ソ連軍の秘密戦史35
究極の度胸試し


文:nona

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https://jp.rbth.com/history/84024-jisatstuteki-kyokugi-hikou
※写真は加工されたもの

ノヴォシヴィルスクの十月橋
 
 1965年6月4日、シベリア最大の都市ノヴォシヴィルスク郊外のトルマチェボ飛行場から4機のMiG-17が離陸。

 いずれも防空軍第712親衛戦闘機航空連隊の所属で、演習に参加するために辺境のカンスク基地から出張していました。

 各機は30分から40分の間隔で発進すると、地対空ミサイル部隊の敵役を演じるため、ノヴォシヴィルスク南方の演習場へ飛行します。

 そのうちの1機を操縦するワレンチン・プリヴァロフは、帰路で視界を雲に遮られたため管制塔の指示をうけ雲の下へと機体を降下。

 眼下にノヴォシヴィルスクの姿が現れると、市内を流れるオビ川に架かる「十月橋」のことを思い出します。

 この橋はこの橋は1955年に開通したもので、全長896m(水上部は約500m)、スパン間隔127m、川面からの高さ約30m。上空からでも目立つ建造物でした。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Kommunalny_Bridge,_Novosibirsk
ノヴォシヴィルスクに架かる「十月橋」。「共同橋」とも呼ばれる。

 プリヴァロフはフライトの前にこの橋を見物し、橋の下を戦闘機でくぐれるかもしれないと考えたほどだったのですが、今回の飛行中にそのチャンスが巡ってきたと確信。

 MiG-17で橋の上空を周回し目標を見定めると、オビ川に向かって機体を降下。 

  時速700kmで「十月橋」をくぐり抜けたのです。

 彼はかつて海軍航空隊の第691戦闘機航空連隊に勤務しており、バルト海を超低空で飛行する訓練を繰り返していました。

 その後のフルシチョフ時代のソ連軍再編によって海軍の戦闘機部隊が防空軍に移管され、彼も内陸部の航空基地へ異動を余儀なくされたのですが、ふと昔のように飛ぶことを思い出したのかもしれません。
  
 プリヴァロフは橋をくぐり抜けたことに達成感を感じたものの、興奮を抑えてトルマチェボ飛行場へ帰投しました。


先駆者

 ソ連において飛行機で橋の下をくぐり抜ける試みはレシプロ機の時代に前例があり、冒険飛行家のヴァレリー・チカロフが1929年にレニングラードで試みたのが初とされます。

 彼の死後に伝記映画を撮影したさいには、スタント機も同じように橋の下をくぐらされ、しかもリテイクを撮るのため何度も繰り返したといわれます(笑)

 大戦中はニコライ・アンドレーエヴィッチ・ロズノフというパイロットが空中で5機のBF-109に追いかけられた時、鉄橋の下を飛んで追跡を回避した、という逸話がプラウダ紙で宣伝されたこともあるようです。


多数の目撃者

 プリヴァロフは成功に気をよくし、自分の操縦に誰も気づくはずがない、と勝手に信じ込みました。
 
 しかしノヴォシビルスクは人口100万人の大都市。橋の近くには川遊びや日光浴に興じる多数の市民がおり、MiG-17の姿はしっかりと目撃されていました。

 ある目撃証言では、MiG-17はすさまじい爆音を鳴らしながら橋を通過し、機体を上昇させるために焚かれたアフターバーナーの噴射で川底が一瞬姿を現した、といいます。

 人々の帽子は突風で飛ばされ、脱がれた上着や靴は洗い流され、あとに残ったのはジェット燃料の匂いだけでした。

 地元当局は事件の報道を規制したものの、目撃者の多さゆえに噂は瞬く間に拡散。MiG-17が橋を潜った理由も勝手に推測され、橋の上で待つ女性にプロポーズするため、との噂もあったようです。

 この事件はソ連との関係が悪化していた中国側の耳にも入り、彼らは外国向けの宣伝放送で「橋梁を攻撃するための戦術訓練が行われた」と発表しました。


プリヴァロフの処遇

 基地に戻ったときに彼は拘束され、防空軍の航空元帥エヴゲーニー・サヴィツキーの元に連行されます。

 サヴィツキーは偶然にもノヴォシヴィルスクの航空機工場を視察中でしたが、その名は前述の冒険飛行家に地なんでV.P.チカロフ記念ノヴォシビルスク航空機工場と呼ばれていました。

