ソ連軍の秘密戦史10
ボマーギャップとミサイルギャップ(前編)


文:nona


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http://airwar.ru/enc/craft/3ms2.html
M-5爆撃機の派生型である3MS-2(3МС-2)。給油機能を有し、他の爆撃機の給油機として活用された。

ボマーギャップ論争

 1955年ごろの米国政府や議会、マスメディアでは「ボマーギャップ」の存在が大きな関心事の一つでした。

 この時期のソ連空軍では中距離ジェット爆撃機のTu-16、西側が大陸間爆撃機と見なすM-4、Tu-95が次々に公開されていたのですが、当時のCIAの推測では1960年代半ばにTu-16が700機、M-4が500機、Tu-95が300機配備されると見積もり、深刻な脅威になると警告しました。

 この計算はソ連各地のスパイがもたらした、爆撃機工場の規模や稼働時間に関する報告をもとにしていたのですが、Tu-16の生産数を除き、現実とは大きく乖離しています。

 M-4の生産は1963年にわずか93機で終了しており、Tu-95も1960年代末に173機(95/95M/95KRTsの合計)で生産を一時中止。Tu-95SM/Tu-142の生産が再開されるまで約10年のブランクがありました。

 一方の米国ではB-47を累計約2000機、B-52は744機を1962年まで生産しており、爆撃機の数においてソ連は劣勢だったのです。

 ソ連で爆撃機の生産が伸びなかった理由としては、フルシチョフ第一書記の最大の関心が弾道ミサイルにあり、航空機の製造リーソスをミサイル用に転用したことが原因、と考えられます。

 また、フルシチョフは回顧録にてM-4バイソンを指して「アメリカに到達はしても帰還できない長距離爆撃機という計画を放棄することにした。」とも語っています。

 ただし、同機は給油を繰り返すことで大陸間爆撃機は可能であり、Tu-95については初期型から十分な航続距離を有していました。

 ちなみに、フルシチョフはボマーギャップは米国が1人で騒いだ事のように記したのですが。ソ連空軍では少数のM-4が大量生産されているような展示飛行を披露しており、実戦配備に至らなかったM-50超音速爆撃機についても、米国へのブラフとして積極的に一般公開されました。

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http://www.aerospaceweb.org/aircraft/potw/pics043.shtml
Tu-95に給油を施すM-4


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https://oldmachinepress.com/2014/03/26/myasishchev-m-50-m-52-bounder/
MiG-21と編隊を組んで展示飛行するM-50


U-2によるモスクワ偵察

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https://nsarchive2.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB434/docs/U2%20-%20Chapter%203.pdf
1956年にU-2がたどった偵察飛行のコース。実線が7月4日のレニングラード偵察、破線は翌日のモスクワ偵察。


 米国で騒がれたボマーギャップは幻だったわけですが、米政府の誰にもそれを証明する材料がなかったため、アイゼンハワー大統領の認可を得て、U-2偵察機による初のソ連深部偵察が実施されることになり、爆撃機基地や工場の偵察が計画されました。

 1956年7月4日、U-2は西独を離陸し東ドイツ領空に侵入。ポーランドを経由しソ連領のベラルーシに入り、ソビエト第二の都市であるレニングラードの直上に至ります。帰路ではバルト三国やカリーニングラードの軍の拠点を偵察しました。

 この日は米国の独立記念日であり、モスクワの米大使館ではフルシチョフらを招いたレセプションが開催されていました。彼はその最中に側近から領空侵犯の報告を聞いたものの、何食わぬ顔だった、とされています。

 翌7月5日、U-2はソ連の中枢である首都モスクワと周辺のM-4バイソンの工場など工業地帯を撮影し、7月9日のミッションではウクライナのキエフとベラルーシのミンスクを、10日には黒海のセヴァストポリまで到達しています。

 ソ連防空軍はU-2を断続的ではあるものの追跡を続け、迎撃機を最低でも20機発進させたのですが、U-2の飛行高度に届く機体はありませんでした。

 ソ連は7月10日に「7月4日と5日に双発中型爆撃機(RB-57と誤認?)が諜報目的でソ連領空を侵犯した」と、訴えたのですが、自軍が米軍の偵察機を撃墜できないことを公にはしたくなかったようで、外交ルートを通じ秘密裏に抗議しました。


U-2偵察の中断

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/197574/origins-of-the-u-2/
滑走路上のU-2偵察機

 U-2の偵察によりボマーギャップの実態はもちろん、ソ連の軍備の詳しい情報が米国にもたらされたのですが、米国側としては、U-2がソ連のレーダーに探知されたことを憂慮し、対ソ偵察は一時中断されました。

 米国では、ソ連のレーダーは大戦中にレンドリースした仕様を引き継ぎ、高度2万m以上は探知でいないと信じられていたのです。

 このため、同年10月に発生したハンガリー動乱ではソ連への配慮からU-2は使用されなかったのですが、同時期のスエズ動乱(第二次中東戦争)ではトルコを拠点にU-2がアラブ諸国上空から偵察し、その情報は英国に提供されました。

 ただし、米国はソ連がエジプト側に立って参戦する恐れから国連で即時停戦を訴え、英国はスエズ運河の奪還を目前に、その利権を喪失しています。


ソ連に探知されたステルス型U-2

 U-2によるソ連への深部偵察は、抗議のほとぼりが冷めた1957年に再開され、この頃には電波吸収材を機外に張り付けたU-2「ダーティ・バード」が投入されました。

 電波吸収材はソ連が使用している警戒レーダーの電波長に最適化した厚みをとっていたのですが、1958年3月1日に日本の厚木基地から発進したダーティ・バードは、ソ連のレーダーに探知されており、米国はまたも抗議をうけました。

 今回もU-2は撃墜されなかったものの、飛行性能の低下を代償としたU-2のステルス化が無意味であることや、極東の警戒が緩い、という予測が外れたこともあって、アイゼンハワー大統領は、再び深部偵察の中止を命じています。


参考

U-2秘史 ドリームランドの住人たち(浜田一穂2019年9月1日)
フルシチョフ 封印されていた証言(ストローブ・タルボット序 ジェロルド シェクター ヴァチャスラフ・ルチコフ 編 福島正光 訳 ISBN4-7942-0405-1 1991年4月10日)
図説ソ連の歴史(下斗米伸夫 ISBN978-4-309-76163-3 2011年4月30日)
世界のミサイル・ロケット兵器(坂本明 ISBN978-4-89319-198-4 2011年8月5日)
世界の傑作機 No.110 Tu-95-142 ベア(ISBN4-89319-125-X 2005年7月5日)
CIA and U-2: A 50-Year Anniversary Central Intelligence Agency(2010年5月13日 CIA)