千歳型水上機母艦 盛られ過ぎた個性に隠されたその素顔
文:烈風改
千歳型はどのような艦なのかを簡潔に示すのが難しい艦種ではないでしょうか。「甲標的母艦を偽装するために水上機母艦を装って建造された」「空母への改装候補としても考慮されていた」という断片的な印象が“公約数的”な認識かもしれません。
■千歳型の建造経緯
千歳型の建造背景としては、二つの要素が考えられます。一つは上海事変における水上機母艦の活躍です。
昭和7年の第一次上海事変は初の航空母艦2隻(加賀・鳳翔)からなる空母部隊のデビューとなった戦闘でしたが、この時大きな活躍を見せたのは水上機母艦の能登呂でした。沿岸部から離れた外洋で行動する航空母艦は天候の影響を受けやすいのですが、沿岸や湾内で水上機基地を展開する水上機母艦は地上部隊とより密接な連携が可能であり、能登呂の搭載機は地上支援に大きな役割を果たしました。この実績を受けて、昭和8年に特務艦(運送艦)神威が水上機母艦に改装されており、水上機母艦に対する需要は高まっていたと見なせます。
もう一つの要因は当時フランス海軍が送り出した新機軸の水上機母艦コマンダン・テストの存在です。
当時の水上機母艦は、事実上「水上機基地設営艦」でしたが、フランス海軍が昭和7年に竣工させた新鋭水上機母艦コマンダン・テストは艦隊に随伴し搭載水上機による支援を行うという新しいコンセプトの艦でした。
当時、日本海軍で構想されていた艦隊決戦では戦艦、巡洋艦に搭載される水上機は弾着観測や艦隊上の制空権確保等の任務に充てられる予定だったため、その保守・整備や、機体の回収のための艦隊随伴型の水上機母艦が必要とされたのは自然だと思われます。
これらの要因により、②計画の初期案に千歳型の直接の源流となった「九〇〇〇トン型水上機母艦三隻」がアサインさたと想定されます。
また②計画における建艦計画は、アメリカ・イギリス海軍との兵力比率に厳しい制限が加えられた「ロンドン海軍軍縮条約」を(表向きは)遵守しつつ実戦力差を縮める、という命題が課せられた極めて異質なものでした。
この結果、検討された艦艇は「巡洋艦の砲力を備える空母」、「緊急時には空母改装可能な補助艦艇」…とキワモノ構想が並び、この“新造水上機母艦”にも様々な思惑が集中することになります。
■甲標的母艦
ロンドン条約対策のための様々なアイデアが海軍各部署で構想されましたが、並み居る新構想の中でも特に異彩を放ったのは、酸素魚雷プロジェクトを成功させた水雷開発の名プロデュサー岸本鹿子治大佐が昭和6年末より構想していた超小型潜水艦「特殊潜航艇」による敵主力部隊への雷撃案でした。
後に「甲標的」と呼称される小型の潜水艦30数隻を敵主力部隊の前面に撒き、決戦時に雷撃を行うことで戦艦同士の戦闘を支援し、アドバンテージを得ようという戦術構想です。
甲標的は当然敵主力の前面まで自力航行は出来ませんので、そこまで運ぶための母船が必要となります、この母船任務を割り当てる先として考えられたのが計画中の新造水上機母艦でした。
②計画が商議された時点で、甲標的は未だ試作艇の無人実験すら開発されていない段階でしたが、計画されていた3隻の水上機母艦の内2隻を改装により、甲標的母艦とすることが早くも決定されています。
性能の確認も取れていない段階でのこの待遇は、商議の前年にこの構想を伏見宮博恭軍令部総長の所へ直接持ち込むという異例の“直訴”的な手法で開発請願を行い、内意を得たことがことが大きく影響しているのかもしれません。
千歳型に30ノット近い速力が与えられたのはこの時で、20数ノット程度の米主力艦に先回りしてその進路上に甲標的を撒く必要性からでした。
■追加される構想
続出する様々な艦隊決戦用アイデアに対して建艦隻数は限られるため、千歳型にはそれらの構想が次々と盛られることになりました。
甲標的構想と前後してさらに次のようなプランが導入されています。
・帰着甲板
これは水上機の回収だけでなく、なんと艦上機の回収任務も行うためのものでした。
当初の計画では長さ40m程度の甲板構造物を20mの間隔を開けて2基配置しておき、有事の際は間を繋げて100mの帰着専用甲板として運用する予定だったようです。