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https://sevastopol.su/faces/savickiy-evgeniy-yakovlevich
エヴゲーニー・サヴィツキー

 サヴィツキーは第二次世界大戦において単独で22機を撃墜したエースパイロットで、司令官としても枠にはまらないタイプの人間でした。

 それでも、表面上はプリヴァロフを厳しく叱責。

 プリヴァロフは飛行服姿のまま自分のパラシュートを持たされ、そのまま列車で原隊のあるカンスクへ送還。所属部隊の連隊長と政治将校は監督責任を問われて叱責を受けました。

 地元共産党はプリヴァロフの除名を検討したようですが、事件のあったノヴォシヴィルスク共産党の第一書記は、パイロットに好意的でした。

 ノヴォシヴィルスクは航空産業が盛んだったので、いい宣伝になったと思ったのかもしれません。

 この事件を知ったマリノフスキー国防相も内心はプリヴァロフの冒険を喜んだようで、追加の処分は行わず休暇を取らせるよう指示。

 程なくしてプリヴァロフはパイロットに復帰し、その後は副連隊長まで勤め上げたとされます。


Su-24も橋はくぐれるか?

 プリヴァロフの冒険から23年後の1988年春、とある空軍のパイロットがタクシーで十月橋を渡った時、その運転手から橋の下をくぐるMiG-17の話を聞かされます。

 パイロットは運転手の思い出話に触発され、自身の任地である極東のアムール川に架かるピヴァンスキー鉄橋を、乗機のSu-24攻撃機でくぐれるだろうか、と密かに思案を始めたそうです。

 Su-24はMiG-17よりもずっと大柄ですが、可変後退翼機であるため全幅は短くできるうえ、そのフォームであれば低空乱気流の影響も軽減できました。
(全高はどうにもならないので、より低く飛ぶ必要がありそうですが)

 彼は橋の図面を入手してアプローチ角度を計算し、同乗するナビゲーターを懐柔。周辺の気象情報を細かくチェックしました。

 さらには、KGBの国境警備隊が配備する警備艇の目から逃れる手段まで検討したようです。

 アムール川の流域の一部は中国側に面していることから、中ソ対立以降は厳重に警備されていたのです。

 しかしながら、幸か不幸かそのパイロットは橋を通過する機会を待つあいだに異動となり、程なくしてソ連は解体。

 彼は民間企業への再就職する必要が生じ、橋の下をくぐることもなかったようです。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Hawker_Hunter_Tower_Bridge_incident
ロンドン・タワーブリッジ

 プリヴァロフの飛行から3年後の1968年4月5日、英国においても戦闘機がロンドン・タワーブリッジを通過する事件が発生。

 犯人は伝統ある王立空軍の第1戦闘飛行隊に所属するアラン・ポロック中尉。乗機はホーカーハンターFGA.9 でした。

 彼がタワーブリッジをくぐった目的は、空軍の創立50周年を祝いつつ、国防予算を大幅に削減する英国政府への抗議を行う、というもの。

 そのため、タワーブリッジの通過前に英国議会の上空を周回し、わざと爆音を響かせています。

 この事件が世に知れ渡ると、ポロックの元に同僚や一般の人々から支持の手紙が数百も届き、政府と対立していたBOAC(英国海外航空)は彼の飛行隊へビールを樽で贈呈しています。

 しかし、空軍はポロックの処遇に悩みます。時の人となった彼を軍事法廷にかければ空軍が批判を受けるのも必至ですが、彼を擁護するとしても政府から睨まれます。

 最終的に空軍はポロックを「医学的な見地から」解雇。

 ソ連防空軍のプリヴァロフに対する寛大な措置とは異なり、英空軍のポロックに対するそれは冷淡なものだったようです。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Hawker_Hunter_Tower_Bridge_incident
ホーカーハンターFGA.9


参考
(RUSSIA BEYOND 2020年7月27日 ニコライ・シェフチェンコ)
polzam.ru
(2018年3月12日)
(Jonathan Mayo 2018年4月3日)