ソ連軍の秘密戦史27
13日間の始まり
文:nona
https://retroculturati.com/2015/07/28/leslie-illingworth-political-cartoonist/
英国の風刺画家イリングワースによる風刺画。
秘密のミサイル基地建設1962年4月、フルシチョフ第一書記の意向をうけてソ連軍はアナディル作戦を計画。7月には諸兵科連合部隊GSVK(キューバ派遣ソ連軍グループ)を秘密裏にキューバへ派遣しました。この作戦の目的はIRBM(中距離弾道ミサイル )とMRBM(準中距離弾道ミサイル )を米国の間近に配備することで同盟国キューバを守ることでした。さらには、米国に対して劣勢だったICBM(大陸間弾道ミサイル)戦力の穴埋めをしたい、との狙いもあったようです。さらにICBMが充足した際には、ミサイル撤去と引き換えに米国から新たな譲歩を引き出せる、とフルシチョフは考えていたのかもしれません。ともかく、9月にR-12(SS-4)型MRBMがキューバへ到着。発射基地の建設が始まります。しかし、現地の自然環境はソ連軍が想定していなかったもので、昼間の作業は高い気温と湿度により、兵士を1時間ごとに交代させる必要がありました。にもかかわらず、フルシチョフはソ連の10月革命記念日(グレゴリオ暦で11月7日)にミサイル基地の完成を世界中に公表したいため、作業を急がせる必要がありました。そこで、参謀本部のグリブコフ作戦部長が督戦のため10月19日にキューバへと派遣されたのですが、彼は現場の様子に驚愕します。数か月前に現場を視察した戦略ロケット軍のビリュゾフ元帥は「ミサイルをヤシの木に隠すのは簡単」と報告していたものの、実際のミサイル基地の擬装は不完全だったのです。ミサイル基地周辺のヤシなどの木々はまばらで、航空偵察から隠すのは困難でした。元帥の発言はフルシチョフの機嫌をとるためのもので、現実に即したものではありませんでした。また、キューバにはU-2偵察機の天敵たるS-75(SA-2)地対空ミサイルも派遣され、参謀本部は「脅威となる敵機は現地指揮官の判断で撃墜してもよい」と指示したものの、米国を刺激する恐れから、フルシチョフは攻撃を認めませんでした。幸いこの時期はハリケーンが多く、米国による航空偵察の進捗は遅れたものの、10月14日の偵察で、ついにその存在を知られてしまったのです。
https://nsarchive2.gwu.edu/nsa/cuba_mis_cri/photos.htmU-2が撮影したR-12(SS-4)ミサイル基地。騙されたグロムイコ外相10月14日、U-2偵察機は高度2万mからの偵察により、サンクリストバルで建設中の戦略ミサイル基地を撮影。ミサイル本体は発見されなかったものの、発射台や燃料タンク、ミサイルの格納庫はソ連本国に配備されたものと大きさが一致していました。戦略ミサイル基地の発見をうけ、ケネディ大統領はホワイトハウス内にエクスコム会議(国家安全保障会議執行委員会)を設置。対応が協議されるなか、強硬派は先制攻撃を訴え、米軍に作戦行動を準備させます。ただし、ホワイトハウスは対応を内外に悟られぬよう平静を維持。10月18日にケネディは何食わぬ顔でソ連のグロムイコ外相と会談しました。その場でキューバ問題が話題に上るのですが、グロムイコは「キューバへ送ったのは防御用の通常兵器だけである」と発言。対するケネディは嘘と知りつつも、あえて追求しませんでした。会談の翌日、グロムイコは本国宛の報告書に「米国は現在キューバ侵略を準備しておらず、これまで通りの国際的孤立政策と経済制裁によって、キューバ国民に不満を煽り、反乱を仕向ける傾向にある」「反キューバキャンペーンはやや弱まり、ベルリン問題を重視している」と報告しています。ソ連が米国の動きに気づいたのは10月22日ごろで、この日の夜にケネディはテレビ演説でキューバの基地を暴露。テレビ演説の1時間前にラスク国務長官からドブルイニン駐米大使へ事の通告があったのですが、彼は本国からアナディル作戦について一切伝えられていませんでした。ラスク長官いわく、ドブルイニンはショックで青ざめて身震いをはじめ、その場で10歳も老けて見えたそうです。
強気の対応をとったソ連
https://www.theatlantic.com/photo/2012/10/50-years-ago-the-cuban-missile-crisis/100387/
