ソ連軍の秘密戦史48
氷上に張られた罠
文:nona
https://www.historynet.com/sino-soviet-border-conflict.htm
戦いの前触れ
https://ppfocus.com/sg/0/2ac1fce.html
冬の中ソ国境に現れる中国人の武装集団。
https://hk.aboluowang.com/2016/0222/696523.html
両国の国境警備隊による衝突。おしくらまんじゅうに見える。
事件発生から約40日前となる1969年1月23日、ダマンスキー島の下流にあるキルキンスキー島に武装した中国人集団約500人が現れます。
彼らは中国側の国境警備隊で、小銃を携帯していました。しかし、引き金に指をかけることもなく、それを棍棒のように振り回しソ連国境軍を島から追い出そうとしました。
別の日にはより少数の集団が島に出現。彼らは国境軍の姿を見つけ一旦は引き下がるものの、その姿が見えなくなると島に戻ってきてしまいました。
国境軍は中国人が島を完全に去るまで監視する必要が出て、やがて両者は押し合いへし合いの乱闘へ発展しました。
こうした乱闘は度々発生し、国境軍の兵士は体中にあざを作り、鼻などを骨折する者も少なくありませんでした。兵士たちは即席の棍棒やさすまたを自作し、乱闘に備えました。
https://hodor-lol/post/66438/?xtrsl=ru&xtrtl=ja&xtrhl=ja&xtrpto=nui,op,sc
手製の「さすまた」をもってBTR-60に跨上する国境軍員。
上陸
1969年3月1日の夜、人民解放軍の特殊部隊約300名の部隊が凍結したウスリー川を渡り、ダマンスキー島西岸にある高地の林に潜伏。
彼らは中国側の国境警備部隊の孫玉国と周登国という指揮官に率いられた歩兵中隊2個に、偵察小隊4個、無反動小隊1個、1個重機関銃小隊で編成されていました。
雪原に溶け込む白い迷彩覆いを着込み、銃剣は光が反射しないよう白い紙を巻き、不意に咳が出ないよう咳止め薬まで服用するなど念の入れようです。
潜伏のタイミングも土曜日の夜を選んでおり、多少は相手の気が緩むことを期待していました。
さすがに国境警備の手が緩むことはないのですが、もとより辺境地であるダマンスキー島の周辺は、警備が厳重ではありません。
警備が特に厳しい地域ではサーチライトが設置され、パトロールに警備犬が加わり、さらに侵入の痕跡が残るように整地までされていました。ただ、ダマンスキー島にそういった備えはなかったようです。
一応、国境分遣隊には少数ながら暗視装置が配備されていたものの、人民解放軍を見つける性能はありませんでした。
翌朝、国境軍の歩哨3名が島のそばをパトロールしたものの、人民解放軍の足跡は降雪によってかき消され、何も発見できなかったようです。
罠に飛び込んだ20人
https://www.historynet.com/sino-soviet-border-conflict.htm
中国の国境警備隊員とソ連の国境軍
3月2日の10時ごろ、別のパトロール隊がダマンスキー島で「いつもの」中国人集団を発見。
この報告をうけ、島から12kmの地点にあるニジニミハイロフカ村の前哨基地より、国境軍の小隊が出動しました。
指揮官のストレルニコフ上級中尉ら小隊の兵士32名はBTR-60PB装甲車、GAZ-63トラック、GAZ-69四輪駆動車に分乗し、島へ向かいます。
ただし、GAZ-63はエンジンが不調のため乗車した12名の到着は遅れました。
BTRとGAZ-69は11時前にダマンスキー島に到着し、ストレルニコフらは見慣れた顔の中国人に退去を要求。
ストレルニコフらにとって、これは日常業務になっていましたが、この日の中国人の行動は今までにないものでした。
一人が大声で何かに応えピストルの銃声が2発響くと、これを合図として中国人集団が一斉に銃撃したのです。
これまでに国境に現れた中国人は、銃をちらつかせつつもそれで国境軍兵士の命を奪うことはありませんでした。しかし、そうした態度も結果的にはソ連側を油断させる罠となっていました。
この奇襲によってストレルニコフ上級中尉らはもちろんのこと、BTRの搭乗員も車外にいたことが災いし、次々と銃弾に倒れます。
その場にいた国境軍の将兵20名のうち、奇跡的に生き残ったのはセレブロフ二等兵ただ一人でした。
