ソ連軍の秘密戦史36
Yak-28の珍事件
文:nona
https://en.wikipedia.org/wiki/Yakovlev_Yak-28Yak-28はヤコブレフ設計局が開発した軍用航空機で、レシプロ機とジェット機を折衷したかような奇抜な姿で知られます。
古典的なガラス張りの機首を採用しながら超音速飛行が可能であり、上から見た姿を形容したものか、現場では「櫛(クシ)」と呼ばれました。
同機は1960年代からソ連崩壊まで、ソ連空軍、防空軍、海軍航空隊において爆撃機、迎撃機、偵察機、電子戦機などの多様な任務で使用されたものの、輸出はなされず目立った活躍もないため、日本での知名度はそれなり。
しかし、Yak-28はソ連や東欧圏内ならではのドメスティックな事件に数多くかかわっており、今回はその一例を紹介したいと思います。
西ベルリンYak-28墜落事件http://www.airwar.ru/enc/fighter/yak28.htmlYak-28P。
機首と主翼の設計が見直され、爆撃機型と比べて速度性能が向上している。
1966年4月6日の15時ごろ、東独のベルリン北東にあったフィノフ飛行場から2機のYak-28P(ファイアバーA)が離陸しました。(機種をYak-2「7」Rとする説もあり)
ところが、1機のYak-28の片側エンジンが停止。コントロールが効かなくなるトラブルに見舞われます。
操縦困難により飛行場へ戻ることを断念したパイロットのカプスティン大尉は、機体を郊外の無人地帯まで飛ばしてから脱出しようと考えます。
カプスティン大尉はナビゲーター席のヤノフ上級中尉に脱出を促したものの、脱出後に空力特性の変化する恐れがあるとして、彼も機内に留まることを決意。
操縦以外の煩雑な作業を担当してカプスティン大尉を助けました。
Yak-28はベルリン西部を流れるハーフェル川のそばまでどうにか飛行できたものの、堤防を回避しようと上昇したときに機体が失速し、ベルリンの英国管理地区だったシュテセン湖に墜落。
脱出のタイミングを逸したプスティン大尉とヤノフ上級中尉は機体と運命を共にしました。https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%AF%D0%BD%D0%BE%D0%B2,_%D0%AE%D1%80%D0%B8%D0%B9_%D0%9D%D0%B8%D0%BA%D0%BE%D0%BB%D0%B0%D0%B5%D0%B2%D0%B8%D1%8
ベルリンのシュテセン湖と事件のあらましを記す看板。
墜落機の秘密を暴かれた
二人の死は市民への被害を防ぐための勇気ある行動として、西ベルリン市民や連合国の関係者から称賛と哀悼の言葉が送られます。
英国は本国から楽団を派遣し、二人の葬儀ではパグパイプで葬送曲を奏でました。表向きは礼節を持ってソ連に接した英国ですが、他方では秘密の多いソ連の迎撃機に接するまたとない機会でしたから、そこは抜け目なく立ち回っています。
英国は機体の回収の申し出るソ連を制止しつつ、ファーンボロの航空技術研究所から専門チームを現地に派遣、自らYak-28を引き揚げました。
湖底に散らばった部品は英国のダイバーが漏らさず回収しています。特に重要なエンジンや電子機器などの部品は秘密裏に英国へ送られて分析され、再びYak-28の残骸に取り付けてから何食わぬ顔でソ連側へ返還しました。
ソ連は返還されたYak-28の部品を1点ずつチェックし、いくつかの部品が紛失し、意図的に取り外された痕跡もあることに気づきます。
英国は部品は湖底の泥に沈んでいるかもしれないとはぐらかしたのですが、ソ連側が英国の嘘を証明することは困難でした。https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%AF%D0%BA-28