米軍がキーウエストに設置した地対空ミサイル。ケネディの演説をうけて、ソ連本国では緊急に最高会議幹部会が招集。彼の言動に注目しました。当初は米国による強硬な措置が懸念されたものの、実際には海上検疫(事実上の海上封鎖)という比較的穏便な措置をとったことに、幹部会の参加者は安堵。フルシチョフはミサイル基地を完成させてしまえば米国も譲歩すると考え、強気の態度を維持しました。ソ連の公式声明では米国の海上封鎖に対する報復をほのめかし、キューバに対しては「アメリカの要求には屈さず、キューバへの攻撃も防ぐ」と約束。23日の夜、フルシチョフら政府首脳部は米国のメトロポリタンオペラが演じるロシアオペラを鑑賞。余裕の姿勢をアピールしました。24日に開始される海上検疫の直前に、フルシチョフは米国の貿易商ウィリアム・ノックスと対談。「ソ連船が停止させられれば、私は最終的には封鎖を行っているアメリカの船を撃沈せよとの命令をだすであろう。」と発言しています。予想外の反応に慌てたソ連しかし、米国の態度は次第に強硬なものとなり、米参謀本部は24日、戦略空軍に対するDEFCON2への移行を発令。26日の夜に態勢を整えます。他軍はDEFCON3のままでしたが、25日にNATO軍総司令官の要求により、欧州の全航空機への核弾頭の搭載が許可されました。これらの措置はソ連本国や東欧諸国に対する大規模な核攻撃を準備するもので、戦争が米国とキューバに留まらないことを意味しました。ソ連軍とワルシャワ条約機構軍も同様の措置をとっていたものの、米国の強硬姿勢はフルシチョフにとって想定外だったようです。米国はキューバ危機の以前からソ連の周辺諸国に前進戦略基地を建設し、ソ連を核ミサイルで包囲していました。この状況にフルシチョフはソ連がキューバにミサイル基地を作ってやり返すのも、当然の権利だと理解していたのです。また、前年の1961年にソ連と東独はベルリンの壁を建設したものの、米国はソ連への刺激を避けるため具体的な対抗措置をとらず、フルシチョフは今回も激しい摩擦は起きないと考えたようです。米国の対応がソ連の想定よりも厳しくなった背景について、ラスク国務長官はグロムイコ外相に対し、以下のように語っています。「あなたがたはわが国のミサイルに取り囲まれて生きている。だがわれわれはこういう脅威に直面するのははじめてだ。だから、われわれはこんなにショックをうけているし、平静を保てない。」ソ連の譲歩海上隔離が開始される直前、フルシチョフは兵器を搭載する貨物船に本国へ引き返すよう指示。一部の船は封鎖線にぎりぎり滑り込んでキューバに到達したものの、海上にあったR-14型MRBMミサイルの輸送は中断されました。25日の幹部会では米国との和解が模索され、すでにキューバに送られていたR-12の撤去も検討したようです。翌26日、フルシチョフはケネディへ自制と和解を求める書簡を送付しました。その文体には乱れがあったことから、フルシチョフ本人の口述を推敲せずに書簡としたことが推察され、むしろ米国側には真摯なメッセージに見えたようです。その中にもフルシチョフらしい比喩表現が込められており、キューバ問題を「ロープの結び目」に例えています。彼いわく、米ソが両方からロープを引き合うことで、結び目を解くどころか固く締まってしまう。両国はロープを断ち切るのではなく解く努力すべきだ。といった内容でフルシチョフは和解を呼びかけたのです。参考キューバ危機 ミラーイメージングの罠(ドンマン・トン デイヴィッド・A・ウェルチ 田所昌幸 林晟一 ISBN978-4-12-004718-3 2015年4月25日)対潜海域 キューバ危機幻の核戦争(ピーター・ハクソーゼン 著 秋山信雄 神保雅博 訳 ISBN4-562-03622-2 2003年6月26日)地域戦争と紛争におけるソ連 第10章 カリブ海の危機 世界は災害の危機に瀕した(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)十月の悪夢(NHK取材班 徳永敏介,山崎秋一郎,大和啓介,小谷亮太,阿南東也 IABN978-4-14-080072-0 1992年11月30日)フルシチョフ 封印されていた証言(ストローブ・タルボット序 ジェロルド シェクター ヴァチャスラフ・ルチコフ 編 福島正光 訳 ISBN4-7942-0405-1 1991年4月10日)
コメント
えぇ……一方的にお前たちだけミサイルに包囲されてろって開き直るのは酷くない?
