ソ連軍の秘密戦史46
正常化
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ブラチスラバの通りでソ連軍に抗議する男性。8月21日に写真はUPI通信によって世界中に広がった。
正常化
1968年8月21日の朝、ワルシャワ条約機構軍は電撃的にチェコスロバキアを占領。同国の指導者であったドゥプチェク第一書記をソ連へ連行し、親ソ保守派のチェコスロバキア共産党員による革命労農政権樹立を試みます。
この措置はソ連邦英雄でもあったチェコスロバキアのスヴォヴォダ大統領らの支持を得られなかったうえ、ソ連の監視を逃れて開催された臨時共産党大会でも拒絶されました。
ソ連で拘束されていたドゥプチェクは8月27日に解放され、当初は第一書記の地位に留まります。しかし、彼はソ連の圧力に屈する形でプラハの春の中断を余儀なくされます。
事件の終息から半年が経過した1969年4月、ドゥプチェクはプラハでの反ソ暴動を理由に第一書記を解任され、フサーク第一書記へ交代します。
フサークは「正常化」と称し、ソ連や東欧諸国が望むようにプラハの春で制定、あるいは検討されていた法律のほとんどを無効としました。
脱出者
https://meduza.io/en/feature/2018/08/24/before-1968-we-had-nothing-against-russia-or-the-soviet-union
西独へ逃れるチェコスロバキア国民。
チェコスロバキアへの軍事介入から正常化政策が始まるまでの一定期間、なぜか国境が解放されていました。
ドナウ作戦の間、ワルシャワ条約機構軍は西側と接する国境の守りを固めていたものの、チェコスロバキアからの脱出者については無関心で、ほぼフリーパスだったようです。
そのような形で約10万人のチェコスロバキア国民が、西独やオーストリアを経由し米国等へ亡命したといいます。
国外脱出の機会はドゥプチェクにも与えられており、チェコスロバキア当局は第一書記から退いた彼を、名目上の大使としてトルコに派遣した時期もありました。
ただ、彼は国に留まることを望んだようで、帰国後にすべての役職を解かれて共産党から除名され、当局による監視下で一労働者としての生活を余儀なくされました。
軍事介入が及ぼした影響
軍事介入によってチェコスロバキア国民は再び抑圧されてしまったものの、ドナウ作戦自体はおおむね成功といえました。
ソ連と東欧各国はプラハの春を圧したことで、ソ連国内や東欧各国で燻る反政府運動の拡大も防ぎ、体制の延命に成功したからです。
西側各国も表面上は軍事介入を批判したものの、例えば米国のジョンソン大統領が事前に不介入を表明するなど、東欧のパワーバランスを事実上黙認しました。
また、批判は西側のみならずユーゴスラビア、ルーマニア、アルバニア、中国といった社会主義国からもあったのですが、キューバや北ベトナムなどソ連の支援なしには立ち行かない国々のように軍事介入を支持する場合もありました。
さらに、ソ連軍はチェコスロバキアの政治不安と国境地帯におけるNATO軍の活動増加を理由に駐留を継続。東欧で4番目のソ連軍集団となる「中央軍集団」を新設。
戦力は戦車師団2個、自動車化狙撃兵師団3個、空挺軍大隊など分遣隊を含む約5万人の部隊であり、将来の欧州戦争において重要な戦力となることが期待されました。
なお、作戦中に生じた各種のトラブル、特に兵站の問題もソ連軍は貴重な戦訓と捉えたようで、デビット・C・イスビー氏は、作戦後に一定の改善が見られたとしています。
とはいえ、ソ連軍のドクトリンが短期決戦を志向するものである以上、長期戦に耐えうる兵站システムは構築されず、兵站はソ連軍にとってのアキレス腱であり続けました。
改革を阻止した弊害
短期的には成果のあったプラハの春の弾圧ですが、ソ連国内の改革まで停滞萎縮させ、長期的には体制の維持に悪影響を与えました。
この頃、ソ連国内ではコスイギン首相の主導で経済改革が進められており、これは経済学者リーベルマンが提唱する市場主義経済の一部導入を容認するものでした。
具体的には企業の自主裁量の拡大や、ノルマ達成時のボーナス支給などを認めるもので、劇的な効果はなかったものの、前回の5か年計画よりも良好な成果が出ていました。
この改革はフルシチョフ第一書記の政権末期に提案されたもので、後任のブレジネフ書記長は乗り気ではなかったものの、経済回復のために仕方なく導入したとされます。