https://www.sohu.com/a/312590980_100251802
殺害されたペトロフ二等兵。国境軍政治部のカメラマンでもあった。動画用カメラは人民解放軍に奪われたものの、レンジファインダー付カメラは彼の遺体に隠れ、その場に残った。
https://rg.ru/2020/03/02/reg-dfo/krovavyj-ostrov-pogranichnyj-konflikt-na-damanskom-nachalsia-51-god-nazad.html
ペトロフ二等兵が撮影した最期の写真。
http://otvaga2004.ru/boyevoe-primenenie/boyevoye-primeneniye02/oruzhejnye-debyuty-damanskogo/
ペトロフ二等兵が最後に撮影した中国兵の写真。
反撃
中国人集団による突然の攻撃で国境警備隊は殲滅されたかに見えたものの、トラックのエンジン不調で到着が遅れた12名は、奇跡的に死を免れました。
分隊長のババンスキー伍長は弱冠20歳の新任下士官で、部下も若い兵士ばかりでしたが、PK機関銃があったことから、銃身が加熱し塗装が剥げるまで島へ銃撃を続けました。
しかし、兵士達は弾倉を2個しか携帯していませんでした。人民解放軍との戦闘になるとは予想していなかったのです。
AKとPK機関銃の弾薬には互換もありませんから、兵士は数少ない弾丸を単発で発射し狙撃に徹します。
後にババンスキー氏は、退却して援軍を待つ選択があるにもかかわらず、強い憤りから戦わずにはいられなかった、と回想しています。(島内に人民解放軍が300人も隠れていると知っていたら、素直に退却していたかもしれません。)
とはいえ、ババンスキー隊は明らかに劣勢。自分たちを守るので精一杯でした。
そんなとき、銃声の報告をうけ第一前哨基地から増援部隊23名が現場に到着します。指揮官はブベニン上級中尉で、兵士達はGAZ-69とBTR-60PBに分乗していました。
彼らのトラックもまた到着が遅れたものの、それはブベニンの指示で前哨基地にあったありったけの武器弾薬を詰め込んでいたためでした。
BTRが氷上を駆ける
ブベニン・ババンスキー隊は協力して戦ったものの、35対300では全く話になりません。
人民解放軍は迫撃砲で国境軍への攻勢を激化させ、新たな死傷者が出ました。
ババンスキーは本部に応援を要請したものの、司令官のレオノフ大佐らは後方100kmで地上軍との演習に参加しており、到着が遅れていました。
そんな中、ブベニンは応援を待たず策を講じました。まず負傷者をトラックに載せて後送し、近くの村で手当てを受けさせます。
さらに、残る部隊が人民解放軍を引き付け、その間にBTR-60PBが島の反対側に回り込み、敵を挟み撃ちにしようというのです。
BTRの指揮と射撃はブベニン自らが行いました。
この大胆な行動に人民解放軍は狼狽したものの、BTRは程なくして被弾。視察装置と油圧系統が損傷し、タイヤの空気圧は維持できなくなり、ブベニン自身も負傷。辛うじて後退しました。
それでもブベニンは全くあきらめず、ほぼ無傷で放置されていた第二前哨基地のBTR-60PBに乗り換え再び突進。
ブベニンの行動は無謀に見えるものの、この戦法は地上軍で指導される遭遇戦の対処法に則ったものでした。
教範の結語では「大胆かつ決定的に行動すれば戦場で遭遇する敵を拘束、撃破できる」とされたようです。
ただし、事前の偵察である程度は敵情を把握していることが望ましく、待ち伏せする相手に対しては逆効果となる場合もありました。
実際に2週間後の戦闘ではソ連側が打撃を被っています。
撃退
とはいえ、この日の戦闘ではブベニンの攻撃が人民解放軍の指揮所に損害を与えており、人民解放軍は10倍近い戦力差があったにもかかわらず継戦を断念。
彼らは負傷者を連れ中国側へ撤退し、戦闘は1時間ほどで終了。
ブベニン・ババンスキー隊の活躍で国境軍はダマンスキー島の防衛に成功します。
しかし、その被害は甚大で記録された戦死者は31名、負傷者14名を数えます。
検視の結果、奇襲で倒れた19名の遺体には銃撃で倒れた後に、銃剣でとどめをさされた痕跡が見つかったそうです。
さらに1名が行方不明になったものの、のちに人民解放軍に連行され、戦闘の傷が元で死亡したことが判明。遺体は両国による遺体交換で返還されています。
