ソ連軍の秘密戦史29
暗黒の土曜日https://mariocuendagarcia.wordpress.com/tag/historia-cubana/
U-2を撃墜したS-75のV-750ミサイルと、残骸から取り出されたU-2のエンジン。
U-2偵察機の脅威
https://www.ecured.cu/Crisis_de_Octubre10月27日のU-2による飛行の軌跡。
10月27日の朝、カストロ首相はキューバ軍に侵犯機への攻撃を許可。この日、8回の領空侵犯が記録されたものの、キューバ軍の対空砲火によって複数の偵察機が被弾。偵察を断念した機体もありました。そのような状況の中、対空砲の届かない高度2万mにU-2偵察機が飛来。同機はキューバの西端で領空を侵犯すると、内陸部の街ピナル・デル・リオ上空へ侵入。その後に進路を東にとってキューバ全島の横断を試みました。U-2は1時間強の時間があればキューバのほぼ全域を撮影できるため、キューバ軍とGSVKにとって厄介な存在です。とはいえ、各地に展開していたS-75(SA-2)地対対空ミサイルならば、U-2の撃墜はそう難しくないことでした。しかし、前日にマリノフスキー国防相に求めた「実行可能なあらゆる防空手段を用いる」という電文の返答はまだ届かず、GSVK総司令官のプリーエフ大将は前日から続く核弾頭移送の用件で外出中。S-75連隊からはGSVK司令部に対し指示を求める通信があったものの、総司令官代理のステパン・N・グレチコ中将は待機を指示。その間にU-2は15を超えるS-75中隊の射程内を飛行したものの、これらの部隊は黙って見過ごす他にありませんでした。
撃墜
https://aviaforum.ru/threads/kuba-ostrov-svobody.46153/page-2キューバ危機の最中に撃墜されたU-2の翼U-2の領空侵犯から1時間が経過すると、同機はキューバの東端に近いグアンタナモ湾上空で変針。フロリダ半島へ戻ろうとする動きを見せます。このままでは重要な偵察情報が持ち去られる恐れがありました。あせったグレチコ中将は、共に司令部に残っていた戦略ロケット軍指揮官のガルブス少将と協議。互いの意見の一致を確認すると、午前10時22分、キューバ東部を管轄するS-75連隊のヴォロンコフ大佐にU-2の撃墜を命じたのです。撃墜はやりすぎだったU-2がキューバ東部のバネス上空を飛行していたとき、市街地から南に3キロの地点に展開するグレチノフ少佐の中隊からV-750ミサイルが発射されました。短い間隔で発射された3発のミサイルは、S-75のシステムが同時に管制できる最大数。確実な撃墜が求めたことがうかがえます。このミサイルのいずれかがU-2に損害を与え、同機は墜落。領空侵犯から1時間21分後のことでした。U-2のパイロットであるルドルフ・アンダーソン少佐の遺体は機体の残骸から発見され、後に米国へ引き渡されています。U-2撃墜の報告を受けとった本国のマリノフスキー国防相は驚愕し激しく憤ります。「撃墜はやりすぎだった。二度と繰り返してはならぬ。」との至急電をGSVKへ送りました。しかし、参謀本部は危機が深刻化する以前に「脅威となる敵機は現地指揮官の判断で撃墜してもよい」とも指示しており、偵察機に対する攻撃の可否は明確に定まっていませんでした。危機から一転事件の翌日、フルシチョフは最高会議幹部会を自身の別荘に召集。U-2の撃墜が米国を本気にしてしまったと信じ、相当な焦りを感じたようです。彼の側近によると、いつもの陽気な様子とは対照的に、口数は減り神経質になり、かなりふさぎ込んでいたとされます。一方のホワイトハウスにおいては、U-2の撃墜が現場の暴走や誤射などではなく、ソ連本国の指示に違いない、と解釈。強硬派の将軍達はSA-2サイトへの報復攻撃、さらには大規模空爆を訴えたものの、ケネディ大統領は1回だけは見逃すとして報復を制止。ケネディは強硬派に秘密でソ連と交渉することを決意し、弟のロバート・ケネディからドブルイニン大使へ、米国がトルコのミサイルを撤去する用意があることを伝えさせました。大使の報告がフルシチョフのもとに届くと、彼もこれが最後の機会と考え急ぎキューバのミサイル撤去を指示。モスクワ放送を通じ、この決定を世界中に発表しました。これを聞いたホワイトハウスにはひとまずの危機を脱したと安堵。米国はU-2が撃墜された10月27日を暗黒の土曜日と呼んだのに対し、その翌28日を黄金の日曜日としました。フルシチョフはソ連の面子を損なわず、核戦争の危機を回避したことに安堵したようですが、カストロに事前の承諾なくミサイルを撤去したのは失敗でした。あくまで米国と戦う覚悟だったカストロは、突然のラジオ放送でミサイル撤去を知って激昂。フルシチョフを臆病者とののしったとされます。なお、カストロはこの前日の書簡で「武力衝突が24時間から72時間以内に始まるだろう」「我々は断固としていかなる侵略にも決然として戦う」「ソ連は帝国主義者に、核戦争の第一撃を許すようなことがあってはならない」と伝えていました。カストロとしては煮え切らない態度のソ連を激励する意図があったようですが、フルシチョフはカストロが先制核攻撃を促していると解釈し、彼を危険視。意図せずミサイル撤去を促すことになったのです。U-2撃墜の英雄
