ソ連軍の秘密戦史14
不幸なパイロットたち


文:nona


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https://militaryarms.ru/voennaya-texnika/aviaciya/istrebitel-mig-19/
MiG-19「ファーマー」ソ連発の超音速機。戦闘時重量であれば推力重量比は1を超え、上昇性能でMiG-21を上回った。当初は防空軍へ優先配備されたが、後には前線空軍機としての運用が主となった。

最も不幸なパイロット

 1960年6月1日、ソ連領に侵入したU-2偵察機の撃墜に成功したスヴェルドルフスクのS-75連隊ですが、メーデー休暇による欠員のためか、なぜか撃墜の報告が隊内で共有されておらず、スヴェルドルフスク北東のモネトニにあるS-75サイトは、空中を飛ぶ不明機を追尾し続けていました。

 連隊本部もP-12捜索レーダーでモニターしていたものの、これが味方の戦闘機でないと判断したため、サイト指揮官のシュトルコ少佐は3発のV-750ミサイルの発射を命じました。

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googlemapに表示されるシュトルコ少佐の部隊と思われるSA-2が配備されていたサイトの跡地

 ところが、この不明機の正体はU-2を迎撃するために出撃していた2機のMiG-19でした。

 編隊長のアイバジャン大尉は、管制官が突然「急いで高度を下げろ!」と指示したため、高度数百mまで一気に急降下。

 大尉はV-750の航跡を認めつつも間一髪で難を逃れますが、不幸にも僚機のサフロノフ中尉機が被弾し、郊外の公園に墜落しました。

 中尉は脱出したものの、すでに死亡していました。空中に漂う赤白二色のパラシュートは、地上に降り立ったパワーズも目撃しており、彼を囲んでいた現地人に「あれは仲間か?」という旨の質問をうけた、とのことです。


隠蔽された誤射事件

 この誤射事件に関する国防大臣あての報告書によると、U-2を撃墜したボロノフ少佐のサイトが連隊本部に撃墜を報告しておらず、連隊も友軍機の存在を認識していなかったため、シュトルコ少佐は誤った情報で戦闘したことが原因、としています。

 また、MiG-19の存在をミサイル部隊に伝えず、迂闊にS-75の有効範囲内に同機を誘導した管制部隊にも問題があったとも言え、もともと防空軍の戦闘機部隊と地対空ミサイル部隊の連携の疎さに、メーデー休暇による欠員が加わり、このような事故が起きた、という見方もできるようです。

 この事件の直後、U-2撃墜に貢献した21名が表彰をうけ、サフロノフ中尉には赤旗勲章が与えられたものの、彼が殉職したことは公にされませんでした。

 一方MiG-19を誤って撃墜したシュトルコ少佐ですが、事故を隠蔽するためか、彼も表彰の対象となっています。

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http://www.vladregion.info/news/1-maya-2010-goda-samoletu-mig-31-bylo-prisvoeno-imya-sergeya-safronova-nashego-zemlyaka
サフロノフ中尉。


囚われの飛行士

 U-2の飛行士であるパワーズは脱出の直後に身柄をおさえられ、その日のうちにモスクワのKGB本部に連行されました。

 ペンコフスキー大佐によると、ソ連ではパワーズを軍人とみなしており、ゆえに彼の身柄はGRUが預けるべきだったのですが、KGBが横取りした、としています。

 また、KGBには英語でパワーズに尋問できる要員がおらず、事件当日のGRU当直将校だったペンコフスキー大佐自身が彼を尋問する可能性もあった、としています。

 結局のところ、パワーズの尋問もKGBが担当したのですが、通訳を介すために間延びしたものとなり、質問を畳みかけて矛盾を暴くテクニックが使われなかったことは、パワーズに幸いしました。

 彼は米国への忠誠をつくすべく、可能な限りU-2の秘密をもらさないよう努めていたのです。


ソ連での監獄生活

 パワーズの軍事裁判は8月17日にはじまり、禁固3年と労働刑7年を科され、翌月にKGB所管のウラジミール中央刑務所に収監されました。

 この時期のソ連は、自国の寛大さを国内外にアピールする意図もあり、スターリン時代の過酷な刑罰は廃止され、囚人生活もある程度は改善されていました。

 また、パワーズは外交カードとして扱われていたようで、米国から金銭や生活用品の差し入れが認められ、彼の求めにより英語を解する囚人(スパイ罪で捕まったラトビア人)との相部屋を許されるなど、待遇は悪いものではなかったようです。

 パワーズが獄中で得られる情報には制約があったものの、左翼系であれば西側の新聞も閲覧を許され、ケネディ大統領の就任もそのような情報源から得ていました。

 ちなみに共産党機関紙のプラウダは煙草の巻き紙として、仏共産党の某機関紙はトイレットペーパーによい、とのことですが、いずれにしても思想教育の類を強要されることはなかったようです。


パワーズは洗脳されたのか?

 パワーズの監獄生活が1年半ほど続いた後、ジェームス・ドノバン弁護士の仲介による両陣営の捕虜交換がベルリンでとり行われ、1962年の2月10日の朝、ポツダム地区のグリーニッカー橋で彼は釈放されました。

 彼を釈放するにあたり、KGB要員は、これまでとはうってかわって柔和な態度を見せ、わざわざソ連土産(マトリョーシカやスプートニクの模型など)まで持たせるなど、客人として彼を見送っています。

 他方、パワーズの雇い主だったCIAは、彼がソ連による洗脳をうけ二重スパイされたことを警戒し、帰国直後に発見器による検査を含む長時間の尋問を行いました。

 先の朝鮮戦争では共産軍が国連軍の捕虜を「洗脳」し、帰国後に彼らが反米、反資本主義的な言動を繰り返す例がありました。

 パワーズが撃墜される前年の1959年には、リチャード・コンドンという作家が、朝鮮で洗脳をうけた政治家の息子が大統領候補の暗殺を試みる、という小説まで出版されたほどでした。

 とはいえ、彼が米国のために危険を冒した英雄だと評価する声もあり、米上院の軍事委員会(後に空母の艦名として名を残すステニス議員らが参加している)に召喚された際には議員達から公式に称賛をうけ、その拍手は数分にわたって続きました。


参考

U-2秘史 ドリームランドの住人たち(浜田一穂2019年9月1日)
寝返ったソ連軍情報部大佐の遺書(オレグ・ペンコフスキー著 フランク・ギブニー編 佐藤亮一訳 ISBN08-760246-3 1988年12月20日)
Воздушная баталия над Уралом ウラルを巡る空中戦(Анатолий Докучаев 2002年5月17日)