ソ連軍の秘密戦史31
極限状態のかくれんぼ
文:nona
https://www.theatlantic.com/photo/2012/10/50-years-ago-the-cuban-missile-crisis/100387/
海上へ浮上したB-59
米海軍の潜水艦狩り1962年10月24日、米海軍と周辺各国はキューバ西方海域における海上検疫、事実上の海上封鎖を開始。
作戦海域には大型空母2隻、対潜支援空母3隻、約180隻の水上戦闘艦と200機の航空機がひしめき合います。
一方のソ連海軍は、この海域4隻の641型潜水艦 (フォックストロット級)潜水艦を派遣していました。
当初の計画では秘密裏にキューバのマリエルへ入港し、後続のミサイル潜水艦や潜水艦母艦と共に常駐の潜水艦隊を編成するはずでした。
しかし、キューバ危機の表面化によって入港は延期。西方の海域で待機を続けました。本国からの通信
10月25日、モスクワの海軍参謀本部には北方艦隊第4潜水戦隊司令レオニード・リバルコ少将の姿がありました。彼は大西洋上にある4隻の潜水艦と後続部隊の指揮官です。
北方艦隊の拠点であるムルマンスクから1500kmを隔てたモスクワまで、列車で1日かけてやってきた理由は、VLF無線の定時放送に米海軍が発した国際警報を載せるためでした。
この前日、米海軍はソ連の潜水艦に浮上を国際警報で要請しており、それを促す合図として爆発音響信号と水中モールス信号を用いる、と宣言。
さらに、潜水艦が東を向いて浮上し、キューバから離れる航路をとれば、航海の安全を保障するとしました。しかし、潜水艦の艦長が爆発音響信号を爆雷と誤解し応戦した場合、最悪の事態になりかねません。
少将は、事前に各艦長への誤解を解く必要があると考え、ソ連側から潜水艦に国際警報を伝え、場合によっては浮上も認めるつもりでした。私みたいな老兵が何を心配する必要がある?
しかし、参謀長第一代理にして作戦の責任者だったフォーキン大将はリバルコ少将の提案を拒否。
ゴルシコフ元帥が、作戦に余計なものを加えることに断固反対している、との理由でした。
それでも少将はあきらめず、参謀本部に勤務するかつての部下を見つけると、彼にメモを渡し定時放送に加えるよう要求しました。
元部下と通信士官はメモの内容に驚き「あなたの将来を台無しにします」とためらったものの、少将の意思は固く「この前の戦争でひとつ学んだことがある。それは、戦場では自分の指揮下の者たちには絶対に忠誠を尽くさなければならないということだ。彼らが命令に盲目的なまでに従い、忠実であるように」
と語りました。
さらには「私みたいな老兵が何を心配する必要がある?」と続け、メモに自らの署名を書き加えると、司令部を後にします。B-59
https://nsarchive2.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB399/
海上に浮上したB-59。司令塔にはソ連の海軍旗ではなく、通常の国旗を掲揚するように指示されていた。10月27日の午前10時、4隻の潜水艦の1隻であるB-59はバミューダ南方にありました。B-59は数日間にわたって捜索を回避していたものの、浮上中に空母ランドルフのASWグループに探知されてしまいます。急ぎ海中に身を隠したものの、付近に有効な水温躍層がないため追跡をかわせず、爆発音響信号が至近で爆発すると乗員の顔には恐怖の色が見えました。B-59の追跡戦は一昼夜続いたものの、空調の故障によって艦内温度は危険域まで上昇し二酸化炭素量も増加。午前4時ごろには電力が底をつき、やむなくB-59は浮上しました。夜明け前の海にB-59が姿を現すと、周囲の米艦はサーチライトを浴びせ、哨戒機は照明弾を投下します。海面には大量のソノブイが浮かんでいました。サヴィツキー艦長は浮上してしまったことへの罪悪感があったものの、米ソの戦争が起きていない様子に安堵したそうです。くそペーパー爆弾と核魚雷このとき米海軍が用いた爆発音響信号というのは、対潜訓練で使用する手榴弾(MK3型)のことでした。通常の手榴弾が深度15mで爆発するところ、海軍では安全レバーがすぐに外れないようトイレットペーパーで固縛し、深度50m近くで起爆するよう細工していました。ゆえに「くそペーパー爆弾」なるあだ名もあったようです。手榴弾が潜水艦に接触する可能性があったものの、至近で爆発しても致命傷を負わせることはないため、米海軍では対潜訓練でも多用していました。ただ、ソ連の潜水艦が核魚雷を積んでいると知っていれば、過剰な刺激を与える「くそペーパー爆弾」を投下することもなかったはずです。4隻の潜水艦は核出力10から15ktの弾頭を持つ、T-5核魚雷を各艦1発ずつ搭載していました。艦長の一人が記録した核魚雷の使用要件は「爆雷攻撃で耐圧殻が損傷」「浮上中の砲撃で命中弾を受けた」「モスクワからの命令」とされ、簡単に使用できるものではありませんでした。また、B-59は米艦から追跡をうけたときに通信が不通になったものの、2日前の定時放送に載せられたリバルコ少将からのメッセージは受信していました。にもかかわらず艦長は至近での爆発音に狼狽。核魚雷の発射を試み、同乗するアルヒーポフ戦隊参謀の反対で事なきを得た、という話はかなり有名です。B-36