島内を調査した結果、人民解放軍が残した306の防寒具、食料、弾薬、武器、負傷者用の担架が発見され、通信が行われた痕跡も見つかりました。
これらの遺留品を目の当たりにした国境軍は、中国が今回の戦闘を周到に計画していたことに気づきました。
事件直後に撮影されたブベニン隊の兵士。ソ連軍の集合写真では最前列の人物が寝そべっていることがある。
http://otvaga2004.ru/boyevoe-primenenie/boyevoye-primeneniye02/oruzhejnye-debyuty-damanskogo/
https://www.sohu.com/a/312590980_100251802
国境軍戦死者の合同葬儀参考
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
中ソ国境 国際政治の空白地帯(前田哲男 手嶋龍一 ISBN4-14-008487-1 1986年5月20日)
中国とソ連(毛利和子 ISBN4-00-430069-X 1989年5月22日)
パワー・シフトと戦争 東アジアにおける事例を用いた因果分析
(野口和彦 2009年)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=25131
Горячий остров
(Валерий Яременко 2009年3月17日)
https://polit.ru/article/2009/03/17/china/
«Военная Литература» Глава 12.Советско-китайский раскол
(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
http://militera.lib.ru/h/lavrenov_popov/12.html
Советская артиллерия в боях за остров Даманский
(Д.С. Рябушкин, В.Д. Павлюк 2012年5月2日)
https://bmpd.livejournal.com/214406.html
Остров Демократа
(Леонид Млечин 2019年2月15日)
https://novayagazeta.ru/articles/2019/02/15/79563-ostrov-demokrata
Оружейные дебюты Даманского
(Игорь Плугатарёв 2006年11月10日)
http://otvaga2004.ru/boyevoe-primenenie/boyevoye-primeneniye02/oruzhejnye-debyuty-damanskogo/
中苏两军争夺T-62主战坦克(附图) (2006年01月30日 新浪軍事)
http://mil.news.sina.com.cn/p/2006-01-30/1016347784.html
コメント
旧日本陸軍も同様ですが、遭遇戦ではやはり積極果敢な行動が求められるわけですね。
これは優位な地勢と主導性の確保のためと思われますがいかがでしょうか。
まあ、相手が情勢を把握して待ち伏せしていればどうにもならない(始まる前に負けている)訳ですが
「中ソ国境 国際政治の空白地帯」では
要衝であれば「容赦ない防御態勢」だと紹介されていました。
また中ソ国境ではありませんが
非友好国のトルコ・イランと国境を接するコーカサスは
かなり厳重だったようです。
しかし中央アジアの国境はいい加減で
イランの遊牧民を徴兵したこともあるようです。
(遊牧民の国籍というのも微妙な話ですが
2様 3様
この事件のあたりから80年代にかけてのソ連軍では
将来戦は伝統的な突破攻撃よりも遭遇戦の機会が増えるとして
多くの時間を割いて訓練をしていた、とのことです。
ただ、前線の部隊ほど敵情がわからなくとも
とにかく教条的な包囲機動をとる(とらされる
傾向があったようです。
人民解放軍もその辺に気づいていたのか
次の戦闘では側面を対戦車兵器で固め
ソ連の戦車を無力化、最終的に鹵獲しています。
資料集めなど大変な苦労をしていると思いますが、次回も楽しみに待っています。
同人誌などにまとめる予定はありませんか?
