ソ連軍の秘密戦史11
ボマーギャップとミサイルギャップ(後編)
文:nona
https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/197573/u-2-mission/
U-2が撮影したチュラタムのR-7の発射場
ソ連のICBM保有
1957年8月21日、カザフスタンのチュラタム射場(バイコヌール宇宙基地)からR-7型ICBM(NATO名をSS-6サプウッド)が発射され、カムチャツカ半島までの6000kmにおよぶ弾道飛行に成功します。
これは4度目の試みであり、弾頭は再突入時に焼損したともいわれますが、ともかくフルシチョフ第一書記はICBMの試射成功を称賛しました。ただし、米国社会ではICBMという未知の新兵器に実感がわかず、重大な出来事だとは認識されなかったようです。むしろ同年10月4日に打ち上げに成功した人工衛星スプートニク1号による地球の周回のほうが大きく騒がれました。
この騒動の1年後である1958年の12月、フルシチョフは「ソ連ではICBMが大量生産に入っている」と発表し、当時開発中だったR-7Aを指し「ソ連は5メガトンの核弾頭を1万3000キロ投射できる」と宣言。
もっとも、この言葉はフルシチョフによるブラフであり、R-7とR-7Aの実戦配備が始まったのは1960年で、その数も4発程度に過ぎなかったのです。
ミサイルの仕様にも問題があり、酸化剤に液体酸素を使用するため発射準備に時間がかかる割に待機状態が短く、R-7に関しては上昇中の姿勢制御のために地上に一定間隔で設置された無線誘導装置が必要で、発射できる方角に制約があったようです。
ミサイル・ギャップ
ただ、どういうわけか米政府は公式の国家情報推測で「1959年にソ連はICBMを10発保有し、60年に100発、61年に500発に達する」と発表し1959年に入ってマケルロイ国防長官は「1960年代の初めにソ連のICBM兵力はアメリカに対して3:1の優位に立つ」と発言します。
米国は欧州に同盟国の基地からPGM-17ソーのようなMRBMを配備できるうえ、ソ連を上回る量の大陸間爆撃機を保有しており、見方によっては米国の核戦力がはるかに優勢と言えるのですが、米政府の高官までもがフルシチョフの嘘を追認するかのような発言をしたために、米国内の「ミサイルギャップ」論争は大きく盛り上がりました。
国防省、特に空軍とつながりのある高官は、ボマーギャップの実態を探るために、U-2による対ソ偵察飛行の再開をアイゼンハワー大統領に訴えます。
ソ連防空軍はすでにU-2を継続探知する能力を持っており、偵察飛行を再開すれば米国が批判をあびるのは確実と思われたのですが、アイゼンハワー大統領はこれを認めざるを得ませんでした。
U-2の偵察再開
U-2 ユーティリティ・フライトハンドブック(1959年3月1日)より
U-2のマニュアルに挿入されたU-2のイラスト。米国では機体に愛着を持たせるため兵器をキャラクター化させることがある。
1959年7月7日、トルコに派遣されたU-2分遣隊は極秘にパキスタンに移動し、早朝にペシャワールを離陸、アフガニスタンを経由しソ連の中央アジア地域に侵入しました。
このフライトではカザフスタンのサルィシャガン特殊兵器試験場、セミパラチンスク核実験場、Tu-95爆撃機の配備先であるドロン基地、ウラル南部の軍需工業地帯、ウラル西部のスヴェルドルフスクにある工業地帯、チュタラム射場を偵察し、親米政権下のイランに着陸する、計9時間30分におよぶ欲張りなコースが選定されました。
この時チュタラムでは月探査機ルナ2を搭載した改造型R-7が発射台に設置されており、偶然にも撮影に成功しています。
本心を隠したフルシチョフの平和攻勢
U-2による中央アジア偵察作戦が行われた頃、モスクワのソコルニキ公園では「アメリカ博覧会」が開催されており、7月24日には訪ソ中のニクソン副大統領がフルシチョフ第一書記とキッチン論争を繰り広げています。
さらに同年の9月にはフルシチョフがアメリカを訪問し、国連総会への出席やキャンプデービッド(この名前はアイゼンハワーの孫からつけた)にてアイゼンハワー大統領との会談が果たされ、大統領としてはU-2の偵察飛行による両者の関係悪化を懸念していたものの、フルシチョフはこの問題を一切持ち出しませんでした。
