ソ連軍の秘密戦史45
消極的抵抗


文:nona


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https://mikesresearch.com/2020/09/27/czechoslovakia-1945-and-1968/
市民がバリケードとして停車させたバスを乗り越えるT-54


市民の抵抗手段

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https://violity.com/en/new/687-operation-danube-soviet-troops-in-prague
外国軍を混乱させるために破壊された道路標識。


 1968年8月21日、チェコスロバキアに侵入したワルシャワ条約機構軍に対し、市民たちは抵抗運動を繰り広げました。

 外国軍を混乱させるため地名標識は取り除かれ、市内の通りには車両や家具でバリケードが築かれます。一方のソ連軍は事前の演習と訓練によって道順をたたき込んでおり、戦車部隊はバリケードを踏みつぶして市内へ侵入しました。

 プラハでは一部の市民が戦車に火炎瓶を投げつけ、ソ連側が銃で応戦するといった戦闘が数例あり、双方に死傷者がありました。

 ただし、抵抗運動の激しさは12年前のハンガリー動乱ほどでもなく、市民が軍や警察から武器を奪い組織的なゲリラ戦を挑むことはなかったようです。ほとんどの抵抗運動はデモ活動などの「消極的な抵抗」という形をとりました。

 また、侵攻当日に空挺軍に占領されたテレビとラジオ局に代わる形で、市内の工場の地下で秘密のラジオ放送が再開されます。

 奇妙なことにソ連軍は数日にわたって地下放送局の所在をつかめず、放送による呼びかけで8月22日にチェコスロバキア臨時党大会が開催されました。チェコスロバキア全土が外国軍に掌握された戒厳状態の中。1200名の党員が会場へ集合したといいます。

 党大会では改革の支持表明、ドゥプチェクの解放、ワルシャワ条約機構への非難が決議され、ソ連が擁立した臨時政府は正当性を失い、ドゥプチェクも27日に解放されます。

 しかしながら、ワルシャワ条約機構軍は治安の安定化を名目に居座り続け、チェコスロバキア全土が外国軍に掌握された状況に変化はありませんでした。


感情への配慮?

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https://mikesresearch.com/2020/09/27/czechoslovakia-1945-and-1968/
市民に落書きされたT-10M戦車。


 今回の作戦において、東独軍は西側との国境を警備し、駐独ソ連軍が首都プラハを制圧する役割分担が取られました。

 これは、ソ連軍が国境に展開すると西側への刺激が強く、逆に東独軍が都市部へ行っても市民がナチス・ドイツ時代を想起して抵抗の激化が予想されたためでした。

 ただ、第二次世界大戦末に解放軍としてチェコスロバキア入りしたソ連軍も、この時にはナチスと同一視され、上の写真のような落書きをされてしまったのです。

 また、大戦中に死亡したソ連軍兵士の慰霊碑への破壊活動もあり、反ソ感情が緩和されることはありませんでした。


ハンガリー人との違い?

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https://maxpark.com/community/14/content/2167406
丸裸のような空挺軍のASU-57。いくらでも危害を加える機会がありそうに見えるものの、市民はその存在を半ば受け入れてしまっている。



アジテーター

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https://violity.com/en/new/687-operation-danube-soviet-troops-in-prague
ソ連兵の前で国旗を振る市民


 ワルシャワ条約機構軍の兵士達は、チェコスロバキアの同志からの要請で反革命勢力から同国を守るために派遣された、はずだったのですが実際には侵略者と見なされ非難の声を浴びます。皮肉を込めてナチス・ドイツとも同一視されました。

 この状況を見たソ連軍の政治将校は、市民がマスコミに騙されているのだと解釈。居ても立っても居られず市内の各所で演説を始めます。

 この声にチェコスロバキアの知識層が反応。政治討論が始まるのですが、議論が白熱するうちに市民の怒りが爆発しました。政治将校はレンガなどの重量物を投げつけられて負傷し、あるいは搭乗する車両が炎上させられたのです。

 こうした状況で政治を語ることは、燃える火に油を注ぐようなものでした。

 地上軍の指揮官としてプラハに派遣されたジェラーブリェフ少佐の部隊では、政治将校とは対照的に市民とは一切の議論をせず、ときに威圧し互いに毒づき合いながらでも、市民と距離を保つことに努めました。

 結局、そのようにしたほうが双方に損害がないまま、円滑に占領を続けることができたようです。

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https://mikesresearch.com/2020/09/27/czechoslovakia-1945-and-1968/
炎上するソ連戦車。



被害の実態

 市民の消極的な抵抗もしだいに熱意を失い、10月 10 日から 12 日までにほぼ沈静化。ソ連を除く外国軍は10 月 17 日から約1か月をかけて撤退しました。

 ある統計によると1968 年 10 月 20 日までの期間で最低94 人のチェコスロバキア市民が死亡し、345人が重傷を負ったといいます。

 一方のワルシャワ条約機構軍は12月17日までに11人が敵対行為の中で死亡し87人が負傷したのですが、これとは別に事故や武器装備の不注意な取り扱い、傷病による被害が死者だけでも85人が記録されています。

 ただ、過失による被害についてはチェコスロバキア人反革命分子の攻撃によるもの、と計上された例が少なくありません。

 さらに、ドナウ作戦とは無関係の事故で失われた装備なども、戦闘で喪失したかようにでっち上げられた報告もあったようです。


雪だるま式に増える嘘の報告

 スヴォーロフ氏は、ある偵察小隊が不手際でオートバイを炎上させたとき、これをチェコスロバキア人の襲撃によるものと報告された例があったとしています。

 炎上の本当の原因はバイクの整備中に隊員たちが酒盛りを始めてしまい、酩酊した副小隊長が火のついたガソリン入りのバケツをオートバイへ蹴り飛ばした、というにわかに信じがたいものでした。

 オートバイの炎上後、正気に戻った小隊員たちは事前に口裏合わせをして中隊長らに証言するのですが、抜け目ない彼ははすぐに彼らの嘘に気づきました。

 隊員たちは口をそろえて「チェコスロバキア人がショコダ製の乗用車で襲ってきた」と証言したものの、地面がぬかるんでいるにもかかわらず、乗用車のタイヤ痕がなかったからです。

 とはいえ、正直に報告書を書いてしまっては中隊長の監督責任を問われかねないため、彼はは事故の痕跡を消すように命じると、結局は虚偽の報告書を作成しました。

 程なくして報告書は上級の司令部へ届くのですが、彼らは報告書に便乗する形で被害の品目を追加しました。

 その中にはポーランドの演習場にあった沼に沈んだRPG-7、大量の蒸留酒を側車に積んだ状態で炎上した特殊仕様のM72型オートバイ、事故によって橋から落ちたBTR-60装甲車も含まれました。

 虚偽の報告書は雪だるま式に肥大化していき、最初にオートバイを炎上させた副小隊長の曹長は、なぜか反革命分子を撃退した英雄として勲章を授与されることになってしまった、という話です。


参考

コンテンツ 「軍事文学」 軍事史 第11章 1968年、プラハの春 (Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
ソ連軍の素顔(ビクトル・スヴォーロフ 著 吉本晋一郎訳 4-562-01328-1 1983年2月20日)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
ソ連軍事力の徹底研究 最新情報(藤井治夫 ISBN4-7698-0357-5 1987年9月15日)
歴史群像 No.117 2013年2月号 ソ連軍 パリ侵攻の夢 知られざる東西冷戦の軍事的決着(小峰文三 2013年2月)