極東のアルセーニエフに建てられたYak-28のモニュメント。Yak-28は1981年にも墜落事故を起こしており、このとき死亡した搭乗員2名も脱出せずに機体を市街地から遠ざけようとしていた、とされる。
逃亡機の撃墜ならずhttp://www.airwar.ru/enc/fighter/yak28.html
Yak-28P。
1967年3月13日、黒海に面するクラスノダール地方のトゥアプセで小型旅客機An-2Pが奪取される事件が発生。
犯人の名はスクリエフといい、元ソ連空軍パイロットで犯罪を犯して除隊させられたという札付きの人物とされます。ハイジャックの目的はトルコへの亡命。https://en.wikipedia.org/wiki/Antonov_An-2#/media/File:Antonov_AN-2_(cropped).jpg
エストニア軍所有のAn-2。
このAn-2Pを追跡したのが防空軍第171戦闘機航空連隊のYak-28P。両機の速度差はかなりのものですから、An-2Pに追いつくのは難しいことではなかったはずです。
その後にYak-28Pに撃墜指令が下ったものの、An-2Pは海面すれすれを飛行することで対抗。
Yak-28Pはぎりぎりまで高度を落としセミアクティブレーダー誘導のR-8(AA-3)を発射したものの、レーダー波が海面で乱反射したためかミサイルは外れてしまいます。
そこで地上と無線を中継するために随伴していたV.N.プリシヤ中佐のMiG-17がAn-2に接近し、機関砲を浴びせて撃墜。操縦者も死亡したとされます。
Yak-28Pと同時代に開発された迎撃機によくあることですが、有用でないとの判断から機関砲は搭載されない場合があり、そのために手柄を旧式機のMiG-17に譲ることになったのです。http://aviadejavu.ru/Site/Crafts/Craft20358.htm
MiG-17PF
反乱艦を探せhttps://en.wikipedia.org/wiki/Soviet_frigate_Storozhevoy
1988年に撮影されたストロジェボイの同型艦
1975年11月8日の夜、ラトビアのリガ湾に停泊していた1135型警備艦(クリヴァクⅠ型フリゲート)ストロジェボイで、政治将校サプリン大尉による叛乱が発生。
彼はソ連政府に改革を訴えるという大義をもって乗組員を扇動、ストロジェボイを奪取し艦隊から離反します。(この事件の詳細は別記事で解説予定)
事件が発覚した翌日の未明、ラトビア・トゥクムス基地の海軍第668爆撃航空連隊に出撃命令が下ります。
夜明けと共にストロジェボイを捜索する1機のYak-28が飛び立ち、その5分後に爆装した2機が後を追いました。
しかし、この季節のバルト海は低空に雲と霞が発生やすく、ストロジェボイの捜索は難航。
どうにかキラー役のYak-28がそれらしい艦影を発見し、警告として爆弾を進路上へ投下しました。
ところが、ストロジェボイに見えた艦影は事件と無関係なソ連の貨物船。人的被害はなかったものの爆発で飛散した破片によって外装に傷をつけてしまいます。
ストロジェボイを撃沈せよ
この失敗の後、668爆撃航空連隊に「ストロジェボイが航行を停止しないようなら撃沈せよ」との司令が下り、爆装した18機のYak-28が発進。
海上の視界不良は幾分改善されていましたが、離陸時の混乱のために適切な編隊を組めず、同時集中攻撃は困難な状態でした。
Yak-28は爆弾を投下するためにストロジェボイに肉薄する必要がありますが、ストロジェボイは最新鋭の個艦防空ミサイルと連装速射砲を2門装備しており戦い方次第では、1機ずつ順番に撃墜される恐れがあったのです。
幸いストロジェボイからの攻撃はなく、投下された爆弾の1発がストロジェボイの後部甲板に命中。死傷者はなかったものの舵を損傷し、その場をくるくると回り始めました。
