ソ連軍の秘密戦史37
ベトナム防空戦
文:nona
https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196037/sa-2-surface-to-air-missile/
ベトナム戦争の激化
1965年2月7日、米軍は北ベトナム(ベトナム民主共和国)への大規模な空爆を開始しました。
当時の北ベトナムは、南ベトナム内の反政府組織「南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)」を支援し、南ベトナムをゲリラ戦で疲弊させるとともに、武力統一の機会をうかがっていました。
南ベトナムを支援する米国は同国の消滅と、これに伴う東南アジア全域への赤化の波及を危惧。
1965年2月に南ベトナムが大規模なゲリラ攻撃をうけた直後、彼らの策源地だった北ベトナム内の拠点を継続的に空爆することにしたのです。
北ベトナムにとって幸いだったのは、米国政府が戦争の激化を避けるため、当初は空爆の地域を北緯20°以南に限定したことでした。
米軍は北ベトナムへの徹底的な空爆を望んだものの、米国政府はベトナムの友好国である中国を刺激してはならない、との考えがありました。
とはいえ、米軍による航空偵察は北ベトナムの全域で実施され、2月中には首都ハノイ上空にも偵察機が侵入します。そのうえで米国政府が必要と認めれば、北部地域に対する空爆も実施されるようになりました。
このとき北ベトナムが保有していた防空戦力は、中国が供与した1個航空連隊のJ-5(中国で生産されたMiG-17F)、3基の対空レーダー、中小口径の対空砲がある程度。米軍機がハノイ・デルタ地域まで進出した場合、北ベトナムが対抗できる見込みはありませんでした。
中国はこれまで通り北ベトナムへ軍事援助を続けたものの、それらに米軍に対抗できる近代兵器は含まれていませんでした。
そうした状況の中でソ連のコスイギン首相がハノイを訪問し、大規模な軍事支援を約束。翌月に第一陣となる軍事専門家の部隊が派遣され、北ベトナムの防空組織建設に乗り出します。
https://www.nationalmuseum.af.mil/Upcoming/Photos/igphoto/2000884232/
1965年に南ベトナムのビエンホア撮影されたU-2。背後のA-1攻撃機と初飛行年の差はわずか10年。
ソ連とベトナムの微妙な関係
ソ連と北ベトナムはともに社会主義陣営に属する国ですが、この頃のベトナムにとって最大の友好国は中国でした。
北ベトナムの指導部も親中派の勢力は強く、これまでソ連はベトナムに影響力を及ぼせずにいました。
ベトナムと中国の友好関係は第一次インドシナ戦争時に深まったとされます。中国は朝鮮戦争の最中にベトナムへ鹵獲兵器を供与し、休戦後には余剰となった兵器も追加。1954年のディエンビエンフーの戦いにおける勝利も、中国からの援助があってのことでした。
一方のソ連は1950年の時点でベトナム民主共和国を承認したものの、中国ほど熱心な援助はしませんでした。
この国家承認はホー・チ・ミン主席のモスクワ訪問時になされたものの、スターリン書記長はこの対応を後悔。彼がモスクワにやってきたことは非公表としました。
スターリンは会見時の成り行きでホー・チ・ミンへ直筆サインを与えたことすら悔やんでおり、秘密警察に命じて密かにサインを没収。そのことを内々で笑い話にした、とフルシチョフは回想しています。
スターリンがホー・チ・ミンに塩対応した理由はベトナム側が仏国に勝てない、と考えていたからでした。
スターリンはベトナムの革命勢力と仏国を天秤にかけ、望み薄に見えたホー・チ・ミンを切り捨て、仏国との関係を保とうとしたのです。
ただし、彼の後継者であるフルシチョフも北ベトナムへの支援には慎重で、北ベトナムもまた、中国との関係を重視し続けました。
フルシチョフとしても、北ベトナムがソ連の武器を手に南ベトナムへ侵攻することで、ソ連と米国の平和共存関係に亀裂が生じることを避けたかったのです。
しかし、1964年10月にフルシチョフ第一書記は失脚。その翌月にトンキン湾事件が発生し米国のベトナム本格介入が現実的になると、ソ連とベトナムは方針を転換。両国は新たな関係を模索し始めました。
ベトナムへの軍事援助
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/USN-1129000/USN-1129635.html
ベトナムのハイフォン港を目指すソ連貨物船ムツェンスク。1967年11月7日に空母キアサージの艦載機が撮影。
ソ連軍は北ベトナム支援にあたり、1961年から派遣していた軍事顧問団に加え、兵器を維持管理する名目で6000名以上のソ連軍事専門家のグループ(GSVS)を派遣。彼らは事実上の戦闘員であり、米軍機の撃墜に関与しました。
戦争の全期間を通じてソ連から北ベトナムへ供与した兵器は、地対空ミサイルシステムS-75(SA-2ガイドライン)95セット、固定翼機500機以上、ヘリコプター120機以上、高射砲5000門以上、戦車約600両を含む戦闘車両2000両。
輸送経路には対立関係にあった中国ルートもかろうじて維持された一方、常時20隻以上のソ連船が兵器と戦略物資輸送に従事しています。貨物船は極東の港だけでなく、遠く黒海からも派遣されました。
