ソ連軍の秘密戦史40
B-52との大決戦


文:nona

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/195840/arc-light/

ベトナムでB-52が実施した絨毯爆撃。1965年のアークライト作戦時に撮影。

ラインバッカー作戦

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/195858/getting-closer-precision-guided-weapons-in-the-southeast-asia-war/
レーザー誘導爆弾GBU-10を積んだF-4D


 1968年3月、3年間にわたって続いた米軍による北爆の規模が急に縮小しました。

 この年の1月末、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は合同で南ベトナムに大攻勢を仕掛けていました。攻勢自体は米軍に撃退され失敗に終わったものの、民間のカメラマンたちが戦闘中のショッキングな現場を撮影していました。

 これが米国本土に伝わると、意図せず厭戦気分が広がって反戦運動が盛り上がり、北爆を困難にしたのです。

 北ベトナムにとっては怪我の功名といえますが、米軍は航空兵力をホーチミンルートへの攻撃に振り向けました。これに伴いS-75部隊もホーチミンルートの始点となる国境沿いへ移動し戦闘を続けます。

 その後3年にわたってラオスとカンボジア、南ベトナムの国境地帯で戦闘が継続されたものの、1971年、ついに米軍が南ベトナムからの撤退を開始しました。これを好機と見た北ベトナムは1972年4月、4年ぶりの南進作戦を開始します。

 南ベトナムに残る米軍の陸上戦力は僅かでしたが、航空戦力を東アジア各地からかき集め、近接航空支援に投入することで南進は阻止されました。

 その直後、北ベトナムに大打撃を与えるための北爆作戦「ラインバッカー」が5月9日に始まりました。


徹底的で効率的な空爆

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Upcoming/Photos/igphoto/2000884177/
1972年12月に撮影されたハノイ東方の鉄橋。米軍機は修復作業も逐次監視し、再建されないよう精密誘導兵器で爆撃を繰り返した。


 今回の北爆で米軍機はレーザー誘導やTV誘導による精密誘導兵器を使用。自軍の被害を抑えコンバットパッケージの規模も大幅に減らしつつ、目標を確実に破壊できたことで戦闘効率を高めていました。

 さらにはハイフォン港への機雷投下も実施しており、ソ連や同盟諸国からの軍事援助を阻止しています。

 港が封鎖された後も中国を経由した補給線はかろうじて維持されたものの、最新兵器が中国に奪われる恐れがあるとして、そうした兵器の提供は渋られました。

 このために、対電子妨害手段を施した改良型S-75や新型対空兵器の供給が滞ったとされ、ソ連とベトナムの防空部隊は厳しい戦いを強いられます。

 機雷による港の封鎖は、1965年に北爆を開始した時には禁じ手とされたものの、これを実施したところでソ連が報復に出ることはありませんでした。ラインバッカー作戦時の米国とソ連の間で、デタントが進んでいたからです。

 ラインバッカー作戦期間中だった5月22日、ニクソン大統領はソ連を訪問。戦略兵器制限交渉においてICBMの保有数でソ連に譲歩するなどして米ソ間で良好な関係を築き、逆に北ベトナムの孤立を図っています。


ラインバッカーⅡ作戦

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/195841/north-vietnam-linebacker-and-linebacker-ii/
大量の500ポンド爆弾を積み込むB-52


 ラインバッカー作戦は5か月間継続され、10月24日に停止。ここで米国はベトナムへ休戦を呼びかけます。

 ところが、ベトナム側が交渉を引き延ばそうとしたため、12月18日から29日にかけてラインバッカーⅡ作戦が実施されました。

 この時期のハノイ周辺はモンスーンによる曇天が多く、視界が遮られるために精密誘導兵器の照準は困難。レーダーや電波航法による爆撃は天候の影響をうけにくいものの、もともとの照準精度に問題がありました。

