ソ連軍の秘密戦史30
撤収


文:nona

1
https://www.theatlantic.com/photo/2012/10/50-years-ago-the-cuban-missile-crisis/100387/

キューバの港からソ連の貨物船で送り返されるR-12ミサイル。査察のために飛来したRF-101偵察機の機影が見える。

カストロの怒り

 1962年10月28日、ソ連のフルシチョフ第一書記はケネディ大統領が提案した交渉条件に応じ、キューバに配備された戦略核ミサイル基地の破棄とミサイルの返送を表明。

 これにより当面の危機が去ったかに見えたのですが、カストロ首相はこの決定を不服とし、米国が国連を介して要請した査察の受け入れを拒絶しました。

 この影響で米国の海上検疫措置と戦略空軍のDEFCON2態勢も11月20日まで継続され、ソ連全軍も高レベルの警戒態勢も維持し続けたのです。

 10月29日、カストロはキューバを独力だけでも防衛すると宣言。すでに米国が提案していたキューバへの不可侵に加え「領空侵犯の停止」「禁輸措置の停止」「海賊行為の禁止」「グアンタナモの返還」「体制転覆を狙う活動の禁止」を要求。

 ソ連は表向きにはカストロの主張を支持したものの、本音を言えば米国との交渉のほうが大切でした。問題を長引かせるような要求は取り下げてほしかったようです。


板挟みにあうミコヤン

 11月2日、交渉役として人当たりの良いミコヤン第一副首相がキューバに到着。どうにか査察を受け入れるように求めます。

 カストロは査察を屈辱的なものとみなし、到底飲める話ではなかったのですが、協議の最中にミコヤンの妻が死去、との訃報が届きました。

 悲しみに打ちひしがれるミコヤンでしたが、彼は帰国せず説得を続けようとしたため、さすがのカストロも配慮の姿勢を見せざるをえず、最終的に査察を受け入れます。

 11月9日には最後のミサイル輸送船が出港し、もれなく洋上で米海軍による査察をうけました。

 米海軍はソ連船を刺激しないよう配慮し、臨検にあたる乗組員には白の制服を着せて身だしなみも整え紳士的な対応を指示していました。

 さらには贈り物のタバコやライター、食料まで用意したようです。

 一方のソ連側も積載中のミサイルがそれと分かるよう、覆いを取りはらうなど査察に協力しています。

 しかし、グリブコフ作戦部長は「これは我々ソ連ににとっても屈辱的なことであった。我々の協力体制が覗かれてしまう危険があった。公海上、ヘリコプターが船に近づき、中を除かれたのである」として、不本意なものと回想しています。

 また、キューバ内の航空基地でもIL-28などの有無を確認する目的で、空中査察が実施されました。キューバとソ連の将兵達は偵察機を撃ち落としたいといの怒りを抑え、偵察機に手を振って出迎えたそうです。


MiG-21の初陣?

2
http://www.airforce.ru/history/cold_war/cuba/index.htm
軍が支給した平服を着たMiG-21のパイロットたち


 第32親衛戦闘機航空連隊のボブロフ氏によると、11月4日にMiG-21で訓練飛行から戻る時、飛行場に米空軍のRF-101が接近したことがあったそうです。

 ボブロフ氏は地上からの指示をうけてRF-101の背後に回り脅かしました。

 MiG-21は訓練飛行からの帰りのためミサイルは訓練用のダミー。相手が反撃すればひとたまりもない状態でした。

 しかし、驚いたRF-101はアフターバーナーをオンにして、左右に切り返しながら海上へ逃走していきました。

 この翌日、アメリカの国営放送VOA(ボイス・オブ・アメリカ)の対キューバ放送で米空軍機が国籍マークのない不明機に攻撃されたと発表。

 深刻な外交問題とはならなかったようですが、急ぎ連隊のすべての機体にキューバ軍の国籍マークが塗装されました。

 ちなみに、空軍のレーダー無線技術者だったイサエフ氏は、なぜか本国の妻たちもこのニュースを知っていた、と回想しています。

 これは、彼女らもこっそりとVOAロシア語放送を聞いて、ソ連が国民に秘密にした情報を収集し、夫の身を案じていたからでした。


戦術核兵器の扱い

3
https://www.theatlantic.com/photo/2012/10/50-years-ago-the-cuban-missile-crisis/100387/
米国の要求により送り返されるIL-28爆撃機。米国にそれと分かるようコンテナの屋根を外している。