フィリピン海や南シナ海ではソ連の情報収集艦や仮装漁船も活発に活動。トンキン湾の米空母艦隊や陸上基地の周辺で航空機の発進を監視することで、北ベトナムの防空に貢献しました。
https://ru.m.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:RZK_Gidrofon_underway_with_USS_Coral_Sea_and_her_escort.jpg
遠洋漁船に扮したソ連の情報収集船。海上補給中の空母コーラルシーに接近している。
ベトナム人の警戒心
http://www.nhat-nam.ru/vietnamwar/oldfoto26.html
ベトナムの37mm対空砲とソ連の顧問たち。1965年に撮影。
1965年3月、軍事専門家の第一陣が中国経由でベトナムに到着。船便でハイフォン港に到着した兵器の組み立てと、取り扱いの教育をはじめます。
教育において最大の障壁は言語の壁だったとされますが、それ以前にベトナム人が抱く外国人への警戒心も解く必要があったようです。
ソ連軍事専門家グループの総司令官を務めたベロフ少将は「ベトナム人は軍人も民間人も関係なく監視し腹を探り、どんな目的と意図を持ってやって来たのか理解しようとしていた。ベトナムからフランス人が放逐されて10年余りしか経っていなかったのだから無理もない。」と回想しています。
しかしながら、こうした不信はソ連人の熱心な説明で取り除かれ、ベトナム人もソ連人への援助を惜しみませんでした。
ベロフ少将が地方を視察中に米軍機の空襲をうけたとき、通訳のベトナム人大尉は少将に上から覆いかぶさることで、爆撃から守ろうとました。
大尉は命を犠牲にしても少将を守るよう命じられたと語り、少将も大尉の身を挺しての行動に感謝。両国の強い結びつきを確信しました。
参考
Air Power in three wars ベトナム航空戦 超大国空軍はこうして侵攻する(W・モーマイヤー著 藤田統幸 訳 ISBN4-562-01218-8 1982年2月)
ソ連地上軍 兵器と戦術の全て(デービッド・C・イスビー著、林憲三訳 ISBN978-4-562-01841-3 1987年1月20日)
ソ連はベトナムで米国とどう戦ったか(写真特集)
(ロシア・ビヨンド 2020年7月02日)
The New York Times
Why Were the Russians in Vietnam?
(2018年3月27日 Sergey Radchenko)
Красная звезда(redstar)
Те годы навсегда останутся в нашей памяти
(2003年12日 Григорий БЕЛОВ グリゴリー・ベロフ)
Мемориал Победы
Боевые действия во Вьетнаме
コメント
その反省からベトナムでは限定的な介入となったが、より泥沼化したという皮肉な顛末…
…となったが、南ベトナムは勝てないという分析はマクナマラ文書で早くから判明しており、手を引く事からの政治的打撃を恐れダラダラと続けてしまい当然の帰結と言ったところか
分かっていながらやめられない止まらない、戦争は終わらせ方が難しい…
戦争が上手な連中は、あっという間に戦争を終わらせるって、なんかの本でソマリ人が言ってたな。
ソマリアでずっと戦争やってる地域は、戦争が下手な部族の支配地域で、獰猛な部族の地域は、むしろずっと平和で、戦争なんかせずに選挙で大統領決めてるんだそうな。
ソマリアでは国連による粘り強い調停活動が果たした役割も大きいっすよ
ソマリアに限らずアフリカなどでも、だけど
ロシア人高級将校ってWW2から現代シリアまで、
現地視察頻繁に行って結構危ない目に会ってるよな…(何件か死亡例も)
実際に現地を確認しないと気が済まないのか、
それとも教本か何かにそう書いてあるのだろうか?
アメリカは中途半端な介入でズルズル続いた感じだけど、
ってつけ忘れたわ
現地人の人心掌握は介入に必要不可欠。
アフガンでもCIAが直接現地に出向いて軍事訓練と兵器の取り扱いを教導してる。
旧ソ連の場合には政治的な意思決定を現地で行う必要性から政治将校が出向く必要があった。
この辺は軍人に一定以上の権限を与えず監視監督する独裁国家によく見られる傾向。
あとは単純に政治責任者が出向くことで、同じ独裁体制である相手の指導者や政治中枢に直談判出来るというメリットが大きい。
独裁国家には特に有効な手段。
戦闘が無ければ多少緊張状態でも政治家が出向く効果は台湾に行くアメリカ上院議員とか見てると分かる。
ケースバイケースですね。
昨今だと半端な関与したシリアなんかは地獄と化しました。
かと言って武力介入してどうなったかは神のみぞ知るって具合でして。
なおイギリス(言うまでもない
日本陸軍だって中村大尉事件だのあったし、特務機関もあったし将校が乗り込むのは基本
政治将校は積極的に現地の意思決定に介入する前例と端緒を作るようにマニュアルがありました
>>10
すまん書き方悪かったわ、
左官ぐらいまでならわかるんだが、
将官クラスが十分な安全確保されてない現地視察(最前線)に出向く回数が異様に多いんだよね…
昨年のシリアではパトロールに同行してた少将がIEDで亡くなってる。
>>11
スムーズに現地情勢に介入するために将官の派遣はマニュアル化されてるんですね…
アメリカなどでは少将が通常の最高位で、それ以上は役職に応じた一時的なものらしい
ソ連は将官位を乱発してたと違います?
