ソ連軍の秘密戦史24
灼熱の旅路https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Crateology.jpg
コマール型ミサイル艇を運搬中の貨物船。キューバ危機が表面化する前の1962年9月に撮影。
秘密の航海1962年7月上旬、GSVK(キューバ派遣ソ連軍グループ)の参加部隊が貨物船による移動を開始しました。各船の船長は、その行き先を知らされずに出航し、あらかじめ指定されたタイミングで封緘命令書を開いたときに、その目的地がキューバであると気付きました。目的地は厳重に秘匿されたものの、船がバルト海や黒海を抜けた頃にはNATOによる監視がついて回りました。無線で目的地と貨物を尋ねられることもあり、船長は偽装用に積んだ民生品の貨物と、その時点で知り得た仮の目的地を伝えてごまかします。とはいえ、いずれの船も最終的にはキューバで集結したことから、米国は8月ごろにキューバで何かしらの企みが始まったことを疑いました。また、コマール型ミサイル艇やIL-28爆撃機などの大型兵器は梱包されていたにもかかわらず、コンテナの形状と大きさから米国にその正体を見破られます。米国はソ連当局に説明を求めたものの、ソ連側はあくまでキューバ防衛用の防御的兵器を送っているだけだとごまかしています。https://nsarchive2.gwu.edu//nsa/cuba_mis_cri/photos.htm9月28日に撮影された貨物船カシモフ。細長いコンテナの中にはIL-28の胴体部分が収められている。灼熱地獄の船倉GSVKの兵士たちは兵器と共に貨物船で輸送されたものの、夏の日差しで上甲板や貨物ハッチが熱せられ、彼らの隠れる船倉は50℃を超える灼熱地獄と化しました。しかし、哨戒機による監視の目を避けるため上甲板にでることは禁止され、ハッチは夜になるまで締め切られます。食料も生鮮品などは軒並み腐り、海が荒れることで胃の中身を吐き出すこともあって、兵士は船旅で疲弊していきました。航海の所要日数は2~3週間とそう長くはないものの、船内で死人が出て、夜間にひっそりと海葬された例もあるようです。その一方、米国はキューバ封鎖時におけるソ連軍の規模を1万人程度と誤認。 実数の4万5000人よりも遥かに少なく見積もっていました。米国は、大量のソ連兵が船倉の中で暑さに耐え忍びながら輸送されたことを予想していなかったのです。哨戒機に手を振る幸いにして貨客船や旅客機で移動できた部隊もあったのですが、彼らは軍人であると悟られないよう、あくまで一般客としてふるまいました。空軍の無線機技術者であったM.Dイサエフ氏によると、キューバへ到着する直前に乗船する客船に米海軍のP-2哨戒機が接近したとき、船内アナウンスで軍人の乗客と女性に上甲板に出るよう促され、皆で哨戒機に手を振って、陽気な姿を演出したと回想します。このとき乗船していた女性達も一般客ではなく、ソ連内の基地で事務や看護、調理等の仕事に就く軍属でした。P-2は互いの表情が見えるような距離まで船に接近。側方をゆっくりと通過しながら、ソ連船の様子を注視しましたが、彼らのわざとらしい演技に気付いたかは不明です。
http://www.airforce.ru/history/cold_war/cuba/index.htmソ連の貨物船に接近するP-2哨戒機。写真はイサエフ氏の部隊がキューバから撤収する際に撮影されたもの。https://espionagehistoryarchive.com/2015/05/08/operation-anadyr-missile-maskirovka/キューバにて民間人を装うソ連軍。キューバの大ミミズソ連の貨物船は、7月19日から続々とキューバの港へ到着。人員と装備の荷下ろしは、積み込みの時と同様に夜間に実施されました。この作戦の要の一つだったR-12ミサイルは9月9月に到着したものの、その大きさ故にキューバの狭い道路を通過するには困難がありました。ミサイルの移送が行われた夜には邪魔な民家は取り壊し、電線に引っかからないよう棒で持ち上げる人員がミサイルの上に乗っていました。移送作業中は外出禁止令が出されたものの、キューバ人はソ連人が持ち込んだ何かを夜間に地表を移動する「大ミミズ」にたとえ、その噂は瞬く間に広まります。この頃のキューバ国内には多数の対米協力者が潜んでおり、ソ連軍の存在が米国に露見する危険がありました。ソ連軍はアレクサンダー・ティホノフ大佐が率いる防諜部隊を派遣しており、無線の逆探知などを駆使し、CIAの秘密組織を検挙しています。ティホノフの捜査は自軍にも及び、カストロの側近に核兵器の情報をもたらしたソ連人を国家機密漏洩により逮捕、ミサイル撤去が決定されるまで拘束しました。