ソ連軍の秘密戦史43
ドナウ作戦


文:nona


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https://1968yr.com/?p=443


ワルシャワ条約機構軍

 1968年8月18日、東欧4か国の指導者とソ連首脳部による秘密会議でチェコスロバキアの国内改革を制止する軍事介入が決定されました。その作戦名はドナウ作戦。

 ドナウ作戦に投入された各国の軍は一般にワルシャワ条約機構軍と呼ばれ、この時の総兵力は四十、五十万あるいは六十万人ともいわれます。要するによくわかってません。

 ただし、作戦の初期にチェコスロバキア内で活動した戦闘部隊は二十数万ほどでした。

 最大勢力のソ連軍は18個師団と兵員約17万人、固定翼およびヘリコプターの連隊を22個を投入したとされます。

 他のワルシャワ条約加盟国では、ポーランドが5個師団と兵員約4万人。東独は自動車化歩兵師団と機甲師団を約1万5千人。ハンガリーは1個師団といくつかの少数部隊を1万2500人。ブルガリアは2個の自動車化歩兵連隊と戦車大隊2164人を派遣しました。

 対するチェコスロバキア人民軍は約20万人の兵力を有していたものの、軍と国防省は事前の根回しをうけ、作戦中は中立を維持する密約を交わわしていたのです。

 ワルシャワ条約機構軍が数か月かけて準備した大兵力は、実のところダメ押しのようなもので、作戦自体もソ連軍が温めていた欧州侵攻作戦の演習のようなものでした。


白線

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http://www.ondrejkovics-sandor.com/?lg=2
白線を描いたポーランド軍のOT-64装甲車。チェコスロバキアとポーランドが共同で生産し両国軍で採用された。


 作戦中の懸念事項として、12年前のハンガリー動乱のように一部の部隊や兵士個人がプラハの春を擁護せんと軍を離脱し、独自行動をとる恐れがありました。

 彼らは近隣諸国と同じ装備体系であるため敵味方識別を困難とし、ワルシャワ条約機構軍内において同士討ちを誘発する危険な存在でした。

 同士討ちへの対策として、ワルシャワ条約機構軍は車両に敵味方識別用の大きな白十字を、航空機には赤線の識別塗装を施しました。

 これは第二次世界大戦の末期にソ連赤軍が用いた手法を踏襲したものでもあります。

 ワルシャワ条約機構軍の交戦規定では、白線のない戦闘車両は脱走者であり、現場指揮官の判断で攻撃が許可されていました。

 一方、NATO軍がチェコスロバキアに介入し偶発的接触の可能性がある場合には、軍全体に停止が命ぜられ、命令のないままの発砲も禁止されています。

 ただし、米国のジョンソン大統領が密かにチェコスロバキア問題への不介入を通達しており、そうした危険は実際にはありませんでした。

 なお、急に描かれた白線は消える可能性があるとして、同士討ちに留意せよという指示もあったのですが、塗料の不足によって白線を施さないまま投入された部隊があったといい、彼らは前線を大混乱に陥れます。

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http://www.easternorbat.com/html/soviet_4th_tactical_air_army_6.html
作戦中にチェコのミロヴィツェ郊外の飛行場に着陸したMiG-21。胴体後部から垂直尾翼にかけて識別塗装の線が施されている。


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http://www.easternorbat.com/html/soviet_4th_tactical_air_army_6.html
ソ連軍のMi-1。テイルブームの付け根に識別の線がある。



誰も奇襲に気づかない

 8月20日23時、ワルシャワ条約機構軍はドナウ作戦を発動します。ソ連軍を筆頭にポーランド、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリアの5か国の地上軍がチェコスロバキアを3方向から同時に侵攻します。

 チェコスロバキア政府は侵攻をまったく予期していなかったのですが、実はNATOも同様でした。

 NATOのブロジオ事務総長は出身国イタリアでの休暇で不在。NATO欧州連合軍最高司令官のレムニツァー米軍大将も視察旅行で不在。副最高司令官のブレイ英軍大将は無線の届かない海上にいたとされます。

 アメリカ欧州陸軍司令官のジェームズ・ポーク大将は、チェコスロバキア侵攻を自軍の情報網ではなくAP 通信の報道によってはじめてチェコスロバキア侵攻に気づきました。

 ソ連へチェコスロバキア不介入を伝えたジョンソン大統領も、第一報は自国の情報機関ではなくソ連大使館からもたらされたのです。

 侵攻の直前、NATOはワルシャワ条約機構軍の介入の時期を9月上旬以降と推測していました。チェコスロバキアでは9月9日に共産党大会が開催され、そこで大規模な法改正と保守派の人事交代が予想されるため、軍事介入もこれに合わせたものになる、というわけですがこの推測は外れてしまいました。

 米国がチェコスロバキアに介入するつもりがなかったとはいえ、NATOがワルシャワ条約機構軍の奇襲を察知できなかった点は問題となり、英国のヒーリー国防相は「多くの脆弱性を明らかにした」としています。

 ワルシャワ条約機構軍は作戦の数か月前から軍事介入の準備を進めており、演習や予備役の動員は公然と行わざるを得ませんでした。

 しかし、その後は機密の保全を徹底し軍の動向を悟られないように注意しました。ウクライナの演習に参加した部隊の多くは森林地帯に身を潜め無線封止を続けることで、米国の偵察衛星による監視やNATOの無線傍受を防ぎました。

 作戦指令書もアナディル作戦の時と同じく封緘命令書という手段をとったのです。


空挺軍の活躍

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https://englishrussia.com/2007/08/01/more-pictures-of-ussr-part-2/
ソ連空軍のAn-12輸送機


 地上部隊の侵攻開始から約4時間後の21 日午前 3 時 27 分、第7輸送航空軍所属の輸送機2 機がプラハ郊外のルズィニエ飛行場(プラハ国際空港 )へ着陸を強硬しました。

 機内から飛び出した空挺軍の特殊部隊は飛行場を15分ほどで掌握し、後続の輸送機部隊が次々に着陸しました。その間隔は25から30秒という極めて短い間隔だったようです。

 ドナウ作戦の司令部は5個の空挺軍師団と2個師団を同時に輸送できる輸送機部隊を有し、全縦深への同時攻撃を可能にしていました。

 同様の空挺作戦はチェコ第二の都市ブルノ、スロバキア最大の都市ブラチスラバに対でも行われ、主要都市の飛行場は瞬時に空挺軍に制圧されました。

 プラハに降り立った空挺軍部隊は早朝からチェコスロバキア共産党中央委員会、政府庁舎、通信局、ラジオ放送局等の重要施設へ突入。

 ドゥプチェク第一書記は拘束され、輸送機でソ連領内へのKGB施設へ連行されました。この早業によってチェコスロバキアの首脳部は麻痺し、組織だった抵抗できずに終わりました。


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https://warfarehistorynetwork.com/2016/09/22/prague-spring-1968-the-whole-world-is-watching/
プラハ中央ラジオ局前の通りで撮影されたASU-85。各空挺師団では31両のASU-85を保有した。



参考

コンテンツ 「軍事文学」 軍事史 第11章 1968年、プラハの春 (Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
ソ連軍の素顔(ビクトル・スヴォーロフ 著 吉本晋一郎訳 4-562-01328-1 1983年2月20日)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
ソ連軍事力の徹底研究 最新情報(藤井治夫 ISBN4-7698-0357-5 1987年9月15日)
歴史群像 No.117 2013年2月号 ソ連軍 パリ侵攻の夢 知られざる東西冷戦の軍事的決着(小峰文三 2013年2月)