ソ連軍の秘密戦史49
縦深攻撃
まだ戦争ではない
1969年3月2日、中国人民解放軍の特殊部隊約300名がウスリー川の中州ダマンスキー島で国境軍の将兵を奇襲。31名を殺害したものの、国境軍の生き残りによる果敢な抵抗により同日昼に退却しました。
事件の第一報を聞いたブレジネフ書記長は、中国との戦争が起きたのかと動揺します。
しかし、国境軍参謀長のマトロソフ中将は、人民解放軍の主力が国境に移動していないことを理由に、今回の戦闘が国境紛争であり戦争に至っていないと説明。ブレジネフも落ち着きを取り戻しました。
他方、中国は「ソ連側が先に挑発し島を攻撃してきた」としてソ連を激しく非難。ダマンスキー島対岸の戦力をそれとわかる形で増強しました。
島の後方に人民解放軍の第133師団と77師団が移動し、島から数キロの地点に5000名の兵員を有する第24歩兵連隊が展開。農道と称して整備した道路を用い兵員や弾薬を近くの戦略村に集結させたのです。
戦争をするくらいなら
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5c/%D0%9F%D0%BE%D0%B7%D0%B8%D1%86%D0%B8%D0%B8_%D0%B0%D1%80%D1%82%D0%B8%D0%BB%D0%BB%D0%B5%D1%80%D0%B8%D0%B8_%D1%83_%D0%BE%D1%81%D1%82%D1%80%D0%BE%D0%B2%D0%B0_%D0%94%D0%B0%D0%BC%D0%B0%D0%BD%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9.png
3月15日の戦闘時における両軍の配置
国境軍によるダマンスキー島の警備も大幅に強化され、BTR-60PBの機動グループが島への常駐警備を開始しました。
対岸では第57国境分遣隊司令官レオノフ大佐らの本部が設置され、14.5mm重機関銃、73mm無反動砲が設置されました。レオノフ大佐はT-62戦車を要請し、砲兵隊の観測所も置かれたようです。
国境から10kmの地点では地上軍の第135自動車化狙撃兵師団、第199自動車化狙撃兵連隊、第152独立戦車大隊、第131独立偵察大隊が展開。付近の飛行場では空軍の航空機36機も待機しました。
主力の第135師団は1967年までは東ウクライナに駐屯していたものの、中ソ対立の激化をうけて極東へ移駐した部隊の一つでした。
モスクワはダマンスキー島の背後に戦力を集結させたものの、島そのものの警備は依然として国境軍に任せたままでした。
正規軍が前面に出なかったのは地形の問題もあったようですが、先の戦闘を生き延びたババンスキー氏は
「軍隊を使うには政治的決定が必要でした。モスクワはそれに見合う価値があるか考えました。たぶん、戦争を始めるよりも(国境軍兵士を)10〜20人を殺したほうがいいと判断したのでしょう。」
と自虐的に回想しています。
なお、モスクワは人民解放軍の偵察飛行をあえて妨害しませんでした。
ダマンスキー島の背後に正規軍がいることを、それとなく見せつければ中国も無謀な挑発をやめるだろう、という期待があってのことでした。
ただ、結果的にはそうした効果は得られず、いたずらに自らの手の内を見せただけのようです。
https://www.sohu.com/a/312590980_100251802
3月11日、ダマンスキー島へ向かうソ連軍の車列
戦闘再開
https://www.chinadaily.com.cn/culture/art/2017-08/02/content_30330650_7.htm
3月15日午前9時、中国側から拡声器の声が鳴り響きソ連へ島からの退去を要求する放送が始まりました。
国境軍も拡声器で応戦したものの、10時少し前、人民解放軍がダマンスキー島への砲撃を開始。
同時に400から500ほどの部隊が3手にわかれて前進してきました。
島には国境軍のBTR4両と兵士60名が待機していたものの、人民解放軍に圧倒され島への上陸を許してしまいます。
指揮官であるヤンシン中佐のBTRも損傷し、通信が途絶しました。
対岸ではT-62戦車、14.5mm重機関銃、73mm無反動砲が援護射撃をしたものの、効果は不十分でした。
https://www.baike.com/wikiid/6640942280380268494?from=wiki_content&prd=innerlink&view_id=4f0kbyx6f6b85c
人民解放軍の56式 85mm 野砲。ソ連軍のD-44野砲を国産化したもの。
T-62、前進
https://new.qq.com/omn/20200301/20200301A0EZKJ00.html
BTR-60とT-62。
https://new.qq.com/omn/20200301/20200301A0EZKJ00.html