 そこで、精度の不足を爆弾の大量投下で補えるB-52を、ハノイ地域の夜間爆撃に投入することになりました。

 米空軍のB-52のうち約200機がアジア地域に集結。その中から100機前後のB-52がハノイおよびハイフォン港に向け、ほぼ毎日飛び立ちました。


B-52との闘い

 1971年12月18日の夜、最初のB-52編隊約30機がハノイ近郊に飛来。

 B-52部隊はEB-66などの電子戦機と大量のチャフを搭載したF-4による支援をうけ、S-75はこの時も電子妨害に苦しみます。

 北ベトナムとソ連の射手は果敢に防戦したものの、ミサイルを短期間のうちに大量に発射したことで残弾を失います。

 一方のB-52は全792ソーティ中741ソーティで爆撃を実施しており、ハノイ・ハイフォンの一帯に約1万5千トンの爆弾を投下。

 北ベトナム政府は米軍が無差別爆撃で民間人を殺傷していると非難したものの、継戦は困難なことから、結局は米国や南ベトナムと停戦協定を結ぶことを余儀なくされます。

 とはいえ、米軍側も初日の爆撃でB-52を3機、翌日は6機を喪失したことを認めています。

 12月29日に作戦が終わった時、計15機のB-52が北ベトナムで撃墜され、2機が損傷を負いながらの着陸に失敗し大破。帰還できたものの修理が困難と見なされて破棄された機体もあったようです。

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http://www.nhat-nam.ru/vietnamwar/oldfoto22.html
1972年12月23日にハノイ近郊に墜落したB-52の残骸



ポスト・ターゲット・ターン

 B-52が撃墜された最大の原因は、同機が投弾後に実施するポスト・ターゲット・ターンにあったようです。これは自身が投下した核爆弾の爆風に巻き込まれないよう、投弾直後の旋回で爆心地から離脱するテクニックだそうです。

 しかし、ポスト・ターゲット・ターンのせいで編隊間隔が広まり、ECMによる相互防御が崩れる問題を引き起こしていました。もちろん、通常爆弾を投下する際にポスト・ターゲット・ターンは不要です。

 また、B-52の編隊は30数機ずつ3編隊に分かれていましたが、どの編隊も決まって同じコースで飛来したため、地上の防空部隊には旋回のタイミングを覚えられていました。

 S-75部隊はこの旋回を見計らってミサイルを一斉に発射したのです。

 とはいえ、B-52の失敗もラインバッカーⅡ作戦の前半部に限ってのこと。

 後半戦ではポスト・ターゲット・ターンを中止し、爆撃後はミサイルの射程外まで直進し続けるコースに変更。編隊ごとの進入コースはランダムとし、電子妨害機能の劣る型を地上に留めることで、B-52の被害を減じていました。


S-75の戦果

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/195837/b-52s-and-linebacker-ii/
ラインバッカー作戦時にミサイルの破片が貫通したB-52の尾部機銃席のガラス。


 ソ連国防省第四局・第一対空ミサイル兵器局長のM.I.ヴォロビョフ氏によると、1972年の戦闘においてS-75部隊は 1155回交戦を記録したといいます。この時に2059発のミサイルが発射され、421の目標を撃墜したとのこと。

 これに対し、米軍は4244発ものミサイルが発射されたと記録しており、撃破数はわずか49機。例によって両者の主張には極端な差があります。

 また、ベトナム戦争中の約7年の間にソ連からベトナムへ供与されたS-75用のミサイル(V-750シリーズ)は7658発に達し、うち6806発が発射されました。

 そして、S-75システムは95セットが許与されたものの、米軍の撤収時に維持されていた部隊は39セットでした。


参考
Air Power in three wars ベトナム航空戦 超大国空軍はこうして侵攻する(W・モーマイヤー著 藤田統幸 訳 ISBN4-562-01218-8 1982年2月)

ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)

ソ連はベトナムで米国とどう戦ったか(写真特集)
(ロシア・ビヨンド 2020年7月02日)

Russians Acknowledge a Combat Role in Vietnam
(1989年4月14日 ニューヨークタイムズ)

ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織19
(P.T.フェドロビッチ 2008年4月)

ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織 20
(B.B.アレクサンドロビッチ2008年4月)

ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織 29
(M.I.ヴォロヴィヨフ 2003年)