タダで読むことが申し訳なる面白さです。
いやWW2以降の政治将校は相当マシになったとは聞いているけども、軍の現場に理解のある政治将校ってのは個人的にはどうにも想像し難くて、やはり源文センセの冷戦系マンガに描かれるような、頑迷かつ軍事的に無知という偏見をもって見てしまう
ありがとうございます!
今作の連載はロシア語の機械翻訳によって助けられている面もあり、後から訂正がきかないことを考えると、サミズダートには少しばかり抵抗があります。
最近の露語翻訳は優秀で見事な日本語に変換してくれます。ただ、理解不能な文章だったり、誤訳も多いような気がします。Мотострелковые(自動車化狙撃兵)などは「電動ライフル兵」と訳されます。
あからさま誤訳はむしろ笑えますが...
6様
戦後ソ連の政治将校は多面的で私も捉えがたい人々のように感じています。
撤退や敗北に関する叱責や処罰は、軍自らの権限で行う場合が多く政治将校による督戦、監視はあまり機能していなかった節があります。政治将校自身の腐敗も進んでいました。
現場に理解のある政治将校はやはり珍しい存在ではありますが、全くいなかったわけではなさそうです。
今回の戦闘で活躍したババンスキー氏も、専門的な政治教育の機会を与えられ
准尉や尉官として国境軍の政治部門に勤めています。
MiG-25事件で有名なベレンコ中尉は、パイロット出身の政治将校が部隊にいるとしており語っており、かなりの尊敬を集めたそうです。しかし普通の政治将校は理想ばかり押し付けてくるとして、かなり嫌っていました。
むしろ狙撃兵が本来誤訳でライフル兵の方が妥当という見方もあります。英語文献だとライフル師団と英訳されていたり。
元は戦列歩兵に対しての狙撃兵(ライフル装備兵)ですので。余談ですが日露戦争時のロシア軍の歩兵には近衛、選抜、戦列、狙撃の種別があったようで。
源文劇画の世界はおおむねソ連軍の組織が粛清と緒戦の大損害でガタガタになった二次大戦お独ソ戦期のことが多いので、ややオーバーでもあんな感じなのでしょう。
軍事理論を叩きこまれているだけあって政治将校もあまりに無謀な上級司令部の命令には司令官と連名で意見具申(事実上の拒否)を行うこともあったみたいですね。
なお悪名高い政治将校も軍事的失敗の責任は司令官同様に取らされますので、そりゃまあ必死に督戦もしますわな。
今のインドと中国がまさに同じことをしてて、昔から中国軍はそういう組織なんだなと思いました。
油断ならない相手です。
ありがとうございます。ご指摘の通りライフル兵が適切かもしれません。
翻訳の問題に加えソビエトロシア軍用語の特殊さに悩むことがあります。本文ではババンスキー氏の階級も悩みました。
今回は伍長としましたが、原文を忠実に訳すると軍曹補か準軍曹のほうが適切かもしれません。機械翻訳は「ジュニア軍曹」を提案していました(笑)
私が調べた政治将校の姿は戦後のそれですが、時代が下ると恐怖で兵士を縛ることも減ってくるようです。資料では口うるさい理想主義者として描写されることが多いです。
以前の記事の話ですが、ソ連の潜水艦が情報収集のために西側のラジオを傍受するにも政治将校の同意(黙認)が必要だったと記しました。
10様
本当に油断大敵です。
「昨日は撃ってこなかったが今日は撃ってくるかもしれない」
そういう覚悟が必要な相手なのだと感じています。
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