人民解放軍の56式無反動砲。米国のM20 75mm無反動砲を国産化し、さらに独自の改良を施したもの。
https://zhuanlan.zhihu.com/p/28408844
人民解放軍の56式火箭筒。ソ連のRPG-2を国産化したもの。
対岸から指揮を執るレオノフ大佐は、後方の地上軍砲兵に火力支援を要請したもの、この時点では許可がおりません。
そんな中で大佐は島内の部下を救うべく、自らT-62戦車に乗り込み4両の小隊で凍った川を渡りました。3月2日の戦闘と同じく、人民解放軍の背後を突けば主導権を奪取できると考えたようです。
対する人民解放軍も前回以上に大量の対戦車兵器を持ち込んでいました。
T-62は85mm野砲、56型75mm無反動砲、56式火箭筒(RPG-2)や手投げ式の対戦車手榴弾による猛攻をうけます。
とはいえ、これらの対戦車火器は旧式で有効射程も長くありません。中国が独自に配備したというHEAT弾も一部(あるいは全部)が機械式信管で、期待通りの貫通力を得られなかったそうです。
しかし、レオノフ大佐らは人民解放軍が敷設した対戦車地雷には気づきませんでした。彼らは夜間に中国側の水路で地雷原を構築していました。それらは白布でカムフラージュされ、周囲の風景に溶け込んでいたのです。レオノフ大佐のT-62は地雷を踏んでしまい氷上で行動不能となりました。
司令官の戦死
身動きの取れないT-62に対し、人民解放軍は猛攻を続けたものの致命傷は与えられなかったようです。
それでも乗員が負傷してしまい、レオノフ大佐らはT-62からの脱出を決めました。
ところが、大佐が車外に出たところで胸を撃たれてしまい、装填手と共に戦死。大佐の戦死をうけ残る3両のT-62は撤退しました。
人民解放軍もよもや敵の司令官を殺害したとは気づかず、レオノフ大佐は対岸への砲撃で戦死した(実際に砲撃があったかは不明)と記録しています。ダマンスキー島の国境軍兵士は戦闘を継続したものの、計4両のBTRが撃破され、同車が担っていた弾薬の補給が途絶。
国境軍は島からの退却を余儀なくされました。
https://www.baike.com/wikiid/6640942280380268494?from=wiki_content&prd=innerlink&view_id=4f0kbyx6f6b85c
戦利品をもてあそぶ人民解放軍の兵士達。
乱射乱撃雨霰
http://www.globaldomainsnews.com/what-secret-weapon-the-soviet-union-used-against-the-chinese-in-the-sino-soviet
ロケット弾の装填が行われるBM-21
日没の近づいた17時ごろ、島の東9kmに控えていた第135自動車化狙撃兵師団の第13独立ロケット砲大隊BM-21が突如として砲撃を開始しました。
BM-21は各門40発の122mmロケット弾を搭載し、大隊の18両が一斉射撃した場合、大隊の1斉射で54haの範囲を制圧可能とします。(積雪下では若干威力が弱まるともいわれます)
これは単純な面積では東京ディズニーランドか、あるいはユニバーサルスタジオジャパンの敷地に相当します。
しかし、人民解放軍が占領しているダマンスキー島に着弾したロケット弾はありません。
ロケット弾は島を飛び越え国境から5~7km地点にあった人民解放軍の野戦司令部や後方支援施設、島に向かっていた増援部隊の隊列を狙っていたのです。
ロケット弾の炸裂で集積された弾薬と燃料が誘爆。その爆炎はソ連側からも視認されました。
砲撃の後、地上軍と国境軍の部隊がダマンスキー島へ前進。人民解放軍は激しく抵抗し、地上軍のオルホフ伍長らが戦死します。
しかし、人民解放軍が後方支援を失ったことに気づくと、程なくして撤退しました。
3月15日の戦闘も最後はソ連の勝利に終わりますが、ソ連側の死者は3月2日と合わせ58名に増加しました。
一方、ソ連は中国側の死者を600から800名と見積もります。これは大多数がロケット弾攻撃による死者ですが、中国側はダマンスキー島事件全体の戦死者を72名としました。また、後方支援のために動員した民間人の被害については不明とされます。
誰が中国領への砲撃を指示したのか
3月15日の戦闘の後、中国の林彪国防省は「ソ連軍による本日の行動はモスクワから指示されたものである。それは前線で(ソ連の司令官により)主導されていた」と毛沢東主席に報告。
しかし、それまで抑制的だったモスクワが本当に中国領内へ越境砲撃を指示したのか、という疑問が残ります。
そのため、現場の独断で中国への縦深攻撃を敢行したという見方も存在し、その際にイニシアティブをとったのは極東軍管区司令だったローシク大将らによるとされます。
上意下達が徹底されるソ連軍ではありますが、活動領域があまりに広すぎるためか、現場の判断にモスクワが追認することも少なくありません。
ソ連軍ではキューバ危機におけるU-2撃墜事件のようにモスクワの意向に反する攻撃が不問とされ、大韓航空機撃墜事件のように撃墜の当事者が栄転を果たす例もありました。
