ソ連軍の秘密戦史17
戦車対レジスタンス


文:nona


10
https://www.theguardian.com/world/gallery/2016/nov/10/1956-hungarian-revolution-in-pictures
火炎瓶でソ連軍を出迎える市民

ソ連軍の出動

 1956年10月23日にブダペストで始まった暴動をうけてハンガリー政府のゲレ第一書記らはソ連に救援を要請。日付の変わった24日の0時ごろにハンガリー駐留ソ連軍と周辺国の部隊が出動しました。

 当時のハンガリーと周辺地域には5個師団(戦車1000両と兵員3万人)の戦力があり、ウクライナ方面の部隊は国境を流れるティサ川を越えて、ハンガリー側の鉄道の街ザハニを掌握し本国からの補給線を確保。ハンガリーに駐留していた部隊はブダペストへ移動する隊とオーストリア国境を封鎖する隊に分かれて行動しました。

 深夜2時ごろには最初の部隊がブダペストに到着。市内に入ったのは将兵6000名、戦車290両、装甲車120両、火砲156門とされます。彼らの装備は大戦期の旧式兵器と戦後型の新型兵器が入り交じっていました。


市民とソ連軍

11
http://www.fortepan.hu/_photo/download/fortepan_23684.jpg
「ロシア人は帰れ!」


 デモ隊が表明した「16か条の要求」では、その第1条にソ連軍の撤退が要求されるなど、ハンガリー国民はソ連軍を嫌っており、ブダペストの至るところで「ロシア人は帰れ」との落書きが見られました。

 とはいえ、ソ連の戦車と対峙することになった市民は自制し、ソ連側との和解を模索。ハンガリー国会前のコシュート広場の市民は、ソ連兵に対し意思の疎通を試みています。

 当時のハンガリーではロシア語が義務教育に組み込まれており(完璧なものかは別として)市民の真摯な訴えにソ連兵は耳を傾け、ついに連帯を表明。

 程なくして市民を戦車の上に乗せ、互いにタバコなどを交換しあうなど、一時的ではあったものの融和ムードが醸成されました。

12
https://tass.ru/mezhdunarodnaya-panorama/3765068
ハンガリー国会前を警備するT-54A戦車の上に乗り、ハンガリー王国時代の国旗をふるう市民。


 ところが、何者かが広場へ銃撃を開始し、パニックによる将棋倒しで多数の市民が死傷。

 ソ連側が銃撃を開始したとは考えにくいため、その犯人をハンガリーの秘密警察AVHとする説が有力ですが、これまでAVHと戦闘を繰り広げていたレジスタンスはソ連軍をも報復の対象とし、激しい戦闘を仕掛けます。


コルヴィン通りの虐殺

 ソ連軍はブダペストの路地にてレジスタンスによる待ち伏せをうけ、予期せぬ大損害を被りました。

 広く知られているのが、ドナウ川西岸のコルビン劇場付近での戦闘です。同所はレジスタンスの主要な拠点となっており、25日ごろに接近したソ連側部隊に対し大量の火炎瓶が投げつけられました。

 ソ連側は待ち伏せ攻撃を予期していなかったため、多数の戦闘車両が炎上しました。

 攻撃を生き延びた車両も、撤退が許されなかったことで危険な市中に留まざるを得ず、補給の途絶えた状態で戦車兵は狭い車内に閉じ込もり、レジスタンスとの対峙を続けます。

 道路には死体が横たわるものの回収が困難であったため、一時的に死臭を防ぐために石灰がまかれました。

13
https://budapestbeacon.com/hungarian-revolution-1956/
炎上するBTR-152


14
https://www.quora.com/What-types-of-tanks-were-the-Soviets-using-in-the-1956-Hungarian-Revolution-and-how-did-this-affect-the-outcome-of-the-uprising
放棄されたSU-152


15
https://www.quora.com/What-types-of-tanks-were-the-Soviets-using-in-the-1956-Hungarian-Revolution-and-how-did-this-affect-the-outcome-of-the-uprising
原形をとどめないほどに破壊されたT-34


16
https://www.quora.com/What-types-of-tanks-were-the-Soviets-using-in-the-1956-Hungarian-Revolution-and-how-did-this-affect-the-outcome-of-the-uprising
IS-3Mの残骸


17
https://www.quora.com/What-types-of-tanks-were-the-Soviets-using-in-the-1956-Hungarian-Revolution-and-how-did-this-affect-the-outcome-of-the-uprising
放棄されたT-44

18
http://www.fortepan.hu/_photo/display/39837.jpg
炎上したT-54A戦車の残骸


19
https://www.quora.com/What-types-of-tanks-were-the-Soviets-using-in-the-1956-Hungarian-Revolution-and-how-did-this-affect-the-outcome-of-the-uprising
放棄されたT-34の前に仰向けで倒れた遺体。腐敗を遅らせるために石灰をまかれている。


ソ連軍の一時撤退

20
http://www.fortepan.hu/_photo/display/141573.jpg
国会議事堂の閣僚会議に臨むナジ首相。(写真中央)


