ソ連軍の秘密戦史12
メーデーの追跡戦
文:nona
https://en.wikipedia.org/wiki/File:OperationGrandSlam1960.jpg
1960年5月1日のフライトでU-2が飛行する(はずだった)経路。途中で撃墜されなければ、ソ連を縦断した後、ノルウェーに着陸する計画だった。
グランドスラム作戦
1956年に始まる米国のU-2によるソ連への深部偵察は、ソ連側の抗議によって中断することはあったものの、撃墜に至ることがないためにほとぼりが冷めると再開され、1960年の4月26日には23回連続での侵入に成功しています。
これに続く24回目のフライトでは、中央アジア・ウラル山脈・ムルマンスクを経由し、ノルウェーに着地するコースが計画されました。全航程は6100km、うち4700kmがソ連領空内を飛行することから、燃料を節約するために直線的なコースが多く、これには進路を先読みされる危険がありました。
任務の困難が予想されたことから、U-2パイロットとして操縦経験が豊富なフランシス・ゲイリー・パワーズが選ばれました。彼は1度だけソ連内を飛んだこともあります。
彼の乗機には、トルコ分遣隊に配備されていたU-2C S/N56-6693 360号があてられます。同機は前年9月に日本の神奈川藤沢飛行場に不時着した通称「黒いジェット機」として知られますが、トルコへの再配備時には燃料系統に少々の不調があったようです。
作戦名としては「グランドスラム」という名が与えられました。この言葉は野球の「逆転ホームラン」あるいはテニスの「4大会制覇」を意味する勝利の言葉ですが、ここに少しばかりの慢心がみられます。
このグランドスラム作戦、当初の予定では4月中に実施されるはずだったのですが、ソ連内の天候不良により延期を繰り返しており、作戦を許可したアイゼンハワー大統領は中止を望んでいました。
これは5月に予定されるフルシチョフ第一書記との国際会議への影響を考慮したためですが、CIAにおけるU-2計画の最高責任者であるリチャード・ビッセル作戦局次長の訴えもあり、天候の回復した5月1日に実行されました。
CIAの不安
CIAはU-2の飛行を強行したわけですが、他方では同機がいつまでも無敵でないという認識はあり、地対空ミサイルS-75ドヴィナー(SA-2ガイドライン)の存在を特に警戒していました。
S-75は従来の高射砲に代わって、1958年に配備が開始された大型の地対空ミサイルシステムであり、1959年10月7日には中国に供与されたS-75により、台湾から発進したRB-57偵察機が北京の近郊で撃墜されています。
RB-57は英国のキャンベラ爆撃機を高高度偵察機に改造されたもので、最大高度はU-2には及ばないものの、19500mに達していました。CIAの空軍技術諜報センターは「十分な警報時間を与えられたSA-2サイトは高度7万ft(21336m)の迎撃に成功する可能性が高い」と分析しており、U-2が既知のミサイルサイトに近づかないようコースが選定されました。
サイトの捜索には従来のヒューミントも活用され、1959年7月にニクソン副大統領がソ連各地を訪問した際には、その随員が都市のミサイルの配備状況を調べていたようです。
U-2の発進
https://www.cia.gov/news-information/featured-story-archive/2010-featured-story-archive/cia-and-u-2-a-50-year-anniversary.html
U-2偵察機
1960年5月1日午前6時、極秘裏にトルコからパキスタンのペシャワールへ移動していたU-2が離陸し、北へ向かいました。
同機はアフガニスタン上空に達したところでソ連防空軍のレーダーに探知され、夜明け前のモスクワへ通報されました。
マリノフスキー国防相は就寝中のフルシチョフを電話で起こしますが、フルシチョフは「侵犯機の撃墜をすでに命令している」「もし対空部隊が惰眠をむさぼっておらず、目をちゃんと見開いているのならば、その飛行機を撃墜できるはずだ」国防相からのモーニングコールに皮肉を返します。
とはいえ、彼も同様の報告を4年前から何度も聞き続けていたわけですから、苛立ちは相当のものだったはずです。
ソ連内には迎撃機以外の航空機を全て着陸させる「カーペット」という指令が発せられ、U-2の追跡と迎撃機の管制に万全の措置をとりました。
U-2がソ連領に侵入したところでソ連防空軍は次々と迎撃機を繰り出し、ウズベキスタンのタシケント上空に至る500kmの間に、パワーズは13もの迎撃機による飛行機雲をドリフトファインダーごしに認めますが、これまでと同様にU-2に届く機はありませんでした。
https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/197569/old-design-young-airplane/
初期のU-2のコックピット。コンソール中央上部に「ドリフトファインダー(ドリフトサイトとも)」が装備されている。
U-2 ユーティリティ・フライトハンドブック(1959年3月1日)より
ドリフトファインダーの構造図。機首上面と下面についた潜望鏡を右手のハンドレバーで操作し、与圧服を着たまま機外の様子を視察できた。
稼働率の低い最新兵器
一方、U-2を撃墜しうる能力をもつとされたS-75部隊も、当初は撃墜の機会を逃しています。
この頃には中央アジア地域にも一定数のS-75が配備されていたようですが、タシケントのS-75のミサイルサイトでは警戒態勢がとられておらず、チュラタム試験場(バイコヌール宇宙基地の別名)においては、1個のサイトがメーデー休暇によって隊員が帰郷していたことで休止状態になっており、その上空を飛んだU-2は悠々と地上を撮影し、ソ連領の奥深くへと飛び去りました。
のちにマリノフスキー国防相は「領空侵犯が偶発的な航法ミスだという言い訳できないよう、わざと偵察機をソ連の深部に招き入れた」という旨の声明を出したのですが、実のところ、初動対応の失敗をごまかすための嘘だったのです。