なお、ローシク大将は事件後に人事異動で5月から軍大学への勤務となりました。が、これも左遷とは言い切れず、1975年には戦車軍元帥への昇進を果たしています。参考
中ソ国境 国際政治の空白地帯(前田哲男 手嶋龍一 ISBN4-14-008487-1 1986年5月20日)
中国とソ連(毛利和子 ISBN4-00-430069-X 1989年5月22日)
現代中国の国境紛争史(山崎雅弘 2011年4月)
パワー・シフトと戦争 東アジアにおける事例を用いた因果分析
(野口和彦 2009年)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=25131
Горячий остров
(Валерий Яременко 2009年3月17日)
https://polit.ru/article/2009/03/17/china/
«Военная Литература» Глава 12.Советско-китайский раскол
(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
http://militera.lib.ru/h/lavrenov_popov/12.html
Советская артиллерия в боях за остров Даманский
(Д.С. Рябушкин, В.Д. Павлюк 2012年5月2日)
https://bmpd.livejournal.com/214406.html
Остров Демократа
(Леонид Млечин 2019年2月15日)
https://novayagazeta.ru/articles/2019/02/15/79563-ostrov-demokrata
Оружейные дебюты Даманского
(Игорь Плугатарёв 2006年11月10日)
http://otvaga2004.ru/boyevoe-primenenie/boyevoye-primeneniye02/oruzhejnye-debyuty-damanskogo/
中苏两军争夺T-62主战坦克(附图) (2006年01月30日 新浪軍事)
http://mil.news.sina.com.cn/p/2006-01-30/1016347784.html
sh-kray.narod.ru
https://web.archive.org/web/20100101204852/http://sh-kray.narod.ru/arhive/2004/9/pol4.htm
コメント
ソ連軍も大きくなりすぎた故の現場が起こした行動を追認していってエスカレートしていくのはノモンハン事変みたいですね….
大隊(18両)の一斉射撃で720発の弾が降り注ぐとか怖すぎる
砲兵と機甲部隊による縦深突破
ドイツ
航空近接支援と機甲部隊による縦深突破
英米
航空戦力を阻止攻撃にまで投入し、後背の兵站線や物資集積拠点、鉄道などの輸送と移動手段を潰し、敵部隊の移動の阻害に継戦能力を奪う
部隊間の連携を断ち、予備兵力の行動を阻害する
んで敵部隊を孤立化或いは無力化させ、突破するもよし、各個撃破するもよし
エアランドバトルのような
割と大きめの権限持ってる現場指揮官が独断で判断して行動すること多いよね…
上層部も結果が良ければ肯定的な対応をするし、
意外と柔軟というか最善と思える行動を行うことが出来る風土なのかな?
でも指揮官自ら戦車乗って攻撃するのはガンダムか何かか?
実は西側の中の米英の方がその傾向が強かったり、なので最近は委任戦術だ任務指揮だ言い出しましたが。
赤軍は1936年の赤軍野外教例で独断を認めてます。政治将校、人民委員というお目付け役が付いてますし。
縦深突破には空軍と空挺も加わりますよ。
大祖国戦争の初期はガチガチであたら部隊を全滅させてたイメージありますわ
「撤退するの可なりや?」
「悪魔の婆さんに聞け!」
日本の教科書に載せないといけない。
大祖国戦争初期はスターリンが総司令官として軍事に介入してましたしね。
戦前の大粛清の影響と、緒戦の大損害と将校も大量に捕虜か戦死(これは人民委員も同じ)で穴埋めに人材を大量補充でレベルが大幅に低下したところで独断専行を奨励したら、積極果敢な策しか通らなくなりますわな。
しかもカツコフみたいなスターリンのお気に入りは部隊を消耗させてもお咎め無しですからね。(カツコフは有能だったりはしますが)
この後の中越紛争でも人民解放軍は弱さを露呈してますね。
ありがとうございます。
この連載も長いのですが正規軍?同士の地上戦はこれが初かもしれません。
全盛期のソ連地上軍といえばちょうどこの頃から軍拡政策に転じておりました。師団火砲の保有数は68年からの10年で2倍に増えた、といいます。
3様
