ソ連軍の秘密戦史42
チェコスロバキア危機
文:nona
https://defaeroreport.com/2019/08/19/defaero-spotlight-the-prague-spring/
チェコスロバキア政変
1967年末、チェコスロバキアにおいて政府への抗議運動が発生。同国の大統領と党第一書記を兼任するノヴォトニー大統領へ批判が集中しました。
批判の理由は経済の停滞や抑圧政策によると説明されます。ただ、この時期は世界的に見てもベビーブーマー世代が主体となった政治活動が盛んな時期でもありました。これは日本を含む西側諸国も同様です。
ともかく、ノヴォトニー大統領は12月にブレジネフ書記長を国内に招き助けを求めたものの、ブレジネフ書記長も彼を好いていませんでした。
1964年にブレジネフらがフルシチョフ第一書記を失脚させたとき、ノヴォトニーが不満を示したというのが理由の一つとされます。
ソ連の後ろ盾を得られなかったノヴォトニーは翌年1月に第一書記の辞任を余儀なくされ、後任にスロバキア出身のアレクサンデル・ドゥプチェクが選出。1月末にはブレジネフと最初の会談を行っています。
彼は「プラハの春」と呼ばれる国内改革を開始し、検閲の廃止、旅行制限の撤廃、複数政党制や自由選挙、スロバキアとの連邦制に少数民族の権利保障を提唱。彼の政策は国民から強く支持されましたが、周辺の東欧諸国の指導部は強い危機感を抱きました。
彼らは3月23日の共産党代表者会議の場でチェコスロバキアの検閲廃止にふれ「マスコミ、ラジオ、テレビが制御不能になっている」と批判。
チェコスロバキアの放送や出版物が国境を越え東欧諸国の反体制運動に影響を与えていたのです。
また、チェコスロバキアはワルシャワ条約機構からの離脱は表明しなかったものの、西側国境の警備態勢を緩めるなどしたことで、ソ連から疑われることになりました。
プラハの春は東欧諸国の指導者にとっては「反革命」であり、各国の運動を焚きつける危険な伝染病に見えたようです。
4月の上旬、ソ連と東欧4か国の首脳は密かにチェコスロバキアへの軍事介入計画を練り始めました。
http://extravaganzafreetour.com/the-prague-spring-and-the-soviet-invasion-of-1968/
ドプチェク第一書記とブレジネフ書記長。
大演習と戦争準備
http://www.vhu.cz/vojenske-cviceni-sumava-predzvest-konce-prazskeho-jara-68/
シュマヴァ演習に投入されたOT-64装甲車。チェコスロバキアとポーランドが共同で開発した。BTR-60装甲車の設計上の欠点を改めたもので、当時の装甲車としては先進的な外見を持つ。
1968年6月、チェコスロバキア国内でワルシャワ条約機構の軍事演習「シュマヴァ」が実施されました。兵員の規模は4万あるいは5万人とされる大規模演習でした。
当初の予定ではチェコスロバキア内で東欧5か国の指揮所演習を9月に行うはずだったのですが、情勢を危惧したソ連を中心とする東欧各国の要請で、演習の内容を大幅に変更したのです。
チェコスロバキアの拒絶によって演習は6月中に終了したものの、ソ連は演習の無期限延長も提案していました。
この演習はチェコスロバキアに対する警告だった一方、かつ軍事介入の準備でもありました。
ソ連軍は演習への参加を名目にバスに乗った将校をチェコスロバキア内の街道を往来させ、侵入経路の下見を実施。彼らは基地に戻った後も写真や模型まで使って道路をくまなく暗記したとされます。
7月に入り、ソ連のウクライナ西部で「ネマン」演習が、ポーランドにおいてもシレジア地方で「OVERCAST SUMMER-68」演習が実施されました。両地域ともチェコスロバキアに隣接する地域です。
どちらの演習も大規模なものだったようで、ソ連では「ネマン」演習参加のためだとして公然と予備役兵が動員され、ポーランドでも常備の10個師団以上が投入されました。
ウクライナ西部では物資の集積が始まり、地下化された発令所など数千の野戦施設が建設されたようです。
米国の本音
1968年7月の半ば、ソ連政府内で軍事介入の是非が討議されていました。賛成者はポドゴルヌイ幹部会議長、アンドロポフKGB議長、グレチコ国防相、マズロフ第一副首相らだと言われます。
この時期のチェコスロバキアでは、まだ親ソの保守派党員や軍人、情報機関幹部が多数おりました。KGBやソ連軍が彼らへ根回しをすることで同国を無血で占領し、政府を挿げ替えられると考えたのです。
一方、ブレジネフ書記長やコスイギン首相らは可能な限り政治的手段を講じるべきと主張。軍事介入に消極的でした。
ただ、これは必ずしもチェコスロバキアに同情したからではなく、同国を巡る西側との対立を避けたかったためだと考えられます。
先のシュマヴァ演習の直後、米軍は部隊を東独国境付近に集結させ、欧州に前進配備されていた戦略原潜のパトロールを強化。西ドイツ軍も予備役の動員訓練を実施することで東側を牽制したのです。
ただ、7月22日に米国のラスク国務長官は「米国はチェコスロバキアに関わりたくはない」といった本音をソ連へ伝えていました。
NATOの主力である米軍はベトナム戦争のため欧州から戦力を引き抜いており、最前線を戦うことになる西独軍も再軍備の途上にありました。
この頃のNATOが動員できる兵力は22個師団でしたが、ワルシャワ条約機構の軍隊を押しとどめるには「最低でも」30個は必要とされ、それも戦術核の使用を前提としていました。