ストロジェボイの乗組員は味方から攻撃をうけるとは思っておらず、恐怖にかられてサプリンから離反。
解放された艦長らは拳銃でサプリンの足を撃って彼を拘束、10時20分ごろに反乱は鎮圧されました。
わび酒
結果的に668連隊は一切の死者を出さずに(事件後に首謀者のサプリンは処刑)ストロジェボイの無力化に成功したのですが、撃沈するつもりで投下した爆弾は舵を破壊した1発を除いて命中せず、民間船まで誤爆したのですから後が大変です。
流石のソ連軍といえども詫びを入れる必要があったのか、ヴェンツピルス港に停泊していた民間船に対し、補修用の塗料5トンとタンクローリーに積まれた蒸留酒を提供しています。
現物支給を賠償とするのがいかにもソビエトらしい話ですが、お酒は事件のことを忘れてもらうためのものだったのでしょうか。
参考
世界の傑作機 No.159 ヤコヴレフYak-25Yak-28(文林堂編 ISBN978-4-89319-224-0 2014年3月)
ソ連の航空機 その技術と設計思想(A・S・ヤコブレフ N・A・フォーミン著 遠藤浩訳 1982年3月25日 ISBN4-562-01219-6)
Подвиг Юрия Янова и Бориса Капустина
A Wolf in Berlin Operation Red Comet
(John H. Williams)
Берлинский подвиг советских лётчиков: «Огромное небо одно на двоих»
(Алексей Костенков 2020年8月23日)
Вооруженный мятеж на Балтфлоте
(Александр Цымбалов 2004年8月20日)
コメント
いつも興味深い記事をおありがとうございます。
地上への二次被害を避けようとギリギリまでベイルアウトせず機と運命を共にする搭乗員って、空自に限らずおられるのですね(T_T)
一方で、ドサクサ紛れにしっかり情報収集する英国は流石としか言いようがない。
伊達にブリカスとは呼ばれてないぜ!
英国といえば、超音速戦闘機なのにガラス張りの機首や巨大なエンジンを主翼へポッド装備したYak-28の不気味デザインからは若干の英国面を感じますw
>補修用の塗料5トンとタンクローリーに積まれた蒸留酒を提供しています。
塗料の5トンも多過ぎな気がしますが、タンクローリーに蒸留酒って・・・・・・w
自家消費しきれるとも思えないので、お詫びの印に闇市での転売黙認ってことなんでしょうかね?
しかもソ連・ロシアって誘導爆弾の配備が異常に遅れてたから無誘導爆弾の水平投下だよね?(超音速ジェットで急降下爆撃は無いだろうし)
ASMが無いとなればそりゃSAMを有する艦艇側が優位だわ
Tu-16やTu-95なら75年でもASMが使えそうだけど出せなかったのかな
あとは爆撃機ではレーダーに写りやすく、低空飛行を高速で行いにくいからYak-28が良かったのかもしれないですね。(小型艦というのも、ミサイルでは過剰な威力だったのかもしれませんね。)
単純にその近くにいたのがそいつらだったというオチかもしれないですが
爆撃機型を無理やり複座(爆撃手席にバイク乗りコックピット)の練習機にしてて、
凄い操縦しにくそうだった記憶があるw
実戦機は全然飛行特性の違うTSR-2という、
製作陣の趣味全開で好き勝手作られた良いアニメだったw
それから暫く経ったフォークランドでも5発だかのエグゾゼ以外は通常爆弾抱いて
スカイホークで吶喊だからそれほど驚くことでもない気はする
それにソ連の対艦ミサイル、特にバジャーやベアが使うやつは超大型の殺る気満々
ていう代物だらけでクリヴァク級くらいなら撃沈どころか木っ端微塵にする様なの
だからオーバーキルすぎるんでその辺は初めから考慮の外だったのでは?