http://www.vpnavy.com/vp45_aircraft.html
P5Mマーリン飛行艇から監視されるB-3610月29日の夜、プエルトリコ・サンファン港の北40マイルを航行していたB-36は、充電のため浮上したところをレーダーによって探知されます。B-36は潜航すると、潜望鏡と無線の傍受により海上の様子を探ります。付近には明かりを消した駆逐艦が3隻、吊下式ソナーを持つヘリコプター。無線からは最新の曳航ソナーを搭載する駆逐艦のコールサインも聞こえました。これらのソナーは水温躍層に身を隠した潜水艦を探知できるうえ、潜水艦にソナーが衝突したり、ケーブルがスクリューに絡まるなど物理的な危険もありました。やがてバッテリーの尽きたB-36は浮上を余儀なくされます。艦長はハッチを開き周囲を見回したところ、司令塔の無線アンテナが破損していることに気が付きました。浮上の32時間ほど前、B-36に駆逐艦が急接近しており、その際に船底とアンテナが接触していたのです。相手の駆逐艦はB-36に気が付かず、衝突は間一髪のところで回避されていました。参考ヒストリカル・ノート Vol.63 キューバ危機(山崎雅弘 2015年)対潜海域 キューバ危機幻の核戦争(ピーター・ハクソーゼン 著 秋山信雄 神保雅博 訳 ISBN4-562-03622-2 2003年6月26日)
コメント
便所紙が自腹の軍隊からすれば贅沢な使い方だとしか
1m巻くたびに1m深く沈む
みたいなコツがあったりするんでしょうか。
そういえばスウェーデン海軍に
小型の爆雷発射機があったことを思い出しました。
調べてみたらプロモーションビデオも見つかりました。
https://youtu.be/6rXc9FUGfEU
ただ今回のケースでは威力が過剰になりそうです。
耐圧殻を損傷させた場合、核魚雷の発射要件を満たす可能性がありますので。
2様
確かにソ連軍から見れば贅沢かもしれません
潜水艦は補充ができませんので使用制限も厳しかったはずです。
陸上勤務部隊の例ですがトイレットペーパーが自弁だったので
仕送りをうける兵士もいたようです。
兵士の給料が安すぎて日用品が十分に買えないのだそうです。
演習場では破棄された書類などで代用することも多々ありました。
1980年頃ですが東独入りを認められた英軍が
演習場のトイレ跡をこっそり掘り起こし
「使用済み」の書類を盗み見ていた、とされます。
3様,4様
米軍では2013年にトイレットペーパー費が高すぎる
と議論になったことがあるようです。
その時に軍の高官や議員が
過去のトイレットペーパー不足に言及しており
ベトナム戦後や911以前の軍縮期など
やはり実質自弁の時期もあるようです。
まあトイレットペーパーよりも
手榴弾のほうがよほど高価な気もしますが。
手榴弾は海水ですぐに腐食するが、巻いたトイレットペーパーだけは残ってそうだな。
確か、二見書房の”第三次世界大戦”シリーズで見掛けたなあと、記憶を辿ってみると、チャールズ・D・テーラーの「ペルシア湾炎上す!―第三次世界大戦・中東篇」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%B9%BE%E7%82%8E%E4%B8%8A%E3%81%99-%E2%80%95%E7%AC%AC%E4%B8%89%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%83%BB%E4%B8%AD%E6%9D%B1%E7%AF%87-1980%E5%B9%B4-%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BBD-%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/B000J87Z0Q
劇中、ペルシア湾で対峙する米ソの両提督が、駆け出し士官だったキューバ危機時代の思い出として、登場していました。確か、芯を抜いて手榴弾を挿入後、巻き数の調整で深度の調定を行っていたような……
なぜか話題がトイレットペーパーへ移ってしまいました...
先ほどソ連のトイレットペーパー事情を
rbthで調べてみましたが
同国にその工場ができたのは1969年だそうで
キューバ危機の時点でソ連人がトイレットペーパー自体を
知らなかった可能性もあるようです。
シベリアに抑留されてた人の話で、
ソ連兵は用を足した後、
ケツを拭かずにそのままズボンを上げる、
そのせいでルパシカのケツの部分が、
常に茶色かったなんて話がありましたね…
モスクワなどの都会っ子はともかく、
大半のソ連人は当時ケツを拭く習慣すら無さそう。
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