現在の目で見ると少々信じ難い面もありますが、後の瑞鳳型の着艦区域も同程度の長さのため、空母不足を補完する手段としてそれほど荒唐無稽な話でも無いようです。
ただし連続収容は不可能なため、少数機の緊急収容的な目的であったと思われます。これは推定ですが、運用実績次第によっては発艦はカタパルト、着艦は帰着甲板、といった似非空母的なことも考えられていたのかもしれません。
一部書籍には、この甲板を空母改装時の飛行甲板の一部とした、という主旨の内容が掲載されていますが、後の空母改装時の飛行甲板とは高さが異なるため事実ではないようです。
・給油能力
②計画から③計画にかけては決戦海面がマーシャル方面に前進する過渡期でもあり、根拠地より決戦海面が離れるにつれ、主力部隊に随伴できる高速タンカーの必要性は高まりました。千歳型の給油性能はこのような背景から追加されたものと思われます。艦隊に随伴可能な高速タンカーというコンセプトは同じ②計画の空母予備艦・剣埼型の第一形態でも採用されており、艦隊専用高速タンカーに対する要望は、10年以上も後の未成重巡伊吹改装案として検討される等、以後も度々再燃することとなります。
このように千歳型は元々の水上機母艦という性能に加え、甲標的母艦、給油性能、艦上機回収機能も附加されるという状況で、艦隊決戦に特化した「奇策のデパート」といった様相を呈しつつありました。
(後には空母や潜水母艦への改装も企図されるという、まさに十徳ナイフのような軍艦でした)
そして、特徴的なのはこれら全ての仕様を同時に実現しようとしていた点です。
例えば、第二状態である甲標的母艦に遷移しても水上機母艦の能力を失う訳ではなく、搭載数が半減するだけで、甲標的と水上機の母艦を両方兼ねる形態となる予定でした。
この構想は、昭和10年に作成された戦時編制案にも見られ、第一艦隊にある「千歳」「千代田」が配属された部隊は甲標的部隊ともとれるのですが、記載内容から、水上機による急降下爆撃部隊の母艦であることも示唆されています。
帰着甲板も甲標的積込ハッチへの積込操作時に必要な高さから決定されており、甲標的母艦としての機能を阻害しないように考えられ、給油能力も甲標的母艦となった場合でも水上機母艦時と比較して半減するだけで失われる訳ではありません。
このあたりが、同じ②計画で空母予備艦として給油艦や潜水母艦から小型空母へと完全に形態を変化させる高崎型と異なる点です。
■失われゆく存在意義
多数のアイデアを(半ば無理矢理)盛り込んだ千歳型ですが、②計画の多くの艦がそうであったように、起工前に生起した友鶴事件により復原性改善を迫られることとなりました。
この結果千歳型は艦型を縮小、重心上昇の原因となっていた帰着甲板用の構造物は1基に半減され、実質的な意味は早くも失われてしまいます。
(以後は機銃甲板となり。相撲大会では土俵が置かれる等活用されたようです)
また竣工後、千歳型の秘匿構想の目玉であった甲標的計画も、母艦からの発進性能は申し分問題無かったものの、肝心の甲標的は外洋での運用が困難であることが露見してしまいます。最終的には決戦海面での待ち伏せでは無く、潜水艦に搭載されて泊地強襲を行う方向へと運用方針が大きく転換され、結果として“甲標的母艦”は作戦上の必要性を失ってしまいます。
さらに決定的だったのは。開戦後の海上戦闘の様相が一変したことでした。空母中心の機動部隊による戦闘が海戦の主流となり、戦艦同士の砲撃戦“艦隊決戦”は生起し得ないことが確実となり、艦隊決戦に特化した秘密兵器である千歳型の存在意義そのものが失われてしまったのです。
このため、想定されていた立ち位置を失った千歳型はミッドウェー海戦直後に起こった空母不足に際して、小型空母への改装が決定されました。
■予期せぬ空母化
千歳型は、開戦前の資料からは航空母艦への改装を企図していた形跡は見られません。
戦前の編制案でも空母予備艦である大鯨や高崎型が改装空母として扱われているのに対して、千歳型は水上機母艦(若しくは搭載機が半減した甲標的母艦)として水上機の搭載記載があるのみとなっています。