ところが「プラハの春」が否定される中、コスイギン首相の政策も反革命的でソ連の理念に反するとして批判され、実権を失ってしまいます。
その代わりにブレジネフ書記長へ権力が集中するのですが、彼の統治下で非効率な計画経済が維持され、結果としてソ連経済の停滞を招きました。
ただし、チェコスロバキア侵攻と同時期に始まったソ連軍の大規模な軍拡については、計画通りに進行し軍事費は増大。ソ連経済はより一層の困窮を極めました。
https://www.smh.com.au/world/europe/from-the-archives-1968-soviet-troops-invade-defiant-czechoslovakia-20190819-p52ij6.html
プラハの通りに並ぶ大量のT-54戦車
奇妙な士気の低下
チェコスロバキアでの作戦が続いていた1968年の秋、ソ連の指揮官達は、兵士の間で厭戦気分が蔓延する奇妙な現象に困惑します。激烈な戦闘のあったハンガリー動乱では見られないことでした。
これは、兵士たちがソ連政府や軍から正しい情報を与えられず、命令によって半ば連れてこられたという事情に市民が気づいたのかきっかけでした。
最初はソ連兵に敵意を向けていた市民たちも、次第に兵士達への憐れみの感情を抱くようになり、妙に親切に接しました。時には補給の停滞で飢餓状態に陥った兵士のために施しを与えることすらありました。
こうした交流の結果、ソ連兵達は自身の行為に疑問を抱き始め、敵愾心を失ったのです。
戦闘意欲の低下は各地の部隊で問題となったようですが、特に顕著だったのが駐東独ソ連軍の第一梯団に所属するロシア出身の兵士達でした。
彼らの部隊は定員充足率が高水準に保たれた一線級の部隊であり、二線級の部隊とは異なりロシア出身兵が主体であるなど高度に統制されていました。
しかし、彼らの大部分は地方の未開発地域の出身で生活環境も劣悪。そんな中でソ連衛星国の中でも比較的豊かなチェコスロバキアが与えたカルチャーショックは非常に大きかったのです。
部隊の言語がロシア語で統一されていることも、かえって厭戦気分の伝染を早めました。
この状態を憂慮したソ連軍は、彼らが東独の駐屯地に戻ると外部との接触を断って部隊ごと隔離してしまい、さらに再教育と称し多く兵士を極東へ転属したのです。
次なる敵は?
ドナウ作戦の完了後、ウクライナへ帰還したスヴォーロフ氏の部隊では、今度こそルーマニアに攻め込む、という憶測が再燃。連隊長が車両のモスボールを解くように命令した程でした。
今回の事件でルーマニアのチャウシェスク大統領はチェコスロバキアに軍隊を送らず、ワルシャワ条約機構を厳しく糾弾しました。
そのうえで国内におけるワルシャワ条約機構軍の演習を禁止し、戦時においてルーマニアがどちらの陣営につくかの決定権を留保するとまで宣言。彼は西側からの称賛を集め、東欧の異端児と評されました。
同時期にはブルガリア・ルーマニア・ソ連3国の横断鉄道建設に反対し、仏国からは軍用ヘリコプターを輸入。
中東戦争後にイスラエルが持て余すソ連製の鹵獲戦車(元はソ連がアラブ連合へ供与したもの)を稼働させるための部品まで輸出した、とされます。
ルーマニアはソ連を苛立たせる行為を散々繰り返すのですが、それでもソ連の安全を脅かすことはしなかったようで、ソ連はチャウシェスクの言動も半ば放置しました。
本当の敵
https://www.bbc.com/russian/features-49555803
中ソ国境の警備兵。
この頃のソ連が最も警戒した隣国はルーマニアではなく、遠く東アジアの中国でした。
中国とソ連はどちらも共産主義国家を目指す間柄で、スターリン書記長の存命中は蜜月の関係だったと言えます。
ところが、フルシチョフ政権下で関係が急速に悪化し、ブレジネフ政権でも改善は見られませんでした。
ベトナム戦争において両国は共に北ベトナムを支援し、中国はソ連のベトナム支援物資や人員の国内通過を容認しましたが、最新兵器が簒奪される恐れがあるとして、ソ連はそうした兵器の輸送を避けました。
また、両国の北ベトナム支援そのものも、同国の奪い合いという側面があります。
最終的に北ベトナムはソ連との友好関係を選び、中国とは敵対する関係になったのですが、元のきっかけは文化大革命の混乱のせいで、中国からの支援が滞ったからともされます。
