ソ連軍の秘密戦史08
侵入者を撃ち落せ
文:nona
https://doing-business-with-russia.rbth.com/history/332629-aviatsionen-intsident-sasht-sssr
1953年7月にウラジオストク沖でMiG-17に撃墜されたRB-50
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米軍機による対ソ偵察のはじまり
1948年6月に開始されたソ連による西ベルリン封鎖、翌1949年8月末の核実験を経て、米国はソ連への警戒を強め、同国への偵察飛行を強化しました。
極東においては1949年春に空軍のRF-80等による対ソ偵察が始まり、5月に三沢基地を発進したRF-80がソ連領の千島と樺太を偵察、翌1950年の3月10日にはウラジオストクにてソ連領空を侵犯しています。
とはいえ、極東のソ連領を守る戦闘機は大戦後に生産された金属製のLa-9/11や、かつて米国がレンドリースしたP-39/63などのレシプロ機でした。
大戦中に大量生産されたYak戦闘機などは資材節約のために木材を多用しており、外板の劣化で大半の機体が退役していました。
ゆえにソ連空軍や防空軍では上記に挙げた機体を配備したのですが、MiG-15などジェット戦闘機はまだ極東に配備されておらず、直線翼とはいえジェット推進であるRF-80には追いつけませんでした。
あるとき、「ソ連基地にミサイルがある」との未確認情報が米空軍にはいったものの、航空偵察の結果、そこにあったのはレーニン像だった、ということがあったようです。
米国にとって航空偵察は、現地のスパイがもたらす噂やバイアスのかかった情報の真偽を確かめる上で重要な行為でもありました。
珍事
https://en.wikipedia.org/wiki/Attack_on_the_Sui-ho_Dam#/media/File:F-80C_80th_FBS_in_Korea_c1951.jpg
1951年に韓国の前線基地で撮影されたF-80C戦闘機
RF-80の原型であるF-80は1950年に勃発した朝鮮戦争でも活躍しますが、開戦年の10月8日、航法を誤った2機のF-80がソ連領内の航空基地を誤認攻撃する事件が発生しました。
攻撃をうけたのはウラジオストク東方30kmのスハヤ・レチカ空軍基地。この頃の満州ではソ連空軍の秘密参戦に備えMiG-15戦闘機とパイロットが集まっていたものの、この基地に配備されていたのは米国製のP-63であり、空襲に対する警戒もなかったのです。
P-80による襲撃により1機のP-63が地上で破壊され、複数機が損傷をおっています。ソ連側は迎撃機を上げる余裕がなく、対空砲で反撃しました。
程なくしてモスクワに第一報がもたらされ、ソ連首脳部は第三次世界大戦の始まりではないか、と緊張を高めますが、結局は国連に訴えることで米国の出方をうかがいました。
この数日後、トルーマン大統領はF-80の航法ミスによる領空侵犯を認め、2名のパイロットを朝鮮戦線から配置換えする処分がなされますが、ソ連は仕組まれた挑発行為であると非難しました。
https://ww2-weapons.com/lend-lease-tanks-and-aircrafts/
ベル社の工場に並ぶソ連向けのP-63.
ソ連への戦略偵察
米国のソ連への偵察は時に大胆なものとなり、1952年9月にトルーマン大統領の認可をえて、偵察機材を積んだB-47Bがベーリング海とオホーツク海沿岸にてソ連領を1300kmにわたって侵犯します。
この改造型B-47BにMiG-15は迎撃を試み、B-47の乗員は無線で友軍機に危機を伝えたものの、B-47は高度1万2千mを時速890kmで飛び続け、迎撃を振り切っています。
他方、同時期の欧州では、英軍へ極秘に供与したRB-45トーネード(直線翼4発のジェット機)が東欧のレーダー地図を製作するため、夜間偵察を敢行しました。
同機の乗員いわく、モスクワの夜の明かりが見える距離まで奥深く偵察した、とのことですが、ソ連では全天候迎撃機がまだ開発段階であり、やはり撃墜には至りませんでした。
ソ連が撃ち落した米軍機
米国による冒険的な偵察飛行に対しソ連がただ指をくわえていたわけではなく、比較的低速の大型レシプロ機は度々撃墜していました。
ソ連防空軍の戦果は1950年4月8日にバルト海でLa-11レシプロ戦闘機がPB4Y-2の撃墜を皮切りに、1955年のジュネーブ会談が開かれる直前までの約5年間で、P-2Vを3機、RB-29/50を4機、ジェット機のRB-47Eを1機撃墜しています。
