ソ連軍の秘密戦史41
戦利品
文:nona
https://ru.m.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Tupolev_Tu-142M.jpg
ベトナムに展開したソ連海軍航空隊のTu-142
ベトナムから必要とされ続けるソ連軍
https://vi.wikipedia.org/wiki/T%E1%BA%ADp_tin:Cam_Ranh_Bay.jpg
1987年ごろに撮影されたソ連海軍のカムラン湾基地。
1972年末の米軍による猛烈な爆撃の結果、継戦が困難になった北ベトナムは休戦協定を受諾。米軍はパリ協定に従って北ベトナムに散布した機雷を自ら除去すると、ベトナムから撤退を図りました。
北ベトナムは米軍が撤退したタイミングを見計らい、1975年3月に協定を破って3度目の南ベトナム侵攻を開始。もはや米国に援軍を送る余力はなく、4月30日に首都サイゴンは陥落しました。
この翌年に統一選挙が実施され、南北ベトナムはベトナム社会主義共和国へ統一されました。
しかし、ソ連の軍事専門家には引き続きベトナム防衛の任務が与えられました。ベトナムと中国の関係が極端に悪化していたからです。
ベトナム戦争の末期、中国は旧南ベトナムが統治していた南沙諸島の島々を占領し、北ベトナムには引き渡さずに領有化。
ベトナム戦争後は隣国のカンボジアを巡って、中国がポルポト派のクメール・ルージュを支援し、ベトナムが敵対勢力のカンプチア救国民族統一戦線を支援することで対立を深めます。
そうした事情もあってベトナムはソ連との関係をより一層強化します。1978年11月にソ連と新たに友好協力条約を結び軍事同盟としての関係を構築し、翌月にはカンボジアに侵攻。これが中国との対立を決定的なものとしました。
カムラン湾のソ連軍基地
1979年2月に中越戦争が勃発し、ベトナムは中国から侵攻を受けます。両国の国境は山岳地帯のため防御側には有利な地形でしたが、国境から首都ハノイまでの距離は約150kmほど。ベトナム軍は人民解放軍の撃退に成功したものの、危うい勝利でした。
この時のソ連は背後で存在感を示すことで中国を牽制。とはいえ、ベトナムのために中国を攻撃することはありませんでした。
中越戦争の後、ソ連は旧南ベトナム領のカムラン湾にある港湾施設と飛行場の租借権を獲得。1979年から25年間の租借契約を結びます。1980年代に入りソ連海軍航空隊のTu-95、Tu-142、Tu-16、MiG-23が同地に配備されました。
ソ連海軍の長距離爆撃機部隊はこの基地を足掛かりに、東南アジアとインド洋への進出を可能とします。特に対立関係にあった中国に対しても、これまで防備の弱かった南部地域に直接攻撃を仕掛けることも可能になりました。
しかしながら、ソ連本国の衰退をうけソ連の軍事専門家は1991年に撤収。カムラン基地も引き継いだ新生ロシアには維持が困難で、租借権が切れるまで最小規模の基地が置かれたにすぎませんでした。
https://ru.m.wikipedia.org/wiki/D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Soviet_Naval_Air_Coverage_From_Vietnam.png
カムラン基地に配備されたTu-16爆撃機、Tu-142哨戒機、Tu-95爆撃機の行動半径
危険なベトナム土産
https://en.gurutto-hanoi.com/topics/74/
BLU-3対人小弾。通称「パイナップル爆弾」。
ベトナムでS‐75部隊の指揮官だったフェドロビッチ大佐は、1年半の任務を終えて帰国する際、通訳から「持って帰りたいものは?」と問われます。その際、大佐はクラスター爆弾の小弾を所望しました。
彼が戦っていた地域でも頻繁に爆撃があり、クレーターの一つには不発となったクラスター爆弾の小弾が大量に集められていました。
そこへベトナム人の少女が手を伸ばし、パイナップル爆弾と呼ばれたBLU-3小弾を手に取ると、自ら信管と炸薬を抜き取り笑顔で大佐に手渡しました。
当時の北ベトナムでは爆弾で損傷した道路の修復や不発弾の処理に若い女性の工兵隊が従事しており、彼女はそのリーダー格でした。フェドロビッチ大佐は彼女らの隊を、第一次世界大戦下の帝政ロシア時代に存在した部隊になぞらえ「婦人決死大隊」と呼んでいます。
