知られざる九六式十五糎榴弾砲の初陣
文:たわわ星人
はじめに
帝国陸軍の主力野戦重砲として支那事変から大東亜戦争終結まで活躍した九六式十五糎榴弾砲。
開発の経緯や性能、実戦での活躍は様々な本で語られておりますので、本記事ではあまり知られていない支那事変における九六式十五糎榴弾砲の初陣について解説します。
九六式十五糎榴弾砲の初陣は何処?
最初に九六式十五糎榴弾砲の戦歴ついてネットではどのように書かれているのか、wikipediaの記述を見てみましょう。
「制式採用上申の直前に盧溝橋事件が勃発し、完成していた九六式十五糎榴弾砲8門すべてを実戦試験を兼ねて北支の支那駐屯砲兵連隊[4]に急送した。本砲を装備した第2大隊は1937年(昭和12年)10月の国民革命軍の正定城攻撃に際し、攻城砲として攻撃短延期信管と瞬発信管を混用して城壁を破壊し突撃路を開くなど大成果を収めた。」(wikipedia「九六式十五糎榴弾砲」)
おそらく数多の兵器解説サイトもwikipediaの記述を参考としているはずなので、同様の記述かと思います。
ここから更に踏み込んで正定城攻撃が初陣と書いているサイトもありました。
正定の位置。 グーグルマップより引用
次に書籍ではどのように書かれているのでしょうか。
日本の火砲について詳しく解説している佐山二郎『日本陸軍の火砲 野戦重砲 騎砲 他』では支那事変時の本砲について以下のように書いています。
「本砲の採用を上申する直前に支那事変が勃発し、すでに完成していた8門は実用試験の意味も含めて実戦に使用することになり、北支に急送して北京の小林連隊に引き渡した。」
意外にも記述はこれだけであり、北支に急送した砲はその後どうなったのかは書かれていません。
なお、ここに出てくる「小林連隊」とはおそらく支那駐屯砲兵聯隊のことであり、当時の聯隊長は小林信男大佐でした。
以上のことから「支那駐屯砲兵聯隊が参加した昭和十二年十月の正定城攻撃が初陣となった」としたいところですが、(私はちょっと疑り深い人間なので)本当にそうなのかもう少し調べてみたいと思います。
正定城はどこから出てきた?
次に調べるのは昭和十二年十月の正定城攻撃に九六式十五糎榴弾砲が参加したと書いてある資料です。
国立公文書館アジア歴史資料センターに『昭和十二年~十三年 支那事変初期 北支における十五榴部隊を中心とする砲兵戦史資料』という支那事変時の九六式十五糎榴弾砲を装備した支那駐屯砲兵聯隊に関する資料があるので見てみましょう。
著者の大橋武夫氏は当時支那駐屯砲兵聯隊第二大隊に所属しており、支那事変時の部隊編成や戦訓などをまとめています。一部誤った記述もありますが、非常に参考になる資料です。
さて、資料には「九六式十五榴の戦場到着」という一編があり、九月初旬に塘沽に野戦砲兵学校の中島武少佐、沼口匡隆少佐(注:おそらく大尉)とともに九六式十五糎榴弾砲が到着したことが書かれています。
その後、九月十日に塘沽発の列車で牽引車と火砲を北京に運び、今まで運用していた三八式十五糎榴弾砲との訣別を行ったとのことです。
残念ながら「九六式十五榴の戦場到着」についてはここまでで、次の編は十月八日の「正定城攻撃」からでした。
おそらくwikipediaの正定城攻撃はここから出てきたものと考えられます。
以上のことから「支那駐屯砲兵聯隊が参加した昭和十二年十月の正定城攻撃が初陣となった」としたいところですが、私は(略)ということでもう少し調べてみます。
本当に正定城なのか?
これまでに判明したのは、九六式十五糎榴弾砲は九月初旬に塘沽に到着後、九月十日に北京に運ばれ、十月八日に正定城攻撃に参加したということです。
では、九月十日から十月八日までは何をしていたのでしょうか?
