ソ連軍の秘密戦史39
亜熱帯の電子戦
文:nona
https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196037/sa-2-surface-to-air-missile/1967年1月に米軍が撮影したS-75サイト。水田に紛れ発見を困難にしている。
S-75の命中率
米軍の記録によると、北爆を開始した1965年に発射されたSA-2(S-75)は194発。これによって11機の米軍機を撃破されたとしています。
これに対しソ連とベトナムは31機の撃墜を主張していますが、いずれにしてもS-75はベトナムで苦戦を強いられました。
これまでS-75は何度もU-2偵察機の撃墜に成功したものの、北ベトナムに侵入する米空海軍の戦術機は高い運動性を有し、適切な回避機動をとれたためです。
しかも、時がたつにつれてS-75の命中率はさらに低下します。米軍は1967年にミサイル3202発の発射を記録したものの、その撃破数は56機。撃破率は1.75%まで低下していました。
S-75の命中率が低下した原因は米軍機が発する電子妨害にありました。1967年からベトナムで戦ったソ連軍のアレクセイ・M・ベロフ少将は、80%以上の空襲が電子妨害の下で実施されたとしています。
電子妨害下の防空戦
https://www.allworldwars.com/Tactics-and-Techniques-of-Electronic-Warfare-by-Bernard-Nalty.html
電子妨害装置を搭載したF-105戦闘機部隊の編隊例
ソ連軍は電子妨害に対抗すべく、軍の専門家とミサイル設計局の技術者で編成されたチームをベトナムに派遣。機器や戦法の改良に取り組んだものの、米軍も第三国経由でS-75の実物に触れており、効果的な妨害手段を確立しつつありました。
電子妨害の方法は単純な妨害電波の発信のみならず、F-4などが搭載したAN/ALQ-100等の装置は偽電波を発信することで自機の位置を欺瞞し、レーダースクリーンに虚像を映すことも可能でした。
強力な電子妨害の下でS-75を発射するためには手動照準が必要でした。
S-75の運用が開始された1965年において、すでに29%の交戦で手動照準が使用されていますが、これはグランドクラッターの影響を排除するためでした。それが1967年1月以降になると、電子妨害のために90%以上の交戦で手動照準を強いられます。
S-75連隊の指揮官だったフェドロビッチ大佐によると、手動照準はT/T (3点法)とも呼ばれたそうです。
これは直接妨害を受けていないS-75連隊の早期警戒レーダーからの情報を元に、ミサイルの到達高度、方位、距離の3つの数値を手動で入力して発射する方式のようです。
目に見えない損害
S-75は電子妨害下にもかかわらずミサイルを発射したものの、命中はほとんど期待できませんでした。現実的には米軍機を脅かして回避行動をとるために爆弾を捨てさせて、任務を中断させるミッションキルが主な用法だった、と米軍はみていました。
ベトナム戦争当時、米空軍はF-105戦闘爆撃機を1機ハノイ地域へ送るために、その数倍の護衛戦闘機や支援機を飛ばしていました。
米空軍が北爆に用いたコンバットパッケージは約80機の大編隊でしたが、実際に目標を空爆するのはたった16機だけ、それも無誘導の爆弾やロケットを使用しているために無駄球が多く、再攻撃が必要になる場合も多々ありました。
S-75は戦闘爆撃機を1機追い返すだけでも、地上施設への被害を減らしつつ米軍に無駄な苦労を強いて、目に見えない損害を与えられました。
とはいえ、S-75の射手達も牽制のために大量のミサイルを消費せざるを得ない状況にありました。ソ連本国のミサイルも払底しつつあったらしく、本国の防空軍に徴集された元兵士の話として、国内の基地にダミーのミサイルを並べてしのいだ、とする証言があります。
妨害の弱まるタイミング
完璧に思えた米軍機の電子妨害でしたが、編隊が乱れた時に効果が低下することがありました。S-75の射手はこのタイミングを狙って、少ないながらも撃墜戦果を得たようです。
通常、米空軍の戦闘爆撃機はALQ-71などの電子妨害ポッドを携行していましたが、ポッドが発する電子妨害の効果範囲、周波数域はさほど広くありませんでした。
そこで、各機が異なる周波数に調整したポッドを携行し、比較的密集した編隊を組んで互いに防御し合うことで、ポッドの性能の不足を補っていました。
S-75の射手達は米軍機の編隊を崩すことに注力し、複数のS-75が一斉に手動照準で編隊を攻撃しました。これにより米軍機が編隊を解いて各個に回避機動をとるよう仕向け、電子妨害の効力が落ちたところで1機ずつ集中攻撃を加えたのです。