叛乱といっても全乗員が一丸とも限らないから纏めて木っ端微塵てのも問題になり
そうだし(226で国会議事堂に戦艦主砲撃ち込まなかったような意味合いで
1975年て、ベトナム戦争の終わった年で爆弾はまだ普通ではないかな。米軍もトスボミングの訓練とか盛んにやってますし。
ソ連軍機の対艦ミサイルの脅威がいわれだしたのも1980年ころですね。
1975年じゃハープーンもまだ無いよ(ASM型は1979年から)。西側ではペンギンくらい。
墜落では無いけれども、日本に空軍パイロットがミグ25に乗って亡命してきた時に機体の早期返還をソ連に求められ、返還はするものの自衛隊は在日米軍に調査の協力を依頼、米軍は人員と機材で協力に応じている。
その時のアメリカの新聞のコラムに機体返還の西側の交渉役に車検業者の営業マンを送り、危険だから部品を全て確認しないと危険とか部品の取り寄せに数週間掛かるとかと引き伸ばしていったという事件をネタにした笑い話を載せていた。
その営業マンを送り込んだ担当者の話として「彼に任せれば車検を終えるのに半年は掛かるから今回の任務を任せた」と豪語したというオチ。
あ、下地島の彗星迎撃基地で練習機になってるやつ…。
ちなみに押井守の『メカフィリア』というエッセイに、『ストラトス・フォー』の企画書を最初に書いたのは自分だ、という話が載っていて興味深い(当初の主役機はライトニングだったそうな)。
あとPS2の『エアフォースデルタ Blue Wing Knights』という、中国を含む東側機と50年代オールドジェットとコナミ産STGへの情熱が凄まじい、頭のネジが10本くらい外れたフラシム系STGでも、本機が使えたのが思い出深い…。
>ストロジェヴォイ
このポチョムキン号の再来みたいな事件には大いに興味があるので、記事を楽しみにしたいと思います。
この事件が起こったのがバルト海で、目と鼻の先にあるスウェーデンに逃げられると手出しできなくなるのを考えると、焦って誤爆してしまうのも仕方ないだろうか(そういえば前の航空自衛隊史で、訓練中の空自機が誤ってソ連艦に攻撃機動をかけてしまったのは、この4年前の話なのだな)。
70年代当時だとASM等のスタンドオフ兵器がまだモノになっていない(アメリカがかろうじて誘導爆弾を使えるくらい)代わりに、SAMには低空をカバーできる性能がないので、やはりフォークランドのアルゼンチン空軍やかつての雷撃機のように、海面を舐めながら突入するのが当時の水上攻撃のデフォルトだったはず。
あと任務的には偵察による状況把握と警告がメインなので、いきなりベアかバジャーにASMを積んで送り出して、撃沈を命令するところまでデフコンは上げられなかったのではないかと。
推測になりますが爆撃機が対艦ミサイルを
撃たなかったのは民間船への
さらなる誤射を避ける措置ではないかと考えています。
付近の海域には
誤爆された貨物船以外にも商船や漁船があり
目標を取り違える危険があったはずです。
天候が改善されたのであれば
目標を目視してから投下できる爆弾が妥当かもしれません。
ミグ25事件、当時、中学生だったので良く覚えてます。調査して良い物か否か結構揉めてましたね。(あれだけ露骨に着陸されちゃうとね)
「トゥムスク」は誤りで
正しくは「トゥクムス」です。
失礼いたしました。
対艦ミサイルの脅威が言われだしたのはエイラート事件に始まりオケアン演習あたりで
玄人筋には本格化ってあたりじゃないかなと(ソ連てほんとラケータ好きよね
一応その辺りに対抗したハズの英国でのシーダートやシーウルフがフォークランドでは
上手く対応できず、この辺りで軍ヲタレベルにも明るみになってギャップ埋めのCIWS
その他の対抗手段に東側に10年以上遅れて狂奔する羽目になったという印象
お詫びがタンクローリーのウォッカというのもおそロシアだなぁ…(白目
ステルス機とかはかっこいいと感じない。
そこに関しては人それぞれ
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