Литература» Глава 12.Советско-китайский раскол
(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
http://militera.lib.ru/h/lavrenov_popov/12.html
Советская артиллерия в боях за остров Даманский
(Д.С. Рябушкин, В.Д. Павлюк 2012年5月2日)
https://bmpd.livejournal.com/214406.html
Остров Демократа
(Леонид Млечин 2019年2月15日)
https://novayagazeta.ru/articles/2019/02/15/79563-ostrov-demokrata
Оружейные дебюты Даманского
(Игорь Плугатарёв 2006年11月10日)
http://otvaga2004.ru/boyevoe-primenenie/boyevoye-primeneniye02/oruzhejnye-debyuty-damanskogo/
中苏两军争夺T-62主战坦克(附图) (2006年01月30日 新浪軍事)
http://mil.news.sina.com.cn/p/2006-01-30/1016347784.html
コメント
115㎜滑腔砲やAPFSDSとか革新的な技術を導入したり、2万両以上も量産されて各国で運用されたりと決して失敗兵器ではないが
IEDや航空爆撃以外での完全な破壊(車体やパーツがバラバラになるような破壊)は困難というか、ほぼ不可能です。
ただし再利用を防ぐという点についてはきちんとした破壊手順が存在します。
車内に常備されているテルミットと携行爆薬(手榴弾等)を用いて、主砲の尾栓やFCSコンピューター等を完全に破壊し使用不可能にする形です。
装甲まで破壊する事は困難であり、イラク等で行われた同M1の砲撃による破壊は意味をなしませんでした。(結局回収しましたが
ティーガーⅠは砲塔に自爆用爆薬を取り付ける場所が付いてたり、一方でT-34は車体底部に排水弁が付いてて回収してきた車両の中に残った肉片を簡単に洗い流せるようになってるとか、戦車の廃棄に関して色々工夫があるよね
国境軍て正直本来はかなーりのんびりした仕事だからね。
田舎で地元住民と仲良く暮らせる。
モテモテでも昔から好きだった子と結婚するとか伍長かっこいいよね。
それにしても対ソ、対越の戦争を引き起こしたときの中国側の内幕って結構気になりますね。
あと徴兵制の軍隊だと、隊ごとの経験の継承が難しかったんじゃないかとも思ったり。
それはそうと80年代までの人民解放軍では、75mm無反動砲を多用していた印象。
これが歩兵砲兼PaKとして便利だった一方で、T-62のような第2世代以降の戦車が相手ではいろいろ厳しいものがあったのではないかと。
T-34にすら微妙だった75mm無反動砲ではねぇ・・・改良されてたとは言えいくらなんでも火力不足すぎるね
T-62は設計面で新機軸は多いのですが、それと引き換えに新たな欠点まで生じてしまい、傑作というには今一つという印象があります。改良の余地はあるので完全な失敗作ではなさそうですが。
2様
戦後のソ連軍は戦車の回収や破壊、あるいは修理の手際もスピードが悪い、と指摘する資料があります。基本的に全軍で前に進む戦術なので、敵に戦車を鹵獲されることを想定していなかったのかもしれません。
もっとも、今回のようにすぐT-62を回収しなかったせいで後々面倒なことになりますし、中東戦争においてはソ連戦車が鹵獲される原因にもなったそうです。
3様
ハンガリー動乱時に溶接個所が外ればらばらになったT-34の写真があるのですが、確かに珍しい壊れ方だと思った記憶があります。
あと戦車ではないんですが、ベレンコ中尉が持ち込んだMiG-25Pにも電子機器用の自爆装置が組んでありました。
4様
中古のソ連戦車に乗っていた戦車兵の証言ですが、車内の貫通穴を溶接で塞いだ跡がどうにも...としています。完全に修理されたとしても不安な気持ちになりますよね。
5様
正確な理由はわからないのですが、アルファ部隊の性格になじめなかったのではないか、とも思います。アフガンの大統領殺害などダークな作戦にも加わっていますので。
ババンスキー氏の話は本人が多くを語られていないので(笑)難しいところがあります。
ただ、ソ連兵や将校にも(真っ当な)恋愛や失恋、倫、三角関係、愛人関係などでけっこう興味深い話がいくつかあります。
7様
任地次第かもしれません。
8様
参考資料の中では「パワー・シフトと戦争」が
少し古い資料ですが、ネットで閲覧でき中国側の動機がわかりやすかったです。
PIAT様
やはり職業軍人が圧倒的に少なすぎるのがよくないのかもしれませんね。一応はこの頃に准尉制度などを創設して下士官の増勢に努めたようです。
10様
今回の作戦で人民解放軍は独自開発の75mmHEAT弾を用いたといいます。ただし中国側の資料でもあまり評価が高くないようです。貫通力の低下や不発などの問題があったといいます。
戦車を発掘してレストアする誰得のゲームを思い出しました。
尖閣では日本相手だから調子に乗ってるのかと思っていたが、あいつらどこでもこの調子なんだな。
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