中ソ国境においては、1965年ごろから両国の兵力の増加が始まっており、ドナウ作戦に参加した部隊が極東へ転属していったのも、その一環でした。
今回のチェコスロバキア侵攻をうけ、中国はソ連を批判こそしたものの、かといってチェコスロバキアの肩を持つこともなく「修正主義者の仲間割れ」と冷淡に評します。
ただ、その内心においてはソ連が社会主義国であろうと軍事侵攻を厭わない姿勢に動揺していました。
この頃の中国は文化大革命による混乱で兵器の国産化や生産が停滞し、ソ連との戦力差が以前にもまして開きつつあったからです。
中国は、ソ連との戦力差が決定的になる前に機先を制す他にない判断。秘密裏に予防戦争の準備を開始しました。
参考
コンテンツ 「軍事文学」 軍事史 第11章 1968年、プラハの春 (Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
ソ連軍の素顔(ビクトル・スヴォーロフ 著 吉本晋一郎訳 4-562-01328-1 1983年2月20日)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
ソ連軍事力の徹底研究 最新情報(藤井治夫 ISBN4-7698-0357-5 1987年9月15日)
歴史群像 No.117 2013年2月号 ソ連軍 パリ侵攻の夢 知られざる東西冷戦の軍事的決着(小峰文三 2013年2月)
コメント
ロシア軍の第58軍が、
グルジア軍の宿舎を分捕って使ってみたら、
自分たちのモノより施設設備も部屋もベッドも格段に上で、
軍に対して不満を爆発させたことがあったらしい。
兵への待遇が悪いと、
いくら軍備にお金かけても士気が下がって崩壊しかねないという、
昔からある軍隊のジレンマ
チェコならビールは無限に湧いてきそうだから地元経済も潤うしWin-Winだと思う(錯乱)
ロシア人にとってビールは清涼飲料水の類で酒では無い
ありがとうございます!
2様
ロシアで徴兵された若者がドイツ、チェコ、極東ロシアと次々に旅するというのも
「普通なら」一生の思い出になりそうな気もします。
3様
ソ連兵がチェコスロバキアや何処かの国の宣伝戦に乗せられた
というよりは、ソ連における自国兵への情報統制が裏目に出て自爆したような気がします。
4様
大戦末期のソ連兵ならベッドを持って帰りそうですが
戦後のロシア兵は比較的行儀がいい分、不満も多そうです。
5様
今回の作戦でソ連兵は地酒を相当飲んでいたようですが
真っ当な方法で入手したかは不明です。
夜中に醸造所に忍び込んだ、という話もあります。
また、ソ連兵には場所や時間を考慮せず酩酊する嫌いがあり
指揮官達ははひどく気がかりとしていました。
前回のバイク炎上事件も
元は現地で入手したプラム・ブランデーが原因でした。
6様
アレクセイエフといえば
キューバ危機時の駐キューバ大使がアレクセイエフと言い
若い頃にはスペイン内戦に参加していました。
とはいえ、彼は通訳として活動していたらしいので
作中のアレクセイエフとは完全に別人と言えます。
7様
とあるロシア情報サイトに
「(ビールは)1985年の反アルコールキャンペーンのおかげで逆に活気づけられ」
と変な一文が書いてあります。
ソ連当局はウォッカを取り締まったもののビールはOKという姿勢だったそうです。
だからといって昼間から飲むのもどうかと思いますけども。
どんどん被害拡大させ、英雄的に戦ったことになった部隊の
その分隊は全員が異動され、最後は行方不明になったとか・・・というオチは
単に帰還後、外部との接触を断って部隊ごと隔離してしまい、さらに再教育と称し多く兵士を極東へ転属しただけで・・・ということで
ただの防諜措置がソ連の体質もあって拡大解釈されたということかな
なお、ロシアでは2011年に法律が改正されて「酒」の基準がアルコール度数12%から0.5%に引き下げられているそうワニ。
結局軍事力みたいなわかりやすい見かけだけの力を国力に割きすぎると
こういう意外なところで破綻の目が生まれちゃうんだろうな
ソ連の抱える本質的な病気みたいなところが一番わかりやすく出てるエピソード
色々ガバガバ過ぎてくさはえる
縁起悪くて草
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