スターリン時代だったら、ビリュゾフ元帥はキューバでヤシの木を数えた後にシベリアで木を数えていたような気がしないでもないワニ。
正直、今後何をするかわからないという、DQNの脅し文句だなぁw
それだけの力の差や周りからの支持という背景があるだけに、これは怖い。
脅しというより腹を割った対話だと思われ
ラスク長官のその発言の前段階には、ソ連の事情を聞いて理解している前提があり、アメリカとしては強硬な措置をとらざるを得ない事情がある事の説明だろう
のちにアメリカもソ連の事情を汲んで核戦力の削減一部撤廃に踏み切るんだから単純な脅しではないと思う
相互理解の対話の一部だろう
米側は6さんのいうような意図だった可能性もあるし、外交は難しいですね。
断絶された環境下では緊張が高まる一方ですからね。
お互いにある程度透明性の高い情報をやり取りすることで、間違った憶測によるエスカレーションを抑制するというのも外交の一つ。
ミスリードを狙って状況をコントロールするために逆の手を使う事も多いですけど。
お互いに同じ抑制方向に向かおうとするならば情報の共有は不可欠という感じですか。(キューバ危機はマジで危なかった
ハルノートはまた別だよ
日本の南部仏印進駐で、アメリカは石油禁輸資産凍結に踏み切り戦争するつもりでいた
その後の和平交渉で日米とも譲歩し交渉を積み重ねていたが、ハルノートでそれらの交渉過程を無視要求を突き付けた
東郷茂徳外相を含め、戦争回避派も匙を投げて全閣僚が戦争回避不可となった
ハルノートの他に暫定案という日米交渉の過程を折り込んだ案もあったが、それは関係各国から大反対を受け、ルーズベルトもハルも時間稼ぎはこれまでとした
ハルノートがどうこう言われるが、ハルノートは単なる最後通牒にすぎず、それ以前の段階で取り返しがつかない段階になってた
三国同盟か南部仏印進駐がポイントオブノーリターン
7ですが、おっしゃる通り開戦を決意したのはハルノート以前ではありますね。ただハルノートが最後通牒というのも違うとは思うけど。ただ、交渉過程無視されたもうだめだというメンタルがなんだかなと思うので。まあこの話はキューバ危機からそれるので終わりにします。
前後の文脈を省略してしまったことを
後悔しております。
長官の発言は
キューバ危機の最中に両外相が参加した会食の席で
グロムイコ外相が驚くほどに酒で酩酊した状態で
語られたものです。
ラスク長官がグロムイコ外相に示したのは
毅然とした態度ではなく
やけ酒に救いを求める姿だったので
一般的な解釈としては6様のお考えに近いかもしれません。
> 脅しというより腹を割った対話だと思われ
※12
> やけ酒に救いを求める姿だったので
> 一般的な解釈としては6様のお考えに近いかもしれません。
弱り切って本音を吐露した外相に、米国としても本音をさらけ出したという事のようですね…。
早合点して、立場は違えども懸命に動いた両陣営の当事者達に失礼な例えをして申し訳ないorz
>グロムイコ外相が驚くほどに酒で酩酊した状態で
>語られたものです。
大学の時に教授から聞いた話で
「共産圏の学者と話す時は行事が全て終わった後にホテルの部屋で一緒に酒を飲み出してからが本番」
という言葉を思い出しました
誰も「アメリカが酷いことを言ってるから交渉を打ち切れ!」とは言っていない訳で…
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