 ソ連軍とレジスタンスがにらみ合う中、ソ連の副首相アナスタス・ミコヤン(戦闘機設計者アルチョム・ミコヤンの兄)がハンガリーに入り、政府のゲレ第一書記とヘゲディツシュ首相は、ミコヤン副首相が出席のもと開催された閣僚会議にて、暴動の責任を負う形で解任。

 二人に代わって実権を握ったナジ・イムレ首相はミコヤン副首相と交渉を開始しました。

 ナジ首相は国民からの人気があった改革派の人物で、彼の呼びかけでレジスタンスは戦闘を停止。ミコヤン副首相との交渉もまとまり、28日にはソ連軍の撤退が決定します。

 ソ連本国のジューコフ国防相は当初は撤退を認めず部隊の増援を要求していたものの、交渉がまとまると一転してナジ政府を評価する声明を発し、ソ連軍は29日に市外へと撤退していきました。

21
http://www.fortepan.hu/_photo/display/32790.jpg
ブダペストから撤退していくソ連軍のBTR-40

 ただし、ソ連軍の撤退は一時的なものであり、ただ市外の駐屯地に戻っただけでした。

 一方のレジスタンス側もナジ首相の呼びかける武装解除には応じなかったため、大量の武器を持って市内各所の拠点に籠り、旧体制派の人物に私刑を加えるなど、ソ連側も警戒を緩めなかったようです。


ハンガリー人民軍とマルテル新国防相

22
https://www.theguardian.com/world/gallery/2016/nov/10/1956-hungarian-revolution-in-pictures
パル・マルテル大佐。身長2mを超える大男だったとされる。


 刻々と情勢が変わる中、ハンガリー人民軍は中立を保っていたものの、とある戦車部隊の指揮官であるパル・マルテル大佐はいち早く新政府に忠誠を誓い、市内の警備を担ったことで、29日に急きょ少将に昇格し、ナジ政府の国防相に就任しました。

 ソ連軍が去った後のブダペストには、かつてのハンガリー国章が描かれたT-34が進駐し、市民から歓迎を受ける様子が記録されています。

 とはいえ、ハンガリー軍とレジンスタンスとの関係は緊張状態にあったようで、レジスタンスは武器を奪うためにハンガリー軍のキリアン兵舎(市内の表通りに面する官舎)を占拠。政府側の明け渡し要求に応じなかったため、マルテル側はこれを追い出すためにT-34を投入し、銃撃を加えたと言われます。

23
https://rg.ru/2019/10/29/v-1956-godu-v-vengrii-vspyhnulo-vosstanie-tushit-kotoroe-prishlos-sssr.html
市民に花を贈られたハンガリー軍のT-34。砲塔の仕上げが荒い。


24
https://hungarytoday.hu/iconic-budapest-sites-during-the-1956-revolution/
ドナウ川のマルギット橋を警備するハンガリー軍のT-34

25
http://www.hungarianreview.com/gallery/volume_vii_no_5_
レジンスタンスに対処するため、キリアン兵舎に押し込まれたT-34戦車。



レジスタンスに加わった女性

 ところで、ブダペストの戦いでは多くの女性がレジスタンスに加わっており、その姿が写真に記録されています。

 特に有名なのが当時15歳のセレシュ・エリカという少女で、10月末にデンマークの写真家に撮影された姿が、西側に革命の象徴として伝えられました。

 実際には周囲の勧めもあり彼女はボランティアの看護婦として活動していたものの、11月の戦闘に巻き込まれ、死亡しています。

26
https://ultraeverlastinggopstopper.tumblr.com/post/135825001330/titovka-and-bergmutzen-one-of-the-most-famous
短機関銃を持つセレシュ・エリカ。テログレイカの隙間にFEG48.Mワラム・ピストルが挟まれている。この銃はハンガリーで産されていたワルサーPPのコピー品で、AVH等の警察組織で使用されていた。

 彼女以外の女性レジスタンスとして、ウィットナー・マリアが知られます。事件当時は19歳のタイピストで、23日のラジオ局を巡る戦闘時にレジスタンスに加わり、11月4日の戦闘で負傷。

 一時は逮捕されたものの、難を逃れてオーストリアへ逃亡します。ところが、ハンガリーに帰国したことで再び逮捕。一時は死刑宣告が出されたといいますが、後に減刑され1970年まで収監されました。

 ハンガリー民主化後に名誉を回復し、国会議員を歴任しています。

27
https://alchetron.com/M%C3%A1ria-Wittner
M1938/30小銃を持つウィットナー・マリア (左)

 ちなみに、両名ともソ連式の綿入りコートを着ていますが、ハンガリー国民はソ連式の軍服を嫌っており、例の16か条の要求には、軍服の変更も記されていました。


参考
スターリンの将軍ジューコフ(ジェフリー・ロバーツ著 松島芳彦 訳 ISBN978-4-560-08334-5 2013年12月10日)
ハンガリー事件報告に関する若干の疑問 二つの世界とナショナリズム(角田順 日本国際政治学会 1959年1月)
ハンガリー事件 二つの世界とナショナリズム(村上公敏 1959年)

The Budapest Beacon The Hungarian Revolution of 1956(2016年10月23日)