大佐は、このクラスター爆弾をもって帰国したものの税関で怪しまれることもなく、その後は本国の基地で資料として飾っていたそうです。
そういえば後のイラク戦争時の際、日本の新聞記者がやはりクラスター爆弾を持ち帰ろうとして、空港で爆発させる事件もありました。
クラスター爆弾というのは戦地の土産物としては手ごろな品に見えるのかもしれません。
ベトナム帰りなのにコートを買えない
https://retailer.ru/berezki-valjutnyj-raj-strany-sovetov/ベリョースカの商品券。
ベトナムから帰国した将校達は、北ベトナムから支給されたドン紙幣を使い切らずに持ち帰ってきた場合がありました。
しかしソ連の法律では外貨の国内持ち込みは厳禁。そこで外貨は税関に納め、代わりにベリョースカ用の商品券と交換する決まりでした。
ベリョースカとは、ソ連貿易商が管轄する特別な国営スーパーマーケットチェーンです。店名はロシア語で白樺を意味しますが、構成共和国によって店名が異なっていました。
もともとはソ連の物質的な豊かさを外国に宣伝するショーウインドウとして、1961年に1号店が開店しました。同店であれば、普通の商店のように行列を作って入店を待つ必要はなく、何年も予約待ちが必要な消費財(高級衣料品、家具、家電、バイクや乗用車など)も優先的に購入できたのです。
当然、ベリョースカの商品を闇市で転売すれば数倍の値段がつくものの、一般国民が商品を買い占めないよう、特別な商品券でないと買い物ができない決まりでした。
幸運にもベリョースカの商品券を手に入れたベトナム帰りのA.D.ヤロスラフツェフ大佐は1968年1月に入店。店に並ぶ高級な毛皮のコートを気に入ります。
そこで大佐はコートを買うために青い商品券を取り出したのですが、店員は笑顔のまま受け取りを拒否。大佐を落胆させました。
ベリョースカの商品券にはいくつかのランクがあり、大佐が持っていた青い商品券は購入品目に制限があったのです。この券はベトナムなど社会主義国の外貨との引き換えで渡されるものですが、そうした国の通貨に価値は殆どありません。
毛皮のコートを買うには「黄色」もしくは「縞模様」の商品券が必要でしたが、これは資本主義圏の外貨と交換する必要があり、ソ連の金券市場(闇市)では面額の5倍の価格で取引されていました。
いずれにしても、1年半にわたるベトナムでの激戦から戻ってきた軍の大佐が、自分へのご褒美すら叶わなかったことは、彼を大いに悲しませました。
理解されないベトナムの戦訓
クラスター爆弾を手に帰国したフェドロビッチ大佐は、1973年末にモスクワ郊外の地対空ミサイルS-200部隊指揮官に就任します。
この部隊では大佐の覚えをめでたくしようと陣地を整然と整え直していました。施設はきれいに塗装され、草は刈りこまれ、連絡通路にも白い砂利が敷かれていた、といいます。
ところが、ベトナムではマニュアル通りの外見を持つミサイル基地は敵に発見されやすく脆弱だったことから、大佐は基地の隠蔽を指示。特徴的な外観を持つS-200のシステムを、基地の外からはもちろん、上空からも発見されないようにするのです。これによって大佐は一安心したものの、ヘリコプターでやってきた上級部隊の指揮官はそれを快く思わず、基地を無断で手を加えた大佐を批判しました。
大佐は「小さなことでも怠ると敵に罰せられることを目の当たりにしました。」と語り、それがベトナムの戦訓であると釈明しました。
その後4年にわたって彼のS-200部隊は優秀と評価されたものの、指揮官だった大佐は冷遇され昇進も遅れてしまった、と語っています。
http://www.ausairpower.net/APA-Rus-SAM-Site-Configs-A.html
地対空ミサイルS-200の陣地。
参考
Air Power in three wars ベトナム航空戦 超大国空軍はこうして侵攻する(W・モーマイヤー著 藤田統幸 訳 ISBN4-562-01218-8 1982年2月)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
ソ連はベトナムで米国とどう戦ったか(写真特集)
(ロシア・ビヨンド 2020年7月02日)
Russians Acknowledge a Combat Role in Vietnam
(1989年4月14日 ニューヨークタイムズ)
ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織19
