ソ連軍の秘密戦史19
街に戻ってきたソ連軍


文:nona


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https://www.rferl.org/a/budapest-60-years-after-uprising/28067263.html

コルビンへの苛烈な攻撃

 11月4日、突如としてブダペストに戻ってきたソ連軍は迅速に街の要所を抑え、ハンガリー軍は降伏。

 レジスタンスの拠点であったコルビン劇場、モスクワ広場(セール・カールマーン広場)、ブダ城周辺の制圧に失敗したものの、翌5日に大規模な攻勢がかけられます。

 コルビンに対して170の野砲と迫撃砲による攻撃準備射撃が加えられ、この砲撃でレジスタンスは恐慌状態に陥いり、その多くが武器を残して逃走しました。

 ソ連軍の包囲はそれほど厳重なものではなく、多くのレジンスタンスが市外に脱出したものの、そのためか11月8日にはブダペストの全域がソ連軍に制圧されています。

 ただし、ハンガリー各地で散発的な抵抗が12月まで続いたため、ソ連軍も山狩りを継続しました。

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11月4日の再介入時に撮影された、国会議事堂前を警備するソ連のT-54戦車と歩哨。
Erich Lessing撮影



両者の被害

 今回のハンガリー動乱でソ連軍では1540名が負傷し669名が死亡、51人が行方不明とされています。

 とはいえ、最終的に勝利を収めたことで多くの受勲者があり、ジューコフ国防相は4個目のレーニン勲章を授かって政府内での地位を高め、翌年の反党グループ事件後にピークに達します。

 ところが、ジューコフの存在はフルシチョフ第一書記の地位さえも脅かす存在になったことで、事件から1年後に国防方針の違いを理由に国防相を解任。不名誉な形での引退を余儀なくされます。

 ハンガリー側では2万名の負傷者と5千名の死亡者があり、暴動に加わった1000余名が処刑され、多数の逮捕者を出しました。

 ナジ首相は中立と思われたユーゴ大使館に避難していたものの、無害通過を認められ敷地の外へ出たところ、その約束を反故にされてKGBに逮捕。翌年にマルテル国防相と共に処刑されました。

 また、事件中に20万人とされる国民がソ連軍の封鎖にもかかわらずオーストリアに逃亡し、同国を経由し移民として米国等へ移住しています。

 その中には、半導体企業Intelの初代CEOであるアンドルー・グローブをはじめとする優秀な人材も含まれており、人口流出と合わせてハンガリーにとって大きな痛手でした。

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処刑されたナジ首相



西側に介入の動きなし

 ナジ政府はソ連軍に打倒されるまで西側諸国に救援を求めており、ブダペスト市民も西側の大使館に救援の電話をかけ、米国に在住するハンガリー系市民は故国の危機を訴えるデモを続けました。

 国連安保理の常任理事国である米英仏3か国は、ソ連に武力介入の停止を要求したものの、朝鮮戦争の時とは異なり具体的な行動はありませんでした。

 この頃米国のアイゼンハワー大統領は、ソ連との軍縮交渉を進めるべく協調路線を維持しており、英仏についても同時期の第二次中東戦争にてスエズに出兵していたため、ハンガリーを支援する余裕がなかったのです。

 ハンガリー動乱の同年にモスクワ上空の偵察に成功したU-2偵察機も、ソ連への配慮からハンガリーへの投入が避けられており、一方の中東戦争では積極的に使用されています。


西側の垣間見たソ連軍の実力

 西側諸国はハンガリー動乱に実質的に関与できなかったものの、現地に駐在する武官や非公式に活動する諜報員による情報収集が進められ、ソ連軍の新兵器が実用されていることに気づきます。

 英国の駐ハンガリー武官であるカウリー大佐は、市内に取り残されたT-54A戦車を発見し、身の危険を感じながらも調査に成功。

 彼は翌年に国外退去を命じられたものの、T-54の素性を明らかにしたことで、対抗策として新型の105mm戦車砲であるL7の必要性が認識され、同砲の新規採用と換装改修を促進させました。

 また、ソ連軍が15万人の大軍勢と重装備を非常に迅速にハンガリーに展開し、兵站を維持したことも西側に脅威を与え、NATOの軍事政策に少なからず影響を及ぼしています。

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ブダペスト市内に放置されたT-54Aの残骸。



動乱後のハンガリー

 ソ連が擁立したカダル第一書記はソ連に従い、KGBによる国民の逮捕を容認。一度は廃止された収容所を復活させ、ソ連軍の駐留は東欧革命後の1990年まで継続されました。

 その一方で動乱時に壊滅した秘密警察は再建しないなど、次第に穏健な政治に移行しており、終身刑を科された逮捕者に恩赦を与えました。

 カダル時代のハンガリーでは国民に一定の自由を与えられ、西側の国々とも友好な関係を築くなど、東欧の中では比較的豊かな国として知られました。

 ソ連もそれを黙認していたのですが、安全保障に関しては依然としてハンガリー側が東側陣営であり続けることを望んでいました。

 1968年のプラハ事件において、ハンガリーは自由化を目指すチェコスロバキアに対し、ソ連と共に革命を阻止する側として出兵していますが、それはハンガリー国内のささやかな自由を守るために必要なことでもあったのです。


参考
スターリンの将軍ジューコフ(ジェフリー・ロバーツ著 松島芳彦 訳 ISBN978-4-560-08334-5 2013年12月10日)
フルシチョフ 封印されていた証言(ストローブ・タルボット序 ジェロルド シェクター ヴァチャスラフ・ルチコフ 編 福島正光 訳 ISBN4-7942-0405-1 1991年4月10日)
現代中国の国境紛争史
ハンガリー事件 二つの世界とナショナリズム(村上公敏 1959年)
ハンガリー事件報告に関する若干の疑問 二つの世界とナショナリズム(角田順 日本国際政治学会 1959年1月)
カダール政権の成立と秩序形成過程(松井弘明 1971年)

Антисоветский мятеж в Венгрии 1956 года: на войне как на войне27 октября 2016
(2016年10月27日 ドミトリー・セムシン)

militera.lib.ru
Советский Союз в локальных войнах и конфликтах.(地域戦争と紛争におけるソ連)

Глава 8.«Вихрь» в Будапеште, год 1956 Как все начиналось
(Лавренов С. Я, Попов И. 2003年)

tacc通信
Венгерское восстание 1956 года. Досье (2016年11月8)