ソ連軍の秘密戦史22
アナディル作戦
文:nona
https://www.defensemedianetwork.com/stories/cuban-missile-crisis-50th-anniversary-operation-anadyr-2/
アナディル作戦1962年7月、ソ連軍のキューバ派遣作戦である「アナディル」作戦が本格始動しました。この作戦は米国のほぼ全域を攻撃できるR-14型IRBMと、幾分射程が短いもののワシントンD.C. ニューヨーク、シカゴ、ダラスなどの主要都市を攻撃できるR-12型MRBMの発射基地をキューバに建設し、ミサイル運用部隊とキューバの防衛および後方支援を担うソ連軍の諸兵科連合をGSVK(キューバ派遣ソ連軍グループ)として派遣するものです。GSVKの総員は約5万人で、併せて3000名の文民も派遣される計画でした。作戦の期限は11月5日までとされ、この直後に予定される国連の会議において、フルシチョフ第一書記とカストロ首相は、ケネディ大統領の面前で核武装の既成事実を高らかに宣言する予定でした。この日取りはソ連革命記念日や米国の中間選挙とも重なっており、作戦の成功で最大限の政治的効果を得ることが期待されました。作戦名の秘密作戦名の「アナディル」とは、ユーラシア大陸東端のベーリング海に注ぐ川と周辺にある小都市に由来するもので、参謀本部のマトウェイ・ザハロフ大将が名付けました。過去にはスターリン時代に検討されたアラスカ攻撃計画のコードネームとしても使用されたことがありますが、今回はソ連軍の大移動が北極圏での演習のように見せかけるという、作戦地のかく乱を目的に使用されました。もし、キューバへのミサイル配備が米国に気づかれた場合、なりふり構わずに妨害におよぶことが想定されるため、アナディル作戦は特に秘密が重視されました。実際にキューバへ派遣される部隊へ防寒具やスキー板など、キューバで使用しないであろう冬季装備の携行を命じたほどです。作戦を立案した参謀本部においても、関係者の名簿を制作して共有する情報を制限。互いの連絡を直接口頭で行い、電話の使用は固く禁止しています。いつにもまして秘密主義だったソ連軍ですが、前述のザハロフ大将が作戦参加者への賞与を検討したことで、謎の大盤振る舞いがあらぬ憶測を呼んだ、と言われます。(そして実際にボーナスが出たのかは不明)武装する貨物船GSVKの海上輸送はソ連海運省の商船団が担いました。当時のソ連の海運業は世界第四位の規模にあり、非軍需物資の輸送には東欧各国からも傭船も可能でした。GSVKの輸送にあたり86隻の貨物船が投入され、各船がソ連とキューバを何度か往復することで輸送計画を達成するものとされました。兵器と軍需物資の積み込みは、7月の初めごろからソ連各地の10か所の港で始まり、埠頭への一般人の立ち入りを禁止し夜間に行われました。積み込み作業は2~3 日を擁したものの、例えば空軍のMiG-21戦闘機は事前の分解と梱包に1か月以上を擁するなど、多大な苦労がありました。各船は偽装のために民間の輸出品を上甲板に搭載した一方、非常時に備え、隠蔽された重機関銃が据え付けられました。核兵器の運搬を担った砕氷貨物船のインディギルカとアレクサンドロフスクではより強力な2門の37mm対空砲も装備されています。フルシチョフはソ連軍参謀本部を介して商船隊に「ソ連船群はソ連邦の一部であり(中略)攻撃はソ連邦に対する侵略行為である。」として米側からの攻撃に対する反撃を許可していました。実際のところ、10月に事実上の海上封鎖が始まったときフルシチョフは一転して慎重な対応を指示し、核兵器を輸送していた貨物船に引き返すよう指示します。クセの強いGSVK司令官http://xn----btbhm8bdfn1ff7ac.xn--p1ai/2018/05/герой-осетии-генерал-плиев-сражался-н/GSVKの総司令官には、マリノフスキー国防相が推薦で北カフカス軍管区の司令官イッサー・プリーエフ大将が任命されました。