(P.T.フェドロビッチ 2008年4月)
ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織 20
(ボリス・ボロノフ・サンドロビッチ2008年4月)
コメント
中国のケツ持ちでイキってたのか
局地戦どころか全面核戦争でも隠蔽した方がいいだろうしマニュアル作成者は何を思って整えろと指示出したんだ
冷戦時代に西側諸国の外貨とかどうやって入手したんだ?石油が外貨獲得の大黒柱だったのは知ってるが西側は買わないだろ
文中にも書いてある通り新たな指揮官を“歓迎”するためでしょう。
他のコメでも散見されますが、ソ連等といった独裁体制を敷いた国家では上官などと言った高い地位の人間が絶大な権力を握っています。
彼らを“歓迎”することはつまるところ“迎合”であり要は『ご機嫌取り』でした。
逆に相手の機嫌を損ねるということは同時に自らの人生(キャリア)に終止符を打つような物だったがめ、彼らの信頼を得るためにはまず統率が取れていて、士気の高い組織である事を示す必要がありました。
(軍人の身だしなみチェックみたいな物ですね)
同時にコメ1さんが指摘しているような国家としての「メンツ」も非常に重要です。
体制を維持するためには権力が必要で、それを誇示するために軍事力を、引いては自らが率いる国が強大で優秀である事を国内に示さなければなりません。
特に国内で不満が広がっている状況下では国外に要因を作り出し不満を逸らす必要があるため、ポルポトのような極端な原理主義体制を敷いている場合は実態に見合わない成果を求める事もしばしばあります。
外交交渉においていくら現実的な選択であっても、メンツが立たない以上は選択出来ないという状況は昔からあるんですね。
西側と言うには国を絞りすぎですが、我が国日本は冷戦末期では主に天然ガスを輸入してた事が書いてました。
一方でガス田開発のための鋼管をソ連は輸入して若干赤字気味みたいなので外貨どこ…ここ…?って感じでした。デタントの時期であれば西欧やアメリカとも貿易がけっこうあったのかも?
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1972/1991/20/1991_20_8/_pdf
そして地上げされた秘密基地が一般公開されてエジプトの新たな観光資源に……
冷戦時代も西側とソ連は貿易してるぞ、日本の模型屋でソ連やチェコのプラモ売ってたな、神田ではソ連で出版された書籍売ってたし。
中東諸国が輸出を絞ったことによって発生したオイルショックの時、ソ連は自国産の石油を安く西側に売って恩を売ると同時に貴重な外貨稼ぎに成功したけど、戦略をふいにされた中東諸国からは恨みを買ったって話を聞いた事がある
そのぶんソ連はアラブ諸国に兵器売ってるから。
それで思い出したけとインドにもフリゲートや戦闘機輸出してました。
必要以上に綺麗にしてしまうのはよくある話で、
自衛隊の小話として有名な小銃磨きすぎて塗装剥げてる問題は、
ロシア軍やフランス外人部隊でも発生しており、
どこの兵隊も同じような境遇で生活してるってことですね。
クラスター爆弾や空中散布地雷は、
不発弾処理や地雷原処理のために派手めの塗装を施すのが多いようですが、
そのせいで、子供が物珍しさで触れてしまい被害にあうケースも多いようですね。
外貨といえば、ソ連末期にルーブルの価値が額面と実体経済とで大きな開きがあったのをいいことに、日本も含む各国の在ソ連大使館では、外貨の両替で表沙汰にできない金を荒稼ぎしまくっていた、という話を佐藤優が書いていたのを思い出す。
平時の管理を重視するなら見栄え良くしたがるのも不思議ではないのでは?
まぁ、この理由だとマニュアル製作者は実戦的な軍人ではなく、官僚主義に染まったお役人だったということになるけど
どんな職業、立場の人間なら高級コートが買えたんだろう?
東芝機械事件とか忘却のかなたか。
金の輸出とか小麦の輸入とか。
川崎重工なんか発電プラントもソ連から買っていたはず。
今でもドンは紙切れくらいの価値しかないよ、旅行行った時に万札ドンに両替したら凄い量になったし支払いや決済もドルや円の方が有難がられてたし。
硬貨に至っては価値が低過ぎて祠のお供物くらいにしか使われてない。
何ドン札か忘れたがプラスチック製で日本じゃなかなか見ないタイプのお札だったな
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