ソ連軍の秘密戦史09
偵察気球も撃ち落せ


文:nona

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/Launch_of_MOBY_DICK_balloon.png
米国が対ソ偵察に用いた気球

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1955年の四巨頭会談

 1955年7月18日、スイスのジュネーブで米英仏ソ4か国首脳による国際会議が開催されました。

 この会議の最中、アイゼンハワー大統領はソ連代表のブルガーニン首相に対し、米ソ両国の平和のために互いの軍備と計画を公開し、事前通告のうえで自由に偵察機を飛ばしあう、相互査察の実施を提案します。

 これはオープンスカイズ条約の先駆けと言えるものですが、ブルガーニン首相は好意を見せたようです。

 ところがフルシチョフ共産党第一書記は猛反対し、米国の提案が「我々の寝室を覗こうとしている」と批判しました。

 この頃のソ連軍の戦力は表向きの宣伝と異なり米国に劣っている、というのがフルシチョフの認識であり、これを米国に見抜かれたくなかったのです。

 しかしながら、ソ連が査察の提案をはねのけたことで、むしろ米国はソ連に対する無許可の偵察を強化する方向に動きました。


偵察気球

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http://www.nrojr.gov/teamrecon/images/history/genetrix.jpg
偵察機材を搭載した気球


 当時の米国ではソ連領の奥深くを偵察する方法として、無人の偵察気球の使用を検討していました。

 米国における偵察気球の試みは1940年代末に始まり、1954年末には英国から少数の気球がソ連に向けて放出されたのですが、卓越風によって見当外れな場所に散らばるなど、目立った成果はなかったようです。

 米国内で始まった運用訓練においても成績は芳しくなく、一般人の目に触れ(多くはUFOみなされた)、民家に気球が落下するなどの事故も発生したのですが、一説では1955年9月にアイゼンハワー大統領が心臓病の治療で入院した際、気球の一つが偶然病院を撮影しており、このときの航空写真がきっかけで対ソ偵察が承認された、とも言われます。


ジェネトリクス計画

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http://www.c-and-e-museum.org/Pinetreeline/metz/other/U-2/C-119-2.jpg
回収フックを装備したC-119F輸送機

 気球による対ソ偵察計画は1956年1月にジェネトリクス計画(WS-119L)の名で開始されました。

 当初の計画では、気球は偏西風に乗ってユーラシア大陸を横断しソ連領を撮影、太平洋に到達する頃合いで発信機が作動し回収用の輸送機を呼び寄せ、最終段階で気球から切り離されパラシュートで落下するゴンドラを、輸送機が特殊なフックで回収する、という手はずで、1956年6月までに約2500個の偵察気球を打ち上げが予定され、その回収機として49機ものC-119Fが極東各地に展開しました。

 1956年1月に放出された448個の気球は、60から70時間ほどでユーラシア大陸を横断、44個(うち4個はカメラが作動せず)が太平洋で回収され、約290万㎢(ソ連の全面積は2240万㎢) におよぶソ連領内の偵察に成功します。

 ところが、多数の気球がソ連領内で撃墜され、その一部が鹵獲されていました。

 気球は撃墜が困難な高高度を飛ぶよう設計されたのですが、深夜から日の出の気温低下により萎んで一時的に高度が落ちるため、ソ連の戦闘機でも撃墜が可能だった、と言われます。(ただし、気球自体は一定の高度を維持できる自動調整できる設計のようなので、本当の事かは不明)

 ジェネトリクス計画の実行から約1か月が経過した1956年2月4日、モスクワのグロムイコ外務次官は米大使に偵察気球の企てを抗議しました。

 これに対し、米国は気球が気象観測用であるとして偵察を否定したのですが、ソ連側はジェネトリクス計画の全容を正確に掴んでおり、米国の反応を待ってから証拠品の気球を公開。嘘をついた米国一層激しく非難しました。


偵察気球がソ連にもたらしたもの

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https://onespotter.com/manufacturer/626/Myasishchev#photo-grid-51499-10
(Author:  Petr ShumikhinDate taken: 25 August 2018)
モニノ空軍博物館のM-17。開発計画初期の名残であるGsh-23機関砲のターレットを背部に搭載した状態で公開されている。


 米国のジェネトリクス計画はソ連からの非難によって中止されたものの、程なくしてU-2偵察機による対ソ偵察が開始され、偵察気球よりもはるかに価値のある情報が米国にもたらされました。

 また、U-2の到達が難しい北極圏などの一部地域では引き続き偵察気球が利用されたらしく、通常の観測気球なども度々ソ連領内に流れてきました。

 M-4爆撃機の開発元として知られるミヤシーチェフ設計局は、1960年代の初めに高高度迎撃機開発プロジェクト「34」を立ち上げており、この機体には気球や高高度偵察機を撃墜するため機関砲タレットの装備が検討されていました。

 計画の開始から程なくして対ソ偵察の主流がA-12/SR-71超音速偵察機や偵察衛星に替わり、計画は延期と修正を余儀なくされたのですが、最終的にM-17およびM-55高高度偵察機として実用化されました。

 加えて鹵獲された偵察機材もソ連の研究対象となり、その一例として撮影用フィルムが温度変化と放射線に強い点で注目され、1959年に打ち上げられた月探査機ルナ3には同等品が搭載されました。

 ルナ3は世界で初めて月の裏側の撮影に成功していますが、地上へ帰還させることが難しいため、例のフィルムは機内で自動現像された後にスキャニングされ、電波に変えて地上へ送信することで月の裏側の様子を伝えています。

 このことから、ソ連は月の裏側に存在する地形の名付け親となり、ある平地を「モスクワの海」と名付けました。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Luna_3#/media/File:Luna-3_(Memorial_Museum_of_Astronautics).JPG
ルナ3の模型


参考
U-2秘史 ドリームランドの住人たち(浜田一穂2019年9月1日)
図説ソ連の歴史(下斗米伸夫 ISBN978-4-309-76163-3 2011年4月30日)
The Genetrix Project and Luna 3(nonationnoborder 2018年1月4日)
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