プリーエフは騎兵科の出身で危険をかえりみない猪突猛進の人で、やや思慮に欠け傲慢という欠点もあり、カストロやGSVKの部下とは摩擦もあったようです。そんな彼があえて総司令官に選ばれた理由には、米国に作戦の目的を推測されないようにする意図があったといいます。(副司令としては戦略ロケット軍のレオニード・ガルブス少将らが任命されています)また、プリーエフの管轄地域だったロストフ州ノヴォチェルカスク市では派遣の前月に大規模な市民暴動があり、彼が武力鎮圧したこともキューバ派遣を命ぜられた理由の一つと考えられます。この非情な対応は中央政府の意向でもあったのですが、一方では事件を隠蔽するため関係者に異動が命じられました。州書記長だったバソフは畜産担当の農業技術顧問としてキューバへ送られたといいますから、プリーエフの異動もその一環だったのかもしれません。プリーエフと GSVKの幕僚は7月7日にクレムリンに召集され、フルシチョフが「アメリカがキューバを飲み込もうとしている。そこにハリネズミを送り込んで、飲み込めなうようにしてやるのだ」と訓示した後、VIP用のTu-114でキューバへ送り出されました。
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故郷の北オセチアに建てられたプリーエフの銅像。ソ連軍において騎兵突撃を指揮した最後の人物とされる。参考キューバ危機 ミラーイメージングの罠(ドンマン・トン デイヴィッド・A・ウェルチ 田所昌幸 林晟一 ISBN978-4-12-004718-3 2015年4月25日)十月の悪夢(NHK取材班 徳永敏介,山崎秋一郎,大和啓介,小谷亮太,阿南東也 IABN978-4-14-080072-0 1992年11月30日)対潜海域 キューバ危機幻の核戦争(ピーター・ハクソーゼン 著 秋山信雄 神保雅博 訳 ISBN4-562-03622-2 2003年6月26日)世界のミサイル・ロケット兵器(坂本明 ISBN978-4-89319-198-4 2011年8月5日)地域戦争と紛争におけるソ連 第10章 カリブ海の危機 世界は戦災の危機に瀕した(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)キューバの第32親衛戦闘機航空連隊(セルゲイ・イサエフ 2009年)アナディール作戦のファイル(TASS通信 2017年9月8日)
コメント
何かかなりデリケートな任務の割には、えらく癖のある人物が指揮官に選ばれたようで。
いつもありがとうございます。
本記事は結末が明らかになっている事件を扱っているので
ネタばれはモウマンタイです
今回登場したTu-114ですが
Tu-116と呼ばれる機体だったかもしれません。
同機はTu-114の実用化の遅延に備え
Tu-95のうちの2機を生産ラインから機体を引き抜いて改造したものだそうです。
当初はフルシチョフ訪米時の足として使われる予定でしたが
彼は1回しか搭乗せず、Tu-114の実用化すると
無用の長物となり軍の高官輸送用に転用されたとされます。
幸いTu-114でみられた構造欠陥がなかったのか
90年代初頭まで使われたようです。
2様
日本が無傷で第三次大戦を生き延びられたかは不明ですが
キューバ危機のさなかには在日米軍も戦争準備を進めていました。
「日本への核弾頭の持ち込みが認められれば準備は完了」
と本国に伝えた記録があるようです。
PIAT様
プリーエフ大将の件ですが
外部から見ると左遷人事に見えたかもしれません。
「プリーエフは例の事件の責任を問われて職を解かれ、キューバに農業技術顧問(おそらくは馬関係の顧問として)として島流しにされた」
とでもCIAに誤解させる意図もあったのでしょうか。
4様
あまりの暑さに死人が出て
夜中に海葬された、という記録もあるようです。
後になってキューバ派遣作戦中の殉職者が57人(後に64名に改定)
と公開されていますが、海上での死者が計上されたのかは不明です。
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