 戦略ミサイルR-12(SS-4)が港に移送された10月30日、マリノフスキー国防相はGSVKに戦術核兵器の返送も命じていました。

 これもカストロには伝えられておらず、彼は戦術核兵器だけはキューバ軍に引き渡されるものと信じていました。

 ところが、11月20日に海上検疫終了をケネディ大統領が宣言したとき、キューバから戦術核兵器も撤去されたと発言。

 これを聞いたカストロは、またしてもソ連が勝手に米国と妥協したと激昂。

 実際に撤去されたのは唯一米国に到達しうるIL-28爆撃機だけで、他の戦術核はまだ残っていました。

 米国はそれらの存在を知らず、撤去の圧力も加えてはいません。

 しかし、フルシチョフとしては、火種となりうる戦術核を撤去する方針に変わりはありませんでした。

 ミコヤンは再びカストロの説得に当たるのですが、理由のひとつとしたのがソ連の法律では他国へ核兵器を委譲することを禁止している、というものでした。

 この頃のワルシャワ条約機構ではNATOに倣いニュークリアシェアリングが検討されたものの、ソ連自身は慎重だったとされます。おそらくはハンガリー動乱や中ソ対立をうけ、同盟国の裏切りを警戒していたのかもしれません。

 また、ミコヤンは戦術核兵器の代わりに、ソ連本国の戦略核兵器による核の傘がキューバを守る、と約束しました。

 ただ、先のキューバ危機でフルシチョフがとった対応を考えれば、ソ連が危険を冒してまで、キューバのために核を使うつもりがないのは明らかでした。

 しかし、さすがのカストロも抵抗をあきらめ、渋々ながら同意します。

 ソ連と対立し国際的に孤立するよりも、要求を取り下げて同盟を維持したほうが、ソ連から何かしらの援助を引き出せると判断したのかもしれません。


GSVKの帰還

4
http://www.airforce.ru/history/cold_war/cuba/index.htm
1963年に貨物船ガガーリンで撮影された第32戦闘機航空連隊の将校。


 GSVKは戦略ミサイルが撤去された後も、現地のキューバ軍を訓練するため駐留を継続。

 11月末にはテントに代わる住居としてパネルハウスが本国から輸送され、スコールでぬかるむ通路は砂利で舗装されるなど、生活環境が改善されました。

 一般の将兵にも駐屯地の外出を認められるようになり、そこで初めて海水浴や酒を楽しみ、現地のキューバ人との交流を深めました。

 キューバ軍への訓練が一通り完了すると、GSVKは装備の一部を提供し本国へ帰還。

 その後は両国の密約で旅団規模のソ連軍部隊がキューバ内に駐留。米国の裏庭における貴重な情報収集の拠点として機能しました。

 米国もそれに気づいていたものの、1979年まではあえて知らぬふり。さらにはキューバ危機が再燃しないよう、水面下でお互いの交渉チャンネルを維持しました。


危機から30年後

 1980年代の後半、ゴルバチョフ書記長の時代にソ連軍の撤収が検討され、ソ連解体後の1993年に完全撤収を完了しました。

 カストロ議長は、ソ連軍の撤収と同時にグアンタナモ基地の米軍も同時にキューバを去るべきだと提案したものの、ゴルバチョフは米国にそのようなことを強く求めなかったことで失敗。

 キューバは国内に米国の租借地を残し経済封鎖もうけながら、ソ連という後ろ盾も失ってしまったのです。

 苦境に立たされたキューバですが、1990年からチェルノブイリ原発事故で被曝した子供たち2万4千人を受け入れ、骨髄移植や外科手術を施したことがあります。

 カストロは国際義務を果たすとして、キューバが他国に派遣する有償の国際医療チームとは異なり、子供たちを無償で治療しました。

 そのような経緯でキューバの人々は放射線障害の子供たちを目にしたのですが、初めて核の恐ろしさを知ったのだそうです。


参考
キューバ危機 ミラーイメージングの罠(ドンマン・トン デイヴィッド・A・ウェルチ 田所昌幸 林晟一 ISBN978-4-12-004718-3 2015年4月25日)
十月の悪夢(NHK取材班 徳永敏介,山崎秋一郎,大和啓介,小谷亮太,阿南東也 IABN978-4-14-080072-0 1992年11月30日)
対潜海域 キューバ危機幻の核戦争(ピーター・ハクソーゼン 著 秋山信雄 神保雅博 訳 ISBN4-562-03622-2 2003年6月26日)