元帥乱発した国もあったな
上に射ったら有効射程は短くなって小銃程度で撃墜できるほどの効果があるんだろうか
戦意高揚で撃墜申請あればみんな認めていたようだし、その類いではないかと思う
見越し射撃の天才、マルセイユさんなら可能かも知れない
竹で作ったトラップでヘリを叩き落とそうとしたなんて話はあったような気がするワニ。
米国の場合は大統領の交代で
泥沼の戦争から手を引く機会があるのが
救いかもしれません。
ソ連の場合は指導者と側近が寿命で死なない限り
撤退はできないもので...
2様、3様
ソマリアといえば
ソ連は軍事顧問団を派遣して戦車や戦闘機を供与してましたが
オガデン戦争のときは完全に見切りをつけてました。
アフリカにおけるソ連軍の活動はマイナーな話ばかりですが
1例くらいは取り上げてみたいと考えています。
名無しのミリヲタ(ワニ)様
72年4月19日の戦闘でしょうか?
この日にベトナム側は数機の改造型MiG-17Fを米艦隊に差し向けていました。
MiG-17とステュクスはよく似ていますので...
米国の認めるところでは2隻が爆弾をうけ軽微な損傷を負ったといいます。
5様
米軍はハノイ市街地を爆撃禁止区域としていたので
大使館付近などは安全地帯になっていました。
それでも指揮官が危険な現場に出向く理由は様々だと思いますが
ベロフ少将が派遣されていた頃は
米軍の地上部隊が北側に侵攻してくる懸念が
残っていた時期でした。
地上戦への備えだったのかもしれません。
6様
米空軍のモーマイヤー大将は
中ソへの配慮をせず徹底的に空爆できていれば結果は違った、
と政府への恨み節を残しています。
65年春の時点でラインバッカー作戦と同等の戦い方が認められていれば
2,3年は北ベトナムのゲリラ支援を停止できたはずです。
ただ、南ベトナムの情勢が安定しない限り
歴史通りの結果になるかもしれませんが
死傷者はいくらか減りそうです。
8様
現地人の人心掌握といえば
ベトナムでは、すでに中国との関係があったので
後発のソ連が入り込むには口のうまい人が必要だったかもしれません。
アラブの春からもう10年ですね。
米露は軍事衝突を避けていますが
非公式には両国の戦闘が何度もあった...
かもしれません。
10様
行方不明になった辻政信氏のことを思い出しました。
たしかベトナム(ラオス?)で
消息を絶たれたと聞きます。何しに行ったのでしょうね。
11様
ベトナムのソ連軍はスボートニクをやっていたそうです。
当初は中国の顧問達もやっていたのですが
次第にソ連側の主張がベトナム政府に通るようになり
中国側の奉仕は中止に追い込まれたようです。
「中国はいずれベトナムを属国にするつもりだ(でも私たちは違う)」
と政治将校が吹聴していたのかもしれませんね。
12様
ここのコメント欄では戦死率が高めの少将ですが
珍しいこと故に記録に残るのかもしれません。
ソ連軍の教範によると
少将の務める師団司令部の位置は
防衛戦闘時で最前線の斥候部隊から約70㎞
第一線の戦闘陣地から40-50㎞後方とされているようです
不正規戦ならまだしも全力で戦う準備ができていれば
あっさりと戦死することはないはずです。
13様
ソ連軍の階級別の人員数に関する本を持っているのですが
どのページだったか失念してしまいました。
元帥といえば
ソ連軍には兵科元帥、兵科上級元帥(総元帥)、国家元帥、大元帥
がいたようなのですが、区別が細かすぎて混乱しています。
14様,15様
米軍の記録では
ハノイ地域に配備された対空砲の総数が一番多かったのが
1966年で、翌年にはいくらか減少したそうです。
小口径機関銃の戦果が芳しくないので
配置換えしたからだ、と推測できるようです。
小銃による撃墜戦果は、実際にはほんの僅かだったかもしれません。
それワニ。英語Wikiの「Battle of Đồng Hới」(https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_%C4%90%E1%BB%93ng_H%E1%BB%9Bi)からNavWeapsの記事へのリンクがあるワニ。
「History and Technology - Analysis of the Battle of Dong Hoi - NavWeaps」
http://www.navweaps.com/index_tech/tech-025.php
「History and Technology - The Battle of Dong Hoi: Alternative Views - NavWeaps」
http://www.navweaps.com/index_tech/tech-088.php
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