九六式十五糎榴弾砲が配備された支那駐屯砲兵聯隊の行動を調べるため、山砲兵第二十七聯隊有志『山砲兵第二十七聯隊誌』を確認してみましょう。(昭和十三年六月に支那駐屯砲兵聯隊は山砲兵第二十七聯隊に改称)
『山砲兵第二十七聯隊誌』は、支那事変初期の部隊戦史の大部分が執筆担当者の個人戦史と盧溝橋事件に対する個人的見解に大部分を費やしており、部隊戦史としてあまり参考になりません。そのため、部隊員の回想編を頼ることになります。
当時、支那駐屯砲兵聯隊の聯隊本部要員だった方の回想に大変興味深い記述がありました。
「その後、北京に帰還、新型九六式十五榴の交付を受けて特訓の後、再び京漢沿線の張辛店〔ママ〕及び望站付近の戦闘を皮切りに、保定・正定・石家荘の戦闘に参加しました。」
上記のことから支那駐屯砲兵聯隊本部及び第二大隊は正定城攻撃の前に「長辛店及び望站付近の戦闘」に参加したことが考えられます。
この考えの裏付けとなる記述が『砲兵沿革史 第五巻 中 回顧録』にありました。
タイトルは「野戦砲兵の自動車化に就て」。著者は中島武。
九六式十五糎榴弾砲とともに塘沽に到着した野戦砲兵学校の中島武少佐です。
「偶々北支で参戦していた小林部隊(聯隊長小林信男大佐・赤松友次郎大隊長・大橋武夫中隊長)へ急遽支給されることになり、昭和十二年八月末北京へ輸送され、約十日間兵器の取扱を教育し(略)而かも十日目には出動となり、私共も一所に出かけて行軍から、布陣、それから城壁のある敵陣地の攻撃まで、実際に此の牽引車、此の火砲の初陣を見せて貰い上々の成績であることを喜んだのである。」
中島武氏によると北京に輸送されてから約十日間の教育後、十日目に出動となり、初陣で上々の成績を上げたことになっています。
大橋武夫氏の記録と北京に到着した日付が食い違っておりますが、どちらにしても十月八日の正定城攻撃の前に初陣となった戦闘に参加したことになります。
初陣となった戦闘とは?
ここまでくると九月上旬から十月初旬まで北支であった戦闘に参加したということに絞られます。
再度、アジア歴史資料センターで検索するととんでもない資料が出ました。
『新十五榴普及教育北支駐砲兵隊出張報告送付の件』です。
この資料は支那駐屯砲兵聯隊に派遣された中島武少佐の出張報告書です。
ここに全ての答えが書いてありました。
上記の報告書によると中島少佐が北平(北京)に到着したのは六日、九六式十五糎榴弾砲は八日夕に到着しました。十日から十四日までは北平で教育援助。九月十五日から十七日に北平、良郷、七里庄及び長辛店における行軍及び戦闘間の教育援助を行っています。
「竇店鎮攻撃」とはどんな戦闘だったのか?
