ソ連軍の秘密戦史25
カーマ作戦https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Cuban_Foxtrot_submarine.jpg
フォクストロット級潜水艦。写真は1986年に撮影されたキューバ海軍のもの。
ソ連海軍の派遣計画1962年の夏、米国はキューバに入港するソ連貨物船の激増に気付き、洋上の監視を強化。船団護衛の必要を感じたソ連海軍司令官のゴルシコフ元帥は、9月下旬にソ連国防会議に艦隊の派遣を提案します。彼が想定した編制はチャパエフ級軽巡2隻、ミサイル駆逐艦2隻、砲搭載駆逐艦2隻、警備艇16隻、補給艦2隻、タンカー2隻、ばら積み貨物船2隻、工作艦1隻に潜水艦隊という構成でした。ところが、マリノフスキー国防相とフルシチョフはこれを撤回。潜水艦部隊にのみ派遣を命じました。もとよりフルシチョフは大型水上艦の役割を軽視し、潜水艦を重視する政策をとっており、今回もそれを踏襲したようです。カーマ作戦1962年に始まるソ連軍のキューバ派遣作戦は「アナディル」というコードネームを用いたものの、海軍においては「カーマ」作戦という独自の名前を採用しました。カーマ作戦は当初に北方艦隊の641型(フォックストロット級)潜水艦4隻を10月初頭にキューバへ派遣。続いて7隻の629型(ゴルフ級)弾道ミサイル潜水艦と、310型潜水艦母艦のドミトリー・ガルカンを派遣し、キューバのマリエル港に常駐部隊を作る、というものでした。潜水艦の乗員は、家族を呼び寄せてマリエル港のアパートで暮らせることが決まっており、これは乗員を無邪気に喜ばせたといいます。先遣隊となる641型は1950年代後半に配備が始まった水中排水量2500トンの通常動力潜水艦です。キューバへの派遣を命ぜられたのは、北方艦隊のB-4,B-36,B-59,B-130の4隻。いずれも定期整備から時間がたっておらず、海軍では長期の作戦行動に適任と考えていました。実際には、その1隻であるB-130の補機機関に小さな亀裂があり、電池も交換寿命を過ぎるなど問題を抱えていました。しかし、艦長は作戦から外されることを嫌い修理を先送りにしたとされます。
特殊武器https://en.topwar.ru/127031-yadernaya-torpeda-t-5.html
核魚雷の弾頭部とされる画像4隻の641型潜水艦には、T-5核魚雷を各1発ずつ搭載する決定が下され、維持管理を担当する北方艦隊特殊武器局の中尉1名も各艦へ派遣されました。弾頭にはRDS-9を搭載し、これは10から15ktの核出力を有しました。T-5各魚雷は試験において標的から10kmの距離でこれを撃沈したことが伝えられたものの、初めて核兵器を扱うことになった艦長達は爆発に巻きこまれることを心配したようです。また、一般の乗員に対しては特殊武器の詳細を伏せていたものの、同乗する中尉に不信な目を向けたようで、彼のいないところで憶測が聞かれました。暗闇の出発10月1日未明、北海に面するムルマンスクにあるポリャールヌイ潜水艦基地から4隻の潜水艦が出航。これと同時に複数の潜水艦と駆逐艦が出航したものの、ある程度進んだところで、港へ引き返しました。彼らの行動は4隻の潜水艦がキューバへ向かったことを隠すための陽動でした。現実的には、ソ連艦全体の外洋での活動能力に乏しいため、陽動にしか使えない、という世知辛い実情を暗に示すものでもあったようです。嵐の航海出航から約1週間後、各艦はイギリス、アイスランド、アイルランド間の約1100kmの海峡(GIUKギャップ)に到達しました。海底には米国が設置したSOSUSによるパッシブソナーの監視網が存在し、ソ連の潜水艦は極力静粛な航行に努めたものの、大抵の場合は米国に筒抜けとなり、哨戒機による待ち伏せをうけました。戦隊の1隻であるB-36はGIUKギャップを通過した直後から、P-2哨戒機による執拗な追跡をうけ、P-2はB-36の進路を見透かすように何度も同じ方向を行き来します。一方のB-36はそれまでの連続潜航でバッテリーを空にしており、嵐によってシュノーケル潜航もできずにいました。波が高い状態でシュノーケルを使用すると、空気弁の急閉鎖による艦内の急減圧を引き起こしたり、弁の閉鎖に失敗して海水がエンジンに流入する恐れがあるためです。こうした事情をふまえ、艦長はあえての水上航行を決断。幸いなことに、荒れた海面が対水上レーダーやソノブイなどから潜水艦を隠してくれたため、長時間に及ぶP-2の追跡をかわしています。この時期の大西洋は嵐も多く、4隻の潜水艦には天候が味方し、SOSUSを突破してキューバへの航海を続けました。そんなB-36の艦内では、不幸にも急性虫垂炎に苦しみだした一人の乗員を救うため、士官室のテーブルを手術台として、軍医による緊急手術が行われました。通常、潜水艦は20mほど潜航すれば海面の強風や波の影響をうけないのですがこの時ばかりは艦の任務が優先され、手術は大しけの中で実施。無事に手術を終えた乗員は帰港時にメダルを授かったものの、執刀した軍医にはなんの褒賞もなかったそうです。
