ソ連軍の秘密戦史44
間隔を縮めよ


文:nona

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https://www.dw.com/en/in-1968-warsaw-pact-troops-suppressed-the-prague-spring/a-45138213

プラハ市民に囲まれるソ連軍の偵察車両


白線のない戦車

 ドナウ作戦が発動された翌朝、チェコスロバキア首都プラハの主要施設はソ連空挺軍によって制圧され、早朝には陸路を進む地上軍部隊が合流しました。

 プラハの春を進めていたドゥプチェク第一書記は拘束され、ソ連へ連行されてしまいます。

 この間にワルシャワ条約機構軍はチェコスロバキアの隅々まで侵入し、事前に計画された橋や交差点、重要施設を占拠しました。

 そうした状況の中、偵察部隊の指揮官としてプラハまで前進したジェラーブリェフ少佐は、市内の国立銀行を占拠する中で、白線のないT-55戦車部隊が接近している、との報告をうけました。

 この作戦でワルシャワ条約機構軍の車両は識別用の白十字の白線を塗装していました。交戦規定では白線のない軍用車両は脱走者のものであり、指揮官の判断で攻撃が許可されていました。

 少佐は指揮下にある3両のPT-76に徹甲弾を準備させ、歩兵中隊に銀行内へ隠れるよう指示しますが、中戦車のT-55が相手ではかなりの不利。

 勝機があるとすれば先制攻撃だけでしたが、様子を伺っていた少佐は程なくして射撃中止を命令します。

 接近してくるT-55部隊の指揮官は砲塔から身を乗り出し、砲身は上方を向けたままで、戦闘の意思が見られなかったからです。


大混乱

 ジェラーブリェフ少佐は戦車部隊の指揮官に詰め寄り、なぜ識別マークがないのかと問いただしました。

 指揮官いわく、この戦車部隊は予備部隊だったところを後から出撃を命ぜられたものの、識別マークを描くだけのペンキは残っていなかったと、申し訳なさそうに釈明しました。

 こうした白線のない部隊は各地で混乱を引き起こしたため、ついに司令部も白線のない車両に対する発砲を禁止する命令を発します。

 チェコスロバキア軍が動かなかった以上は、ある意味では妥当な措置ではありますが。

 白線の有無がもたらした混乱に加え、無線の混信も大きな問題となりました。これは多数の部隊が同時に無線を使用したことが根本的な原因ですが、個々の部隊が内々に使用するコールサインが重複していたことも混乱に拍車をかけました。

 時には交信の妨げとなる友軍に対し無線で罵声を浴びせ無理やり黙らせる、といったこともあったようです。

 また、ワルシャワ条約機構軍の多国籍軍としての連携も捗々しくありませんでした。東欧諸国の軍隊では将校であってもロシア語を完璧には理解しておらず、多数の通訳を必要としたためでした。


街道に長蛇の列

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https://www.theatlantic.com/photo/2018/08/photos-50-years-since-a-soviet-invasion-ended-the-prague-spring/567916/
橋ごと川に落ち擱座したT-54。8月21日に撮影。


 8月21日の朝に地上軍の先遣隊がプラハなどの主要都市に到達した頃、後続部隊の多くはチェコスロバキアの国境外にあり、順番待ちで待機を続けていました。

 特にウクライナから方面からスロバキアへ入るには、カルパチア山脈を越える必要があり、各隊は狭い道路を縦隊で行軍しなければなりません。列の長さは1個師団で150kmに達したとされます。

 これを短縮するため「車間を縮めよ」との指令が何度も発せられました。ソ連軍の安全規則では行軍時の戦闘車両の車間は100m、補助車両で50mと決められていたのですが、これを無視しろというのです。

 行軍序列も度々見直され、医療や整備などの支援部隊は戦闘部隊に道を譲るよう指示されました。

 行軍中に故障した車両は行軍の妨げとならないよう、どのような型であっても道路わきに放棄するよう命ぜられました。ウクライナ方面からの街道には、その路肩に数百両の車両が放置されたようです。