戦後ソ連軍も独断先行が何度か記録されてますが、かろうじてモスクワのコントロールが維持されていました。
核戦争の恐怖がソ連を慎重にさせたのだと思います。そこは昔の日本とちょっと違うところかもしれません。
6様
>>ロシア軍のBM-21
分離独立派のBM-21はウクライナ軍から盗んだものでロシアの与り知らぬこと、という見え透いたプロパガンダを思い出しました。
7様
川岸の奥の方に山があるのでそこから中国側を観測できたようです。
8様
「一般人の認識」コピペを思い出しました。
9様
島のBTR部隊との通信が途絶していたので、自分が直接最前線で指揮せねばと考えたのかもしれません。
「1936年の赤軍野外教例」
そういった資料があるのですね。
戦後のソ連軍のケースで恐縮ですが、将来戦争において無線通信網は電波妨害や核パルスで無効化され、現場のイニシアティブを認めざるを得ない状況が予想されたといいます。
そこでOMGのような独立行動部隊が活躍することになる、という紹介がされたのですが、個々の指揮官に対する独立行動の教育が追い付いていなかった印象はあります。地図を読めない将校もいたようですので。
11様
ソ連の赤色空軍と空挺部隊は不思議なくらい地味な存在ですね(逆に戦車と火砲ばかり目立ちすぎです)
藤井治夫氏の「ソ連軍事力の徹底研究」で赤色空軍の活躍が挙げられていますが、端的に評すると同軍は「砲兵の延長」「空飛ぶ砲兵」だそうです。もしかすると航空機の戦果が砲兵のそれに包括され、傍からは目立たない存在になったのかもしれません。
空挺軍についても、昨年記事にしたドナウ作戦ではまさに縦深戦の要でしたが、手際が鮮やかすぎても、かえって目立たないのかもしれません。
12様
イスビー氏の「ソ連地上軍」によるとソ連軍部隊は「上級指揮官が命令した場合にしか離脱はできない」としています。後方に予備陣地でもあれば離脱も戦法として成立しますが、そうでもなければ敵前逃亡扱いだったのではないでしょうか。
14様
この日のソ連軍は極めて消極的ですが、モスクワのブレジネフ書記長らの意向をくみ過ぎたのではないかと思います。
15様
純粋な軍人ではありませんがヴォロシロフ元帥の立ち回りにも感心させられます。彼の指導下で戦った部隊は可哀想ですけども。
ドイツの縦深突破に正面数百キロの突破点、師団単位での柔軟な目標設定、第二梯団、第3梯団を加えたのがソ連なんすわ。むしろCAS大国は戦前からソ連なんです。
むしろソ連の想定するパリまでの縦深突破だと部隊規模がデカすぎて師団とか旅団単位で作戦目標を設定して、あとは通信が途絶えようと司令部が壊滅しようと梯団の各部隊は突破を繰り返すため各指揮官の采配がかなり広いらしいです。
ドイツにおいてはスペイン内戦において、無線を活用しての地上部隊と航空部隊の綿密な連携を確立しており
ソ連にはなかったんじゃないかな
戦前ドイツ空軍においては戦略爆撃思想が主流で、実は学校で近接支援など教えていなかった
しかしスペインに派遣されフランコにインフラを破壊する戦略爆撃は禁止され、やむなく近接支援に力を入れたという
と、訴えかける為に毛沢東が仕掛けた紛争だとか何とか。
ルフトヴァッフェの空陸連携としては近接航空支援ばっか語られるけど
最前線ではなくやや後方を叩く航空阻止の働きぶりを無視しちゃいけないというか
電撃戦だとCASの影に隠れた引き立て役どころかダブルで主役だったんじゃないかとすら
これもソースが「ソ連軍事力の徹底研究」で恐縮ですが、第二次大戦中の航空戦力の2/3が「直接支援」に使用されたそうで、まさにCAS大国といえますね。
21様
私も赤軍やソ連軍は無線を使った連携に消極的な印象があります。
元ソ連軍将校のスヴォーロフ氏によると、前線指揮官は狭い視野しかしか持たず、彼らが求めるまま航空機(+火砲や予備兵力など)を逐次投入すると、決勝点への戦力集中の妨げになる、という考えがソ連にはあるんだそうです。
あとは19様が指摘されたとおり通信を妨害する核パルスやECM、あるいは傍受・逆探知・偽情報の流布などのリスクも無線による連携に消極的な理由、と説明される場合があります。あるいは、エレクトロニクス産業の遅れも原因かもしません。
22様
今回の紛争の動機に関しては複数の理由が上がっているのですが、これは腑に落ちる説だと思いました。
23様
独軍については全くの門外漢で申し訳ないです。ソ連軍の場合はどちらかといえば直接支援を優先していたように思えますが、阻止攻撃の中でも敵飛行場の攻撃には特別熱心だったようです。
大祖国戦争の緒戦で独空軍に航空戦力を壊滅させられた苦い経験がそうさせたのかもしれません。
日本
歩兵突撃こそが戦場の花だ戦車や砲は歩兵を支援する為の物こりゃあ負けるは。
大日本帝国陸軍「真面な工業力も大量生産力もねえしゃあねえ歩兵中心でそこに虎の子の戦車と野戦砲を混ぜて運用するしかねえ」
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