中島少佐の報告書によると九月十五日から十六日に、支那駐屯砲兵聯隊第二大隊は第二十師団左側支隊の竇店鎮(とうてんちん)攻撃を支援したとしています。
竇店鎮の位置。 グーグルマップより引用
ここで簡単に当時の状況を簡単に説明します。
昭和十二年八月三十一日、支那駐屯軍は北支那方面軍となり、第一軍、第二軍の戦闘序列が令せられました。
北支那方面軍の任務は、速やかに河北省の支那軍を撃滅し平津地方を安定確保することでした。
支那駐屯砲兵聯隊が所属する支那駐屯軍の直轄部隊は支那駐屯混成旅団に改編され、北支那方面軍の戦闘序列に編入されます。
北支那方面軍戦闘序列
北支那方面軍司令部
第一軍
第二軍
第五師団
第百九師団
支那駐屯混成旅団
臨時航空兵団
北支那方面軍直属防空部隊
独立攻城重砲兵第一・第二大隊
北支那方面軍通信隊・同鉄道隊・同直属兵站部隊
北支那駐屯憲兵隊
第一軍は琢州附近での敵の捕捉殲滅を考えており、第一軍所属の第二十師団は房山附近の敵へ攻撃を行い強圧を加えることになりました。(琢州保定会戦)
房山附近の地図
房山附近の戦闘
昭和十二年九月十四日、支那駐屯砲兵聯隊長小林大佐は隷下部隊(山砲大隊欠)及び独立攻城砲兵第一大隊、独立攻城砲兵第二大隊、独立攻城砲兵第一中隊を併せた軍直轄重砲隊を指揮することになり第一軍へ配属されました。(命令書には十五日となっていますが、独立攻城砲兵第二大隊等の戦闘詳報には十四日には小林大佐からの命令が通達されています)
軍直轄重砲隊の任務は第二十師団の戦闘に協力することでした。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111005000、第1軍戦時旬報 (第 ~12号) 昭和12年8月31日~12年12月20日(防衛省防衛研究所)」
軍直轄重砲隊
支那駐屯砲兵聯隊(第一大隊欠)
独立攻城砲兵第一大隊
独立攻城砲兵第二大隊
独立攻城砲兵第一中隊
第二十師団作戦経過要図『歩兵第七十九聯隊史附図・附表』より
第二十師団は、房山附近への攻撃開始を十六日払暁と予定していましたが、急遽一日繰り上げとなり十五日に攻撃を開始することになりました。
まだ支那駐屯砲兵聯隊は到着していないものの、軍直轄重砲隊に所属する各部隊は射撃を行い第二十師団を支援しました。
九六式十五糎の到着と竇店鎮への攻撃
翌十六日、第二十師団左翼方面にある竇店鎮において支那軍は頑強に抵抗を続けており、軍直轄砲兵隊は支那駐屯砲兵聯隊第二大隊に対して竇店鎮への射撃を命じます。
第二十師団左側支隊となり竇店鎮の攻撃にあたっていたのは、歩兵第七十九聯隊第一大隊(大隊長:中川州男少佐)でした。
当時、歩兵第七十九聯隊第二中隊所属であった方の回想によると
「友軍の突撃ラッパが一斉に響き渡り、アチコチで歓声が揚がる。第2中隊も遅れてなるまじと「突撃にー進めー」の命令と共に一斉に立ち上がり「ウァーウァー」われ負けじと敵陣へ突入した。破壊された鉄条網を乗り越えた正面には、想像以上の大戦車壕があって、その中には鋭く削った木や竹が埋めてあり、勢い余って飛び込めば魚の串ざしならぬ人間の串ざしに合うところであった。」
「生き残った陣地内の敵トーチカからの射撃で近くにいた戦友が次々に倒れる。中隊の戦死負傷者合せて数十名にも及んだ。」
琢州保定会戦は支那事変における初めての本格的な戦闘であり、歩兵第七十九聯隊は第二大隊長が負傷、聯隊砲中隊長および第三機関銃中隊長が戦死するなど大きな損害をうけています。
支那駐屯砲兵聯隊第二大隊は命令により、良郷南方8kmに位置する七里店附近に放列陣地を占領。九六式十五糎榴弾砲8門は竇店鎮への射撃を開始します。
この射撃によって竇店鎮の一角が破壊され、九月十六日午後四時に中川支隊は竇店鎮へ突入、占領することができました。
その後、琉璃河を擾乱する必要が生じたため8門二中隊の同時斉発を実施。陣地撤去中に敵砲兵から射撃をうけ、第四中隊が夾叉されています。
九月十八日、普及教育にあたった中島少佐は長辛店を出発、帰途につきます。
報告書には教育の成果として「房山附近ノ実戦参加ニ徴スルニ新十五榴ノ操砲並之カ取扱法ハ普及徹底シ火砲ノ能力ヲ十分発揮シ得ルモノト確信セリ」と書かれています。
おまけ(支那事変の水陸両用戦車)
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111005000、第1軍戦時旬報 (第 ~12号) 昭和12年8月31日~12年12月20日(防衛省防衛研究所)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/SRII
コメント
大変面白く拝見させて頂きました、有難うございます豊かな実りを愛する人!