ミサイルの故障を疑われる
1967年12月ごろ、ミサイルが発射直後に制御を失い、次々と地上に衝突するトラブルが多発します。15日の戦闘では29発のうち11発のミサイルが地上に落ち、ハノイ近郊の農民を殺傷する惨事になりました。
この知らせにソ連とベトナムの射手たちは狼狽えミサイルの故障を疑いはじめました。このミサイルには東独などの言語が記されていた痕跡があったため、中古品だったことが原因ではないか、というのです。
一方、ソ連国防省第四局(兵器局?)第一対空ミサイル兵器局長のM.I.ヴォロビョフ氏は、米軍機による電子妨害が原因だと考えました。
確かにミサイルは中古品ではあるものの、本国の工場で確実に再整備されており、設計寿命である10年は超過していなかったのです。
程なくして、捕虜となった米軍機のパイロットが妨害装置の新機能を自白。米軍機はS-75のレーダー電波ではなく、ミサイルを遠隔操縦する信号を妨害したことが判明しました。
ヴォロビョフ氏らは1個のS-75部隊を借り受けて対抗策が検証されました。幸いなことに年末年始はハノイ周辺で悪天候が続いたため米軍も作戦を中止しており、対抗策をとる時間もあったようです。
そして、翌年1月の中旬に空襲が再開された際には、もうミサイルが制御を失うことはありませんでした。
対空砲の活躍
https://www.nationalmuseum.af.mil/Upcoming/Photos/igphoto/2000883978/
畑の中に輪形に並ぶ8基の対空砲陣地。無人偵察機ファイアービーが1969年に撮影。
これまでS-75の活躍を解説しましたが、ベトナム戦争で撃破された米軍機のうち、S-75をはじめとする地対空ミサイルによる戦果は約3割ほど。6割強の米軍機は対空砲によって撃破されていました。
ベトナムの対空砲はほとんどが牽引式ですが、米軍機が多用した侵入コースを狙って頻繁に陣地を転換し、擬装や囮を多用することで発見を困難にしていました。
北ベトナム内には大量の対空砲が配備されており、米軍の推定では1967年に約7000門が稼働していました。対してS-75は30個強、MiG戦闘機は100から150機程度だったとしています。
米軍機が特に恐れた57mm高射砲システムS-60の有効射程は6km、射高も4kmあり、命中した場合、大抵の航空機は一撃で撃墜されました。
このS-60も電子妨害には弱く、目視照準時の有効射程は1.5kmまで低下したとされます。それでも戦闘爆撃機も無誘導兵器を用いるため目標へ肉薄する必要から、対空砲で米軍機を撃墜するチャンスは必ずありました。
ベトナムのMiG戦闘機
https://www.nationalmuseum.af.mil/Upcoming/Photos/igphoto/2000270992/
高高度予圧服を装着したベトナムのMiG-21パイロット。
ベトナム戦争ではソ連製のMiG戦闘機の活躍も知られているものの、戦闘機による戦果は全体の1割以下で、対空砲や地対空ミサイルほどではなかったようです。
また、朝鮮戦争や中東の消耗戦争とは異なり、ソ連人パイロットは空中戦に積極的は参加していなかったとされます。
戦闘に加わったのはベトナム人と秘密裏に参戦した北朝鮮のMiG-17パイロットであり、ソ連人パイロットの任務はあくまで教官でした。ベトナム人のパイロットは経験こそ不足していたものの、彼らをソ連式の有機的な防空組織に組み込み、迎撃管制官の指示で戦うことで高い戦闘力を発揮しました。
米軍の記録では、迎撃管制官はパイロットに攻撃や離脱のタイミングを細かく指示したとされ、パイロットは難しい判断をせずに戦闘に集中できたといいます。
1967年の春に米国政府が飛行場への空爆を解禁したことで、MiG戦闘機の活動はかなり制限されます。しかし、それ以前の空中戦ではドッグファイトに不慣れな米軍のパイロットを相手に善戦していました。
政府が2年間も飛行場の空爆を認めなかったのは、そこに中国のパイロットや技術者が大勢おり、彼らを殺傷すれば本国軍の本格介入を招く、と恐れていたからです。
15年前の朝鮮戦争のとき、MiG-15戦闘機は米軍が爆撃できない中国の国境側から飛来していました。政府としてはそのような状況をベトナムで繰り返すことは避けたかったわけですが、結果的には北ベトナム側に利する判断でした。
参考
Air Power in three wars ベトナム航空戦 超大国空軍はこうして侵攻する(W・モーマイヤー著 藤田統幸 訳 ISBN4-562-01218-8 1982年2月)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