米国の疑いの目ティホノフらの暗闘にもかかわらず、CIAのもとにキューバに戦略ミサイルが存在する、という報告が多数届いていました。ところが、彼らはスパイの専門教育をうけておらず、しばしば「相手が聞きたがっている情報」を伝えることから、そのほとんどが誤報であると判断しました。「キューバ危機 ミラーイメージングの罠」によると1962年9月から10月までの1000件の報告のうち、事実に見合ったものはわずか8件。現地からの報告はほとんど相手にされていなかったといいます。それでも、この時はキューバに入港するソ連貨物船の増大、という事象もあったことから、8月29日からU-2偵察機によるキューバの偵察が開始。9月上旬にS-75(SA-2)やS-2ソプカ対艦ミサイルの存在を発見しました。S-75の一部は稼働状態にあったものの、フルシチョフは米国への刺激を避けるため侵犯機の迎撃を許していませんでした。フルシチョフはソ連本国に侵入したU-2に対しては何度も撃墜を指示し、1960年5月にそれが成功すると大いに宣伝したわけですが、今回は打って変わって慎重な対応をとりました。一方のケネディ大統領も、U-2の投入に乗り気でなかったようで、偵察の進捗は遅れています。これは、大統領がピッグス湾事件の失敗でキューバ対策に消極的だったことに加え、9月10日に台湾へ運用を移管していたU-2が、中国領内でS-75に撃墜されたことも関係しています。1962年の9月はケネディ大統領とフルシチョフ第一書記は互いに忖度しあう奇妙な状態が続き、結果として米国はソ連の企みに気づくまでに時間を要すことになったのです。https://espionagehistoryarchive.com/2015/05/08/operation-anadyr-missile-maskirovka/
R-12 IRBM参考キューバ危機 ミラーイメージングの罠(ドンマン・トン デイヴィッド・A・ウェルチ 田所昌幸 林晟一 ISBN978-4-12-004718-3 2015年4月25日)十月の悪夢(NHK取材班 徳永敏介,山崎秋一郎,大和啓介,小谷亮太,阿南東也 IABN978-4-14-080072-0 1992年11月30日)対潜海域 キューバ危機幻の核戦争(ピーター・ハクソーゼン 著 秋山信雄 神保雅博 訳 ISBN4-562-03622-2 2003年6月26日)地域戦争と紛争におけるソ連 第10章 カリブ海の危機 世界は戦災の危機に瀕した(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)キューバの第32親衛戦闘機航空連隊(セルゲイ・イサエフ 2009年)アナディール作戦のファイル(TASS通信 2017年9月8日)
コメント
参考文献の「対潜海域」に潜水艦の甲板で日光浴をする半裸の士官の写真が掲載されていました。カリブからの帰還時に撮影したそうです。
潜水艦がそのような感じなので、一般の部隊も自由に(?)裸になっていたはずです。
そういえばソ連原潜の艦内には光線治療器があり、乗員は疑似太陽光で日光浴をした、という話を何かで読んだことがあります。
2様 3様
恥ずかしながらヒッチコック監督作品で全編を通して見たのは「ロープ」だけです。
ただ、同作もフィルムの継ぎ目がいつ来るのか探すのに夢中で、肝心のストーリーをよく覚えていないのです。
>米国は、大量のソ連兵が船倉の中で暑さに耐え忍びながら輸送されたことを予想していなかったのです。
米軍じゃ兵員輸送も(比較的)居住環境に配慮した優雅な船旅だからまさか劣悪なすし詰めで運ぶような自軍兵士に非人道的な軍隊があるだなんて想像も出来なかったんだろうなって
今回の説明で理解しました
たぶん民間人擬装用としてワンピースが与えらえた女性軍人だったんだろうなと
でまあ、士官たるものは淑女のそのようなご姿を写真撮影することは不道徳なので
写真撮影はしなかったと思いたい。
大戦時代には貨物列車で兵員を輸送するシーンがあったりするので
兵士に対する粗雑な扱いはその延長かもしれません。
6様
敵対水域ではキューバが最後のほうに登場しましたね。
「10月の悪夢」によると
K-219事件と同時期に発生したチェルノブイリ事故後
キューバは放射線障害の転地療法先として子供達を受け入れたのですが
軍高官はNHKの取材陣に
「子供達を受け入れて初めて核の恐ろしさに気付いた」
と語ったそうです。
1962年の時点では
核戦争の本当の恐ろしさに気づく余裕が
なかったのかもしれません。
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