戦後の艦政本部側の資料には「空母としての必要な速度を確保することに配慮した」という記述もありますが、前述のように、30ノット近くの速力は甲標的母艦としての任務を遂行するために付加されたもので、空母改装のための配慮とは言い難いでしょう。
甲標的母艦としての運用のため、30ノット近くの速力を具備としていたことと、全長200m近くという船体規模が空母予備艦としての適性に合致していたことが、千歳型を空母候補艦たらしめたのではないでしょうか。逆説的には、この条件を満たせる艦は潜在的な“空母予備艦”の資質を備えているとも言えます。
開戦直前は、新鋭機の運用には支障の多い小型空母に対して航空本部は及び腰でしたが、進攻作戦継続には空母が不可欠であり、比較的短期間で改装可能な小型空母が志向された背景が有ったのかもしれません。
また、結果論ではありますが、千歳型の空母改装への評価は難しい面もあります。ミッドウェー海戦後に行われた改装計画で唯一マリアナ沖海戦に間に合わせることが可能で、空母勢力の増強に貢献したという点は事実ですが、一方で新鋭機の使用に大きな制限がある小型空母は、運用に制約があるため戦法や搭載機の工夫をしなければならず、その効果は改装のコストや後述するような多目的高速輸送艦二隻を潰したものと釣り合ったのかという疑問は残ります。
■意外な才能
千歳型が想定外の活躍をしたのは、前述の空母改装が決定した後に生起したガダルカナルを巡る戦いでした。
“敵制空権下の島嶼への強行輸送”を強いられた戦場で、千歳は準同型艦である日進と共にガダルカナル島への輸送作戦に急遽投入されました。
広大な格納庫を備え、クレーン等自前の揚筒設備を持つ(大小デリックを7基も搭載していた)千歳型は整った港湾設備の無い前線基地でも搭載物件の積み下ろしを自力で行うことが可能で、まさにこの任務にうってつけの存在だったのです。
低速な輸送船や搭載能力の限定される駆逐艦では輸送が困難な重火器や車両の輸送に千歳と日進は大きな実績を残しました。
この実績が評価され、後にこの千歳型とその準同型艦が内在させた特性を引き継いだ艦種があります、それは一等輸送艦型です。自前のデリックを持ち、甲標的の後部スリップからの発進も可能な一号輸送艦型は、やや低速ながら輸送能力に焦点を当てダウンスケールした千歳型と言えるのではないでしょうか。
■千歳型はどのような艦だったのか
このように千歳型は艦隊決戦構想に併せて計画された複合支援艦の役割を期待された艦でした。しかし、実際に建造されたハードウェアの特質とはどのようなものだったのでしょう。
②計画時の艦政本部資料には、その明快な回答を記載したものが有ります、この資料では千歳型の艦種は「運送艦」となっているのです。
これは甲標的の運送艦という意味として捉えることが妥当ですが、千歳型とその準同型艦の役割を端的に示しているように思えます。
千歳型は運用構想が多岐にわたるため、その実態が把握し辛い面がありますが、水上機、甲標的、重油等を“輸送”するという形態に特化した、多用途高速輸送艦というのが、その実態ではないでしょうか。
<著者紹介>
烈風改
帝国海軍の軍艦、特に航空母艦についての同人誌を多数発行。
代表作に『航空母艦緊急増勢計画』
Twitter: https://twitter.com/RX2662
コメント
日進はソロモン戦役では事実上、日本海軍唯一の高速輸送艦でしたね。戦車や重砲を運べる高速艦は日本海軍にこれしかないので地味ながら大活躍。沈んだときも八九式中戦車を載せてたとか。
現代の支援艦艇に当て嵌めてもかなり便利な存在だわ
対艦能力はないけどいずも型に近い物を感じますね
どっかのDDHもびっくりのスペックで吹いたw
こちらも大重量装備輸送艦としての才を見出されてる
それなりの速度、モノ積める、やたらと軽油積める、水上機もかなりいけるで重宝したわ
地味だったけどお気に入り
物量でカバーするから不要なのかな。
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