ソ連軍の秘密戦史15
U-2事件の後


文:nona


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https://www.cia.gov/news-information/featured-story-archive/2010-featured-story-archive/cia-and-u-2-a-50-year-anniversary.html
モスクワにてU-2の残骸を見学するフルシチョフ第一書記

 1960年5月1日、ソ連領内を偵察していたU-2が消息をたったことで、米国は用意されたカバーストーリーを発表します。

 これはNASAに雇用された元空軍籍の民間人が操縦する気象観測機が、ソ連に迷い込んで行方不明になった、というものでした。

 国務省のスポークスマンは「ソ連の領空を侵犯しようという故意の試みはなかった。なかったといったらなかった。過去にもなかった」と三度も否定を重ねますが、これはソ連に批判の口実を与えることになりました。

 5月5日、フルシチョフはU-2撃墜について言及し、同機の領空侵犯を5月16日のパリにおける東西首脳会談を破綻させるための挑発だ、と非難しますが、この時点でも米国はカバーストーリーの正当性を強調しました。

 米国は、ソ連がスパイ飛行の証拠品となりうる偵察機器とパワーズの身柄を確保していながら、あえて言及していないことに、気づかなかったようです。

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commons.wikimedia.org/wiki/File:RIAN_archive_793499_Exhibition_of_remains_of_U.S._U-2_spy-in-the-sky_aircraft.jpg?uselang=ru
U-2の残骸を見学する外国人の一団。U-2によるスパイ飛行と撃墜の成功は世界中に宣伝され、説明版にはロシア語と英語が併記された。


 そして5月7日、フルシチョフは満を持して、残骸から回収したフィルムからソ連領内の写真が現像されたこと、パイロットの生存と身柄を拘束していること、彼が自決用の毒針を持っていたことなどを挙げ、スパイ活動の動かぬ証拠として突き付け、嘘を重ねる米国を徹底的に批判しました。

 他方、フルシチョフはアイゼンハワー大統領に対しては一定の配慮を見せ、ソ連への領空侵犯が軍と資本家の暴走により大統領の知らぬところで行われたと、彼を庇います。

 米国のハーター国務長官も、U-2のフライトは大統領の承認を得ていないと述べますが、実のところ、U-2によるソ連への領空侵犯は大統領の許可をうけて行われていました。

 5月11日、アイゼンハワー大統領は政府が何年も前からソ連の偵察していたことを公表。

 その理由について「誰もパールハーバーの再演を望まない。これはわれわれが世界の、とりわけ大規模な奇襲攻撃を行い得る国に関して、軍事力と即応状態を知っていなければならないことを意味する」と語り、ソ連に対する偵察を正当化しました。

 予定されていたパリの国際会議では、フルシチョフが米国に謝罪を求めたものの、アイゼンハワーはU-2による再度のソ連侵入はないと公言はした一方で、謝罪は拒否したことから米ソの会談は1日で終了。

 前年のフルシチョフ訪米時に漂っていた冷戦の雪解けムードは一気に後退しましたが、米国世論ではアイゼンハワー大統領を擁護する声が多く、政治上の汚点とは見なされなかったようです。


偵察衛星とU-2

 パワーズがモスクワにて軍事裁判にかけられていた1960年の8月18日、米国が打ち上げた偵察衛星ディスカバラー14号が、初めてソ連領内の偵察に成功。

 ほどなくしてソ連軍の保有する発射可能なICBMが4発にすぎないことが判明。米国はボマーギャップが幻だったことに気づきます。

 1機の衛星がもたらす情報は、これまでにU-2がソ連で撮影した航空写真の総量を上回っていた、と言われますが、U-2が不要のものとなったわけではなく、ソ連の国境付近における偵察(ソフトタッチ)は継続され、中国やキューバに対する領空侵犯は継続されました。

 これは偵察衛星では情報の即時性に問題があったことなどが関係しているのですが、これによりU-2とS-75の戦いも続くことになり、特に中国内では5機のU-2が撃墜され、うち4機の残骸が回収されて一般に公開されました。

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http://ivak.spb.ru/aviation/strelba-o-kotoroj-zapretili-govorit.html
中国でS-75により撃墜されたU-2の残骸。高度2万m以上から落下したにもかかわらず、概ね原型をとどめている。


ソ連版U-2?

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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Yak-25RV-2008-Monino.jpg
Yak-25RV


 実はソ連でもU-2のような高高度偵察機の要求があり、1950年代にYak-25の主翼を改造したYak-25RVが開発されています。

 同機はU-2撃墜後の1961年に生産が開始されたものの、実用上昇限度は2万1千m、航続距離は増槽なしで2100kmと性能でU-2に劣る面があり、ソ連も同機が撃墜され外交スキャンダルに発展することを恐れたのか、積極的な領空侵犯は行わなかったようです。

 一方、防空軍から同機を対高高度機の訓練用に用いたい、との要求がありYak-25RV-Ⅰという遠隔操作式の無人標的型が少数生産されています。

 同機の操縦は、低空の伴走機からリモコンで行う面倒なものでしたが、人員と偵察機材を積んでいないことで機体が軽量になり、より高高度を飛行できました。

 また、対立を深めていた中国の核実験を察知するため、大気サンプルの回収を目的としたYak-25RRというバリエーションもあります。(米国がソ連の核実験に初めて気づいたのも、こうした大気サンプルの分析によるものでした)


世界各地におけるソ連偵察機の活動

 1960年代の半ば、ソ連は偵察衛星「ゼニット」を実用化したものの、1967年の第三次中東戦争においてソ連はイスラエル軍の先制攻撃を察知できず、友好関係にあったアラブ連合は敗北を喫しました。

 この反省から局地的な情報を即時に取得できる偵察機の重要性が再認識され、消耗戦争においてはソ連人パイロットが操るMiG-25Rがイスラエルへの強行偵察を繰り返しますが、時としてマッハ3を超えて飛ぶ同機が撃墜されることはありませんでした。

 1960年代に日本の近辺でも、高高度機は空自に探知されることがあり、F-104J戦闘機のパイロットであった菅原淳氏は日本海から東シナ海に入ろうとする高高度偵察機(Yak-25RV?)の迎撃に上がった経験があります。

 とはいえ、Su-9でU-2の迎撃に向かったメンチュコフ大尉と同様に、与圧服を着込む猶予は与えられず、そのうえで迎撃管制官はズーム上昇の準備を指示した、といいます。

 一応F-104Jにはコックピット内も与圧されているわけですが、何かしらのトラブルで気密が失われた場合、菅原氏は危険な状態に置かれます。

 後になって管制官は間違いに気づき菅原氏に謝罪したとのことですが、戦闘機による高高度対応の緊迫性と、そのやり方の危うさは日ソ共通のものだった、と言えるかもしれません。


参考
U-2秘史 ドリームランドの住人たち(浜田一穂2019年9月1日)
世界の傑作機 No.159 ヤコヴレフYak-25Yak-28(文林堂編 ISBN978-4-89319-224-0 2014年3月)
寝返ったソ連軍情報部大佐の遺書(オレグ・ペンコフスキー著 フランク・ギブニー編 佐藤亮一訳 ISBN08-760246-3 1988年12月20日)
トップガン奮戦記(菅原淳 ISBN978-4-87149-391-1 2002年6月3日)