googlemapで確認できるバイコヌール基地東方にあるS-75サイトらしき遺構
参考
U-2秘史 ドリームランドの住人たち(浜田一穂2019年9月1日)
世界のミサイル・ロケット兵器(坂本明 ISBN978-4-89319-198-4 2011年8月5日)
ヴィジュアル大全火砲・投射兵器(マイケル・E.ハスキュー著 毒島刀也訳 ISBN978-4-562-05097-0 2014年9月30日)
CIA and U-2: A 50-Year Anniversary Central Intelligence Agency(2010年5月13日 CIA)
U-2 ユーティリティ・フライトハンドブック(1959年3月1日)
コメント
10t爆弾「呼ばれた気がした…」
ドリルミサイル「呼ばれた気がした…」
楽な仕事ではないとはいえ、ソ連からするとU-2は本当に我が物顔で飛び回ってたんだなぁ、と。
あと高々度を飛ぶせいで、みんな航続距離が長いのなんの。
ドリフトファインダーは映画の『13デイズ』で見たような覚えが。
そういえば国防相のマリノフスキーは、大戦末期に満州侵攻作戦の司令官をやっていた人ですな。
今回の事件が発生したのが1960年の5月1日、
ちょうど60年前のことですが
つい最近の出来事のように感じるのが
奇妙なところです。
これはU-2偵察機が現役機であるからでしょうか。
1様
この日にMiG-19で出撃したパイロットは
迎撃に成功する確率は千に一つ、と回想していたようで
内心あきらめの気持ちがあったのでは、と思います。
2様
ありがとうございます。
当初は撃墜のチャンスを何度も逃したS-75(SA-2)ですが
全国配備の速さを考慮すると、第一書記は相当な信頼を寄せていたように
思えます。
3様
ドリフトファインダーというのは面白いアビオニクスですよね。
索敵や監視に加え地文航法と天測航法にも用いたとか。
LM社のF-35戦闘機に搭載されるEOTSの先祖みたいなものでしょうか。
名無しのミリヲタ(ワニ)様
タラーンについては次回の記事で少しだけ取り上げる予定ですが
専用機の存在は初耳でした。
開戦初期のソ連機の弱武装が体当たりの要因のひとつだったらしいので
理にかなっている(?)かもしれません。
5様
戦闘機による体当たりは攻撃は
国や時期を問わず敢行されるのが興味深い点ですね。
同時期の空自や米空軍のパイロットも同じようなことを心に決めていた、
という話も聞きます。
PIAT様
そろそろキューバ危機の記事でも書こうと思い
図書館に13デイズの原作版を予約したのですが
ウイルス騒ぎの煽りで未だに手元に届きません(涙
マリノフスキーといえば
大戦終結後も10年ほど極東で勤務しており
朝鮮戦争時はソ連極東軍の司令官だったそうです。
休戦直前の53年に米軍機が中朝国境で
要人輸送中のソ連機を撃墜した事件では
「米国がマリノフスキーの殺害を狙った」
という陰謀論が今のロシアに残っているそうです。
本の名前は忘れたけど、昔読んだ本に「体当たりのために可能な限り装備を外したSu-9を用意した」という記述があったと記憶しているワニ。ただ日本語WikiのSu-9には「武装が到着していなかった」という記述があるので、単に自分の持っている情報が古いだけかもしれないワニ。
!
そのSu-9は次回の記事で取り上げる予定でした。
同機に関しては資料によって記述が異なり困惑しましたが
ロシアの軍事系webサイト
*ttp://nvo.ng.ru/history/2002-05-17/5_ural.html
に当事者の証言らしき記事があったので
機械翻訳にかけたものを参考にしました。
このSu-9はシベリアのノボシビルスクにあるスホーイの工場から
配備先のベラルーシまでフェリー中だった機体だそうで
事件の前日には悪天候により中間地点のペルミにダイバートしていたようです。
ところが翌朝にU-2が同地に接近してきたために
武装がないまま発進を命じられた
とのことです。
またやらかしてしまってゴメンなさいワニ。しばらく口にダクトテープを巻いてるワニ。
http://drazuli.com/upimg/file17972.jpg
(閲覧ワニ注意ワニ)
同規模のミサイルを1万メートルから発射したら随分と撃墜が容易になりそうだけど
当時はペイロードをそれだけ詰める迎撃機がなかったということなのかな
ズーム上昇して頂点で発射したら2万メートルまでミサイルは上がりそうだけど
重力からはなかなか逃れるのは難しいようで例えば最新のR-37M空対空ミサイルは射程が300-400kmだけどそれでも射高限度が15-25kmだからU-2の最大運用高度27kmにちょっと足りない。
更にU-2を撃墜できたS-75のタイプは2t超えするから仮にmig-31でも現実的なのは1機あたり1発だし前任のS-25は3t超えだからまともな運用は無理。戦域防空ミサイルを防空任務でまともに携行する戦闘機は当時どころか現代でも難しい。
当時の技術で射高10km超えミサイルを運用するとしたら全長10m未満級かつ重量が1発2t超えのそれをぶら下げる訳で航空機搭載運用しようとするとかえって制約が増えるんですな。
ペアで同時にあたればやっと2発になるがぶっちゃけそこまでやるくらいなら素直にSAMの射高増強のほうが...。
同じ事ソ連もやってたような。
旅客機に下を見る航法室があってよくコースを外れたってやつ?
実際どうなんだろうね
あぁソレソレ!思い出した!
噂話程度のソースだからうる覚えだったんだなぁ。
本当の所どうなのかはわからないけどやっててもおかしくないし、確かめようがないね。
まあ高官が乗ってるから手出しできないし、民間機として日本にも来てたし喉から手が出るほど情報が欲しいならなんだってするよね
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