https://www.ecured.cu/Archivo:U2-derribado_durante_la_crisis.jpg撃墜されたU-2の残骸プリーエフ大将の不在時にU-2の撃墜を許可したグレチコ中将ですが、すでに前日の会合で偵察機撃墜の是非が話し合われていました。このため、もしプリーエフ大将が司令部にいても同じ判断を下していたようです。カストロ首相はU-2の撃墜を大いに喜び、機関紙グランマで盛大に宣伝。S-75部隊は英雄扱いされ、指揮官の一人であるヴォロンコフ大佐は勲章を授与されています。さらには、本国のソ連軍も一人の将校も処分せず、マリノフスキー国防相は帰国したプリーエフに、行動が「性急すぎる」と口頭で軽く注意しただけでした。U-2撃墜の翌日、フルシチョフは全面核戦争を恐れキューバへ配慮せずに米国に妥協しており、それがカストロに不信感を抱かせてました。そんな中でU-2の撃墜はソ連がキューバを守るために戦った数少ない証しといえるため、両国の連帯をアピールするために利用したい、という意図がフルシチョフにあったのかもしれません。参考キューバ危機 ミラーイメージングの罠(ドンマン・トン デイヴィッド・A・ウェルチ 田所昌幸 林晟一 ISBN978-4-12-004718-3 2015年4月25日)十月の悪夢(NHK取材班 徳永敏介,山崎秋一郎,大和啓介,小谷亮太,阿南東也 IABN978-4-14-080072-0 1992年11月30日)対潜海域 キューバ危機幻の核戦争(ピーター・ハクソーゼン 著 秋山信雄 神保雅博 訳 ISBN4-562-03622-2 2003年6月26日)
コメント
第四次中東戦争でもスカッドを独断で打たせて事態をエスカレートさせている
現在のU2は戦略偵察ではなく、長時間滞空能力を活かして側方監視レーダーで地上部隊の監視をする戦術偵察機として生まれ変わったのが長寿の理由かね
中東戦争の件は
ステパン・グレチコ中将ではなく
アンドレイ・グレチコ国防相ではありませんか?
彼も相当なタカ派だったようですが。
2様
私もその街の写真をyahooニュースで見たかもしれません。
記事タイトルは「ロシアの交通安全の看板がユニーク」
といった旨のものだったはずですが
やはり街中に置かれたミサイルのほうが印象的でした。
3様
偵察衛星、A-12/SR-71、グローバルホークなど
U-2には様々なライバルがありますが
いずれもU-2の代わりにはなれないんですよね。
不思議なものです。
ここのすれ違いが悲しい…
っていうか励ましたいならタカ派っぽい事言うんじゃなく普通に激励してればいいのに
このキューバ危機は、その後の核軍縮に繋がるきっかけになった事件だけに、両者によるブラフも含めた様々なコミュニケーションへの模索が興味深い。
有名な話だけど、米ソ間にホットラインがまだ存在しなかった当時は、ホワイトハウスとクレムリンが直接連絡を取る必要があった場合、電報を使ってやりとりしていたりして。
フルシチョフがカストロを危険視するのも当然じゃないかな
MAD時代には軽率であるしカストロの考える終着点もよく分らん
ミサイルサイトの場所がまだわからないor捜索レーダーに接近してることを知る術がU-2側になくて横切った結果なのか
どうしても情報を知りたかった結果捨て身の偵察やったのかどっちだろ
この騒動で「暴走は良くない」という意識自体は出来ただろうし、梯子を外し過ぎるのもよくないと考えたんだろうか
外交的に例え撃墜出来てもするかどうかは別なのでなんとも。
冷戦当時は核保有国への通常兵器による武力行使が簡単に核戦戦争へ発展するリスクがあった。
本件では世界最大の核保有国が一番神経質になる庭先が舞台、そこにソ連が秘密裏に核配備となるだけで一触即発状態。
つまりU-2を撃墜することはそれだけリスクがあるので、キューバ側が取る選択とは思わなかった可能性も。(実際米国強硬派の提唱した報復内容はキューバからすると偵察機撃墜に見合わない
自分は相手を核で包囲しておいて、自分の近くに核を置かれたら許せない。偵察機を勝手に侵入させるしそれを堕とすのも許さない、って聞くと随分自分勝手・・・
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