米国もまた、ソ連との緊張を望んではいなかったのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Kingfisher#/media/File:3.4_Marines_Operation_Kingfisher_A193813.jpg
南ベトナムでパトロール中の米海兵隊。チェコスロバキアでの緊張が高まる1967年7月に撮影。
最終交渉の失敗
7月22日の政治局会議でブレジネフは軍の提案した作戦計画を承認。その一方で近日中にチェコスロバキアに東欧各国を交えた最終交渉も実施し、軍事介入という危険な手段をとらずに済むことを期待しました。
しかしながら、一連の会談ではチェコスロバキアに明確な警告を与えておらず、そのためかドゥプチェクらも改革を修正しませんでした。東欧諸国が表面上は穏やかだったことで、彼らが国際世論に押されプラハの春を黙認したのだと解釈したのです。
しかし、状況を楽観するチェコスロバキア政府は周辺各国が軍事介入の準備態勢を維持し、ソ連が軍や保守派層に根回しを進めていたことは気づかなかったようです。
チェコスロバキアが改革を止めないことに苛立ったソ連と東欧の4か国は、8月18日の秘密会談でついに軍事介入を決定しました。
なお、この決定と同日に米国のジョンソン大統領は「米国はいかなる状況においてもチェコスロバキアの状況に干渉しない」というメッセージを密かにソ連側へ送っています。これによって軍事介入によって生じる最大の懸念事項が取り払われました。
なぜチェコスロバキアへ行くのか?
チェコスロバキアへの軍事介入作戦は同年の春頃から練られており、参加部隊は数か月にわたって準備を続けていました。
ただし、準備の目的は完全に秘匿され、一般部隊がそれを知るのは作戦決行の当日になってから。
それまでのあいだ、現場の指揮官達は限られた情報の中で、作戦の予想を試みました。
その結果、ウクライナのカルパチア軍管区では、なぜかルーマニアでの作戦説が予想の主流を占め、逆にチェコスロバキアへ行くなどあり得ない、と考えられたのです。
当時のルーマニアでは、かのニコラエ・チャウシェスクが権勢を振っており、彼がソ連を名指しで批判したことで両国の関係が悪化していたのです。
ただし、ルーマニアの周囲はソ連とその友好国で占められており、チャウシェスクがどれだけソ連の敵対国と仲良くしても、援軍を呼ぶことはできません。
さらに、ウクライナやモルドバ方面からルーマニアの首都ブカレストまでは平原と農地が続いており、ソ連地上軍の得意とする大規模な機動戦に最適な地形とされます。
一方のチェコスロバキア軍の総兵力は約20万人で、東欧の中でも近代的な装備を保有するなどルーマニアよりもずっと精強な軍隊でした。
チェコスロバキアの地形についても、東側は軍の前進を阻むカルパチア山脈があり、西部では国境を西独と接しNATO軍の介入を招く恐れがあるなど、攻め込むのは困難。
こうした事情から、カルパチア軍管区の指揮官達はチェコスロバキア方面での作戦のリスクが大きく、ソ連政府や軍上層部がそうした手段をとるはずがないと考えたのですが、結局この予想は外れたようです。
参考
コンテンツ 「軍事文学」 軍事史 第11章 1968年、プラハの春 (Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)
ザ・ソ連軍 Inside the Soviet army(ビクトル・スヴォーロフ 著 吉本晋一郎 訳 ISBN4-562-01413-X 1984年11月30日)
ソ連軍の素顔(ビクトル・スヴォーロフ 著 吉本晋一郎訳 4-562-01328-1 1983年2月20日)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
ソ連軍事力の徹底研究 最新情報(藤井治夫 ISBN4-7698-0357-5 1987年9月15日)
歴史群像 No.117 2013年2月号 ソ連軍 パリ侵攻の夢 知られざる東西冷戦の軍事的決着(小峰文三 2013年2月)
コメント
ソ連への失望も凄そう、帝政ロシアと変わんねーだろ感が
チェコ、ハンガリー、ポーランドでは自由化への希求が政権中枢にまで浸透して連綿と生き続けたんですよ
ゴルバチョフのゴーサインが出たらサクッと革命
一方東ドイツはゴルバチョフの干渉で、ルーマニアは…
そういや昔、海外ドラマでこのチェコ動乱事件の顛末を描いたのがあってNHkで放送してたっけ。スボボダ将軍なんかも登場してた。
この頃のソ連国内では
コスイギン首相の主導で経済改革が始まっていたのですが
元から資本主義的だという批判があり
今回の事件で反革命の扱いをうけ完全にとん挫しました。
ブレジネフ書記長はコスイギンを追い落とすために
そのようなレッテルを貼ったのですが
そのせいでソ連の寿命を縮めてしまったようです。
2様
ご紹介の作中に登場する
プラハの中央銀行とバイク炎上のくだりは
スヴォーロフ氏の「ソ連軍の素顔」からの引用かもしれません。
著者自身の体験ではなく伝聞のようですが
ユーモアのある話だったので、私も参考書としています。
3様
3国の中でもハンガリーの民主化は特にスムーズでした
ただ、東独やルーマニアの革命を煽るようなことまでしたのは
やり過ぎというか...
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