些細な出来事や引っ掛かりに疑問を持ち、積極的に調べる姿勢に感服させて頂くと共に、最後の水陸両用戦車のwikiで軍上層部がばっさり斬られてるのに笑いました。技術開発目的かもしれないから(震え声)
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRmxGRxWCOd6mQ8TzOVV9f2B1Kh2IVrKl-Akw&usqp=CAU
上の写真みたいに小銃をくっつけて立たせるやつは
用語的に何で言うのでしょうか?
英語では rifle stacking とか rifle pyramid と言うらしいのですが
当時の陸軍がなんと呼称していたのか、もしご存知でしたら教えて頂けませんか?
最近このことが気になって眠れません
叉銃です。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%89%E9%8A%83
ありがとうございます
牽引車が無い?6輪の高射砲牽引車で代用しましょ。
当時の生産力ではあれが限界だったのでしょう。砲身作るのは結構てまですし。
日本陸軍としては使える場所の限られるこの種の重砲をさほど重点的に装備する気も無かったみたいですし。でも十加を止めてこちらに力点を置くべきだったかな。
アウトレンジ出来る火砲は貴重
ラインメタル15センチに96式15が打ち負けてる
対砲兵戦なんて何百発撃って破壊できるのは数門とかですよ… 旧日本軍の火砲を語るスレが非常に詳しいので過去スレを参照してください。
日本軍の資料での暴露した砲兵一門の破壊に要する所要弾数
十加600発/距離8000m
十五榴200発/距離8000m
たかだか8000mでこれなのだから距離がもっとある場合や敵が火砲を深く掘り下げていたりすると何千発と必要になります
実際のところラ式十五榴装備の中国軍砲兵と交戦した部隊の評価で射撃は正確、と言わしめていますが破壊されたのは一門のみです
その後の中国軍との戦いで圧倒的に航空優勢な日本軍がまともな対砲兵戦闘を強いられた数は多くないでしょう。
更に米軍との戦いでは一発撃つと千発お返しが来る…、という状況で火砲を後方に下げ前線の敵歩兵を叩くのが専ら現実的な使用法でした。
ガ島などは飛行場射撃の為に無茶な事をしたりはあったそうですが。
あと射程だけある火砲を持っていても観測手段と観測精度の問題で折角の長砲身が腐ることも多いです。
ソフトターゲットには150mmクラスってそこまで威力半径広がらないし微妙よね。105mmを沢山撃ち込む方が良い。塹壕とか普通に暴露した歩兵とか掩釜を有さない目標に対してはこの辺りが破壊効率ベスト。どっちかというとこっちに注力すべきだったかな、と思う。
ドイツのleFH 18榴弾砲は22000門以上生産してるとある。正に105mmこそ主力砲だったわけだ。
日本はそれすらも無かったわけだけどもね。
現代では105mmは空挺部隊や山岳部隊といった持ち込める装備の重量に制約を受ける部隊で使われるだけになっている
日本やフランスのように105mm榴弾砲を全廃したところもある
機動戦の時代になり暴露した人馬に対する射撃のウェイトが減った時代だからね。中途半端な105mmが割を食うのは当然だよ。
そしてソフトターゲットの制圧は今や師団砲兵としても運用されつつある120mmや、あとは81mmといった各種迫撃砲が主に担ってるだけ。
オマハビーチで米軍が浴びせられた砲火も105mm榴弾砲と迫撃砲だよ。
150mmクラスは堅固な野戦築城破壊用であって、ソフトターゲットに対する制圧効率は微妙だしそこまで期待されていないのよね
もともと日露の頃の十五榴なんて破甲榴弾しかなかったぐらいだしね
ドイツ軍の例から言うと15センチ榴弾砲1に対して10.5センチを5の比率で生産してる
したがって比率的には日本軍に不足してたのは師団砲兵レベルの直協火力の方なんだよ
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