 戦闘車両が行軍中に落伍するのはそう珍しいことではありませんが、今回は暗号装置を積んだ車両や、ロケットの発射台まで道路わきに突き落とす乱暴さも見られたようです。

 ソ連地上軍の将校であったヴィクトル・スヴォーロフ氏の部隊が前進を開始した時、先行車両のせいで未舗装の路面は最悪の状態になっていました。土埃のせいで昼間から指示灯が必要になり、夜を徹した行軍は極めて低速なものになりました。

 ただ国境を越えてみると、道路の問題だけは劇的に改善されました。酷道ばかりのソ連とは異なり、スロバキアの幹線道路はしっかりと舗装されていたからです。

 ソ連においては、道路の舗装は一部の地域に集中し辺境地は未舗装のまま、ということが珍しくありませんでした。

 単に道路整備が遅れていただけでもあるのですが、資料によっては、敵国の侵入を遅滞させるためわざと国境の道路を未舗装にしていると書かれることもあります。

 ただ、実際のところは外へ打って出る時にも、この酷道がちょっとした障害になっていました。


アメリカの缶詰で士気を鼓舞するソ連兵

 スヴォーロフ氏の部隊がスロバキアの街道を通過するさい、沿道の地元民から猛烈な抗議を受けました。

 兵士たちは罵声を浴び、腐った玉子、リンゴ、トマトなどが投げつけられてしまいます。

 そのような中、スヴォーロフ氏は政治将校の命令をうけ兵士達の士気を保つよう命ぜられます。

 その際にスヴォーロフ氏がとった行動といえば、夕食時に兵士たちを集め、あろうことか米国製のビーフシチューの缶詰を掲げて万歳と叫ぶことでした。

 兵士たちは主に中央アジア出身者で、ごく簡単なロシア語しか理解できないものの、普段よりも人間らしい食事にありつけるためか、嬉しそうに万歳を唱和しました。

 ソ連軍の一般兵士の駐屯地食はかなり劣悪なもので、度々ハンガーストライキの原因となっていました。それに比べれば缶詰の夕食もご馳走のようなものだったようです。可哀想に。

 今回の作戦で配給された缶詰は米仏加濠など、なぜか西欧諸国のものが多く、ロシア産の配給品といえばウォッカだけだったといいます。

 西側の缶詰が配給された理由は定かではありません。ただ、過去の事例を踏まえると、ソ連軍は士気の維持に自国製の缶詰やレーションではなく外国のそれが必要だと認識していたのかもしれません。

 赤軍時代のソ連軍では米国からレンドリースされた缶詰を大量に調達しており、その総数はソ連の国内総生産量の108%に達しました。特に「ТYШОНКА」と刻印された米国製のポークシチューの缶詰が人気で、兵士たちは「第二戦線」とあだ名したほどでした。

 なお、スヴォーロフ氏の部隊は恵まれていたほうで、道路の混乱のせいで補給が滞り飢餓状態に陥る部隊もありました。

 飢えるソ連兵の姿を見たチェコスロバキア市民は憐れみから食事を施したと言いますが、そうした親切のためにかえって兵士の戦闘意欲が落ちてしまい、軍や祖国に対する不信感を募らせることになりました。


参考

コンテンツ 「軍事文学」 軍事史 第11章 1968年、プラハの春 (Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
ソ連軍の素顔(ビクトル・スヴォーロフ 著 吉本晋一郎訳 4-562-01328-1 1983年2月20日)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
ソ連軍事力の徹底研究 最新情報(藤井治夫 ISBN4-7698-0357-5 1987年9月15日)
歴史群像 No.117 2013年2月号 ソ連軍 パリ侵攻の夢 知られざる東西冷戦の軍事的決着(小峰文三 2013年2月)
HISTORYNET Meals, Revolting to Eat – the Most Disgusting Military Rations Ever(Alan Green 2019年秋)