やはり、U-2に度々領空を侵犯されているにもかかわらず、これを撃墜できない、という現実を公にしたくなかったようですが、一方のソ連としてはU-2の撃墜をあきらめてはおらず、この執念が翌年のU-2撃墜につながります。
参考
U-2秘史 ドリームランドの住人たち(浜田一穂2019年9月1日)
フルシチョフ 封印されていた証言(ストローブ・タルボット序 ジェロルド シェクター ヴァチャスラフ・ルチコフ 編 福島正光 訳 ISBN4-7942-0405-1 1991年4月10日)
寝返ったソ連軍情報部大佐の遺書(オレグ・ペンコフスキー著 フランク・ギブニー編 佐藤亮一訳 ISBN08-760246-3 1988年12月20日)
世界のミサイル・ロケット兵器(坂本明 ISBN978-4-89319-198-4 2011年8月5日)
ヴィジュアル大全火砲・投射兵器(マイケル・E.ハスキュー著 毒島刀也訳 ISBN978-4-562-05097-0 2014年9月30日)
CIA and U-2: A 50-Year Anniversary Central Intelligence Agency(2010年5月13日 CIA)
U-2 ユーティリティ・フライトハンドブック(1959年3月1日)
コメント
何せ自国領土上空をソ連製の物体が横断するイメージが明確に湧く代物。
「コレが核ミサイルだったら!」という恐怖が市民にダイレクトに伝わった。
ただでさえ冷戦期で露骨に核開発に伴う宇宙開発競争の真っ只中だっただけに恐怖感は現在の比じゃない。
第二次大戦時、存在しない日本軍機に対して対空砲火を行ったロサンゼルスの戦いもそう、風船爆弾しかり米国本土への直接的な攻撃に対しては非常に神経質。
実態は兎も角、宣伝効果はばつぐんだ!
なお10年後に人類は月に降り立つ事になり、米ソ以外置いてけぼりのまま宇宙開発競争は終止符が打たれた。
嘘はいかん
虚仮脅しと疑心暗鬼で事態がエスカレートしていってるし
なお現在のロシアの虚仮脅しは華麗にスルーされてる模様
ちょ~きょだいな、は~りぼてっと♪
陸軍ではドイツ時代V2ロケットを開発していたフォン・ブラウンが主導して頑張ってたけど元ナチの外国人ってのと海軍のメンツの為にわざと妨害されていたらしく、結果スプートニクの時にフォン・ブラウンが「我々なら1年前に成功していた!」と言っていたとか。
つい一昨日から"宇宙へ~冷戦と二人の天才~"を観ていたからめっちゃタイムリーだった。
wikiにジョン・F・ケネディ大統領と歩き回る2ショットがあるけど"国の頂点"と"国の宇宙開発の頂点"の両者共がめっちゃ若くて草。
"宇宙へ~冷戦と二人の天才~"は内容が熱いし"NKVDのともぞう"や"打ち上げ主任のジャック・バウアー"とか声が豪華で良いぞ。
実際、フォン・ブラウン製のロケットはアメリカに渡った早い段階でほぼ完成してたらしいね。軍上層部の妨害はメンツもそうだけど、アイゼンハワー大統領があんまりその手の物の重要性を理解してなかったというのが大きかったそう。
アレは良いものだ。
ライバルであるコリョロフにもきちんとスポットが当たっててとても良いものだ。
フォン・ブラウンが月旅行に影響され宇宙旅行の夢を拗らせた結果かのナチすら利用して自分の夢を叶えんとする狂気をも捉えていて最高だった。
正にそれ。
50年後の現代ですら米露がリードしてるのはスタートダッシュ時の馬鹿げた予算額からして仕方ない気もする。
※アポロ計画(13年間)だけで現代換算1,350億ドル(13兆5,000億円)
作る意味がないんだろうけどアポロのF-1なんて化け物エンジンはもう登場しないと思うと若干の寂しさを感じる。
軍事というか、欺瞞工作はどっちもやってるからねぇ……
スパイで探り合いしてたから実数より膨らんで把握してしまうっていうね
落とされ難くなった偵察衛星が全盛だからこそ透明性が出たともいえる
実際U-2の偵察飛行は命がけな割に狭い範囲なのに比べて偵察衛星はずっと飛ばしてられる信頼性の差があるし
それでも冷戦初期から通常戦力で優位に立つ事よりも核とハッタリそして情報戦で戦うのを好んでる傾向があるよね
やっぱり膨大な通常戦力は金食い虫だから他に振りたがったのかな
それでも通常戦力と核の維持費で経済がゆっくり消耗して最後死ぬんだけど
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