参考対潜海域 キューバ危機幻の核戦争(ピーター・ハクソーゼン 著 秋山信雄 神保雅博 訳 ISBN4-562-03622-2 2003年6月26日)地域戦争と紛争におけるソ連 第10章 カリブ海の危機 世界は戦災の危機に瀕した(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)アナディール作戦のファイル(TASS通信 2017年9月8日)
コメント
軍医可哀想(小並感)
現場で戦うわけじゃない政治家の視点で数字だけで見ると潜水艦って水上艦や空母よりも遥かにコスパ良い魅力的な兵器なのよね…WW2でも冷戦以降でも
フルシチョフはミサイル推しも明らかにコスパの数字で見て決めてるし
???「大型水上艦など敵艦隊の牽制ぐらいにしか役にたたん!解体してボートを増やせ(ry
軽巡なんて古めかしい艦種が出てきたなって思ったら、15.2センチ12門に魚雷と爆雷を装備した、ある意味正統派な軽巡だった。
旗艦あたりを務める予定だったんだろうけど、対潜ロケットもないんじゃ護衛対象を増やしてるようなものじゃ…もうちょっと戦力になるようなのは…いないみたいですね…
解体して潜水艦を増やそう(伍長並感)
まだスベルドロフスク級がバリバリに現役の頃ですね。性能的には時代遅れでしたけど。
大国間の戦争はそのまま核戦争と想定されてた時代ですね。この事件も契機で見方が修整されますが。
そういえばCold Watersって言う80年代にWW3が起こった世界線で退役間際のスベルドロフスク級が揚陸支援の為に揚陸艦隊に揚陸艦に混じって居たな
一応は秘密の作戦だったことに加え
最終的にB-36は米ASW部隊に屈して
海上へ浮上してしまった
ことも関係しているかもしれません。
2様
戦傷章のデザインは時期によって異なるようですが
略綬は赤い横線で軽傷、金色の線で重症を示すデザインが踏襲されており
線の数は負傷のたび追加され
その人が何度死地をくぐり抜けたか
わかるようになっています。
3 名無しのミリヲタ(ワニ)様
核魚雷の安全距離って何キロくらいなんでしょうね。
流石に10㎞も離れていれば安全...とは思いますが
キューバ危機のようにASW部隊に至近距離で追い回された時には
確実に報復をうけますし
4様
ソ連上層部の認識では
11月にミサイル基地が完成すれば
米国がキューバに圧力をかけてくることがなくなり
島に平和が訪れるということになっていました。
5様
フルシチョフは
水上艦について「提督が海外に旅行するためだけのもの」
という辛辣な発言をした、といいます。
6様
???
米国の裏庭に派遣するには
心もとない戦力かもしれません。
8様
伍長閣下も43年のバレンツ海戦で戦果がなかったことに憤慨し
海軍総司令官のレーダー元帥を叱責して大型艦の解体を要求した
とされます。
9様
もしかすると
派遣予定だった艦はチャパエフ級ではなくドロフ級だったかもしれません。
10様
米ソともに核に頼りすぎの50年代でしたが
流石にまずいと思ったのか
米国では柔軟反応戦略が提唱されましたね。
ソ連の場合は地上軍による電撃戦で
敵地の住民を人質状態にすることで
核を撃たせない、みたいな戦略があったようですが。
11様
Youtubeで作品の動画を見ました。
「沈黙の艦隊」のようで面白そうな作品ですね。
>ゴルフ級
当時搭載していたのが射程600km(日本ならだいたい東京~青森間)のSS-N-4なので、アメリカ東海岸を狙うとしても、ずいぶんと陸地に近付く必要があることになるんだな。
当時は浮上しないとミサイルが撃てなかったことを考えると、なかなかに厳しい…。
そういえば『遥かなる星』では、東京攻撃の命令を受けたゴルフ級が、青森沖で八戸から出撃した駆潜艇と哨戒機に捕捉されていたのを思い出したり。
哨戒機はともかく駆潜艇でどこまで捕捉できたものやら。
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