ソ連はベトナムで米国とどう戦ったか(写真特集)
(ロシア・ビヨンド 2020年7月02日)
ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織 21
(P.T.フェドロビッチ 2008年4月)
ベトナム戦争退役軍人地域間社会組織 20
(アレクセイ・ミハイロビッチ・ベロフ 2008年4月)
Красная звезда(redstar)
Те годы навсегда останутся в нашей памяти
(2003年12日 Григорий БЕЛОВ グリゴリー・ベロフ)
SA-2 SAM system explained in detail (Soviet name S-75)
https://www.youtube.com/watch?v=uX7m-MnjsKA&t=1211s
(2021年1月7日 Binkov's Battlegrounds )
コメント
パリ会談までの北爆は米軍からしてもお遊びレベルだったのが会談直前には徹底した爆撃でベトナムは継戦能力を失うわけだけどもそこも気になりますね
よく知られていますが、その間北ベトナムとソ連軍事顧問団はいかなる対策を
とっていたのか、次回の投稿が楽しみです
北爆はともかく地上戦では…
点と線しか確保しないような戦い方のまずさっていうのは後世の反省材料となり…
ゲリラ戦であったりラオスやカンボジアを拠点にされてどうにもならぬ等の要素もあったが
1966年にモサドの手引きによりイラク空軍パイロットによるMiG-21亡命(ダイヤモンド作戦)や、消耗戦争中の1969年に行われたエジプト軍のP-12早期警戒レーダー捕獲作戦(ロースター53作戦)で入手した現物を研究していますからね。
MiG-21やP-12早期警戒レーダーは、当時の北ベトナムにも供与されていますからね。
米軍、ソ連軍のその後の戦術・兵器開発に多大な影響を与える戦いになってそうですね。
対高高度、大型機用のS-75がメインではな。後半に投入されたS-125はそれなりに戦果を挙げている。
もっとも、直接的な戦果ではなく、防空システムの総合的な戦果という面を見ればかなりの損害を与えているんだけれども。対空砲による損害が多いのも、ミサイルを避けるため低高度で侵入せざるを得なかった場面もあっただろうし。
ドイツでは高名な88mmで5千発弱で一機撃墜、120mmクラスで2千数百発で一機というデータがあった
SA2だと2%だから50発で一機
戦争は金と物資を湯水のように使う
名無しのミリヲタ(ワニ)様
KS-19(59式?)の資料は残念ながら不足しております。
1972年のラインバッカー作戦開始時
米空軍が事前に発見したハノイ地域の高射砲884門のうち
824門が37mmと57mm砲で、その残りが85/100mm砲でした。
数としては少ない様です。
KS-19の管制レーダーは他の対空砲と同様にECMに脆弱で
しかも近距離での射撃においては追従性が不足したので
実際の脅威度は低かったとされます。
ただ、B-52の乗員だったある大尉が「砲弾の炸裂で作られた雲の上を歩けそうだ」
と証言したらほどなので、それなりに恐れられたようです。
特殊な用法として
安全高度からレーザー誘導爆弾を使用する爆撃機に対しての
牽制用に活用された例もあるようです。
MIM-23につきましても資料がほとんど...
一応ダナン基地近くの高地に配備されたときの写真がいくつか残っています。
良いところに陣取っていると感心しましたが
ダナン基地自体が激戦地になっていましたので
ホークも砲撃に晒されたのかもしれません。
14様
ベトナムでは高名でもないのですが
ソ連は前大戦で鹵獲した88mm砲を16門、北ベトナムに供与しておりました。
同国はウルツブルグレーダーも別ルートで入手していたそうです。
ただし、ベトナム戦争激化の直前に旧式化装備を一斉に廃棄したらしく
実戦で使用されたのかは不明です。
政治でも米側は負けていたけど、戦術は勝っても作戦次元でダメだったというのが米陸軍の評価ーここから米軍の作戦術研究が始まることになるのですが、まあこれは別の話ということで。
あと北ベトナム側の戦闘機のスコアの大部分がドローンだったりするのが辛い…。
まあ放っておくと偵察写真を撮られてしまうので、ドローン退治も立派な任務ではあるんだけど。
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