ただし、米軍機が防御火器で反撃する場合もあり、1950年12月にウラジオストク沖で発生した戦闘では、MiG-15がP2V-3の尾部機銃によって撃墜されています。
偵察機の撃墜を巡っては、互いに「相手が悪い」として舌戦が続くのですが、事態のエスカレートは両者とも望んでおらず、熱戦にまでは発展しませんでした。
バルトの怪事件
1952年6月、バルト海で訓練飛行を行うスウェーデン軍のDC-3に対し、ラトビアのトゥクムス基地から発進したMiG-15Bisが攻撃を加え、DC-3が公海上で撃墜される事件が発生。
その3日後には、DC-3の行方を捜索する同軍のカタリナ飛行艇も同様に撃墜されました。
事件の当初、ソ連側はDC-3の撃墜を否定し、カタリナ撃墜については「先に相手が撃ってきた」と撃墜を正当化します。
一方、スウェーデンのDC-3ですが、実はソ連に対する電子偵察を非公式に行っており、傍受した情報はNATOに提供されていました。
冷戦の時代、スウェーデンは中立政策をとっていたのですが、有事においてはNATOの側に立ち、ソ連と戦うという密約が存在したのです。
ソ連は知ってか知らでかDC-3を撃墜したのですが、元よりソ連はスウェーデンの中立を信用しておらず、冷戦が終わるまで同国への偵察と威嚇を繰り返していました。
https://sv.wikipedia.org/wiki/Catalinaaff%C3%A4ren#/media/Fil:DC-3_wreck_at_the_Swedish_Air_Force_Museum_(starboard_propeller_and_front).jpg
リンシェーピンのスウェーデン空軍博物館に展示されるDC-3の残骸。2004年に海中から引き揚げられた。
米ソの空中戦
https://en.wikipedia.org/wiki/Grumman_F9F_Panther#/media/File:F9F-2_VF-21_CVA-41.jpeg
1952年に空母ミッドウェイ艦上で撮影されたF9F-2
ソ連機は相手陣営の偵察機のみならず、米艦隊に対しても威力偵察を加えたのですが、米艦載機との空中戦に発展することもあり、少なくとも2機が撃墜されています。
朝鮮戦争中の1950年9月4日、黄海上でソ連側の双発爆撃機(Tu-2あるいはIl-4)が米機動部隊に単機で接近したのですが、この時は空母ヴァレー・フォージのレーダーに捕捉され、母艦から誘導をうけたF4Uによって撃墜されました。
F4Uのパイロットによると、相手機が先に尾部機銃で攻撃したために、母艦の許可を得て撃墜した、とのことです。ソ連機の搭乗員は米艦が救助しら直後に死亡し、遺体の所持品からソ連兵生存者はありませんでした。
この事件から2年後の1952年11月、空母オリスカニーがウラジオストクから南西約150kmに接近した時、8機のMiG-15が艦隊に接近、うち4機のMiGとCAP中のF9F-5パンサー2機が空中戦に突入しました。
この時に空母が傍受していたソ連側の通信記録から、管制官がMiG-15のパイロットに交戦許可を与えたことが判明しています。
空中戦はMiG側の優勢で推移し、F9Fの機体は穴だらけになり、エンジンは過負荷運転で火を噴く寸前であり、編隊長機の機関砲は故障し射撃不能に陥っていました。
F9Fは絶体絶命の危機にあったものの、遅れて加勢した3機目のF9Fが、MiG-15に対向射撃を加え、撃墜に成功。直後にMiG-15部隊は撤収を余儀なくされました。
F9Fのパイロットは、撃墜されたMiG-15から脱出した乗員のパラシュートを目撃したものの、米側の手違いにより彼は救助できなかったようです。
この戦闘は米側でも極秘にされたのですが、内々にはソ連軍機に対する勝利であると喜ばれ、戦闘から生還した3名のパイロットは時期大統領であるアイゼンハワーに直接戦闘報告し、称賛をうけています。
一方のソ連の側も米軍機を撃墜できれば、(国際政治の問題はさておき)そのパイロットはやはり英雄としての扱いをうけたようで、時には生活面での優遇を得られた、と言われます。
参考
U-2秘史 ドリームランドの住人たち(浜田一穂2019年9月1日)
クリムゾンスカイ(J.R.ブルーニング 著 手島尚 訳 ISBN4-7698-2331-2 2001年12月15日)
米国がソ連を爆撃したのはいつか(2019年10月25日ボリス・エゴロフ)
MY BRIEF WAR WITH RUSSIA(By Alton H. Quanbeck 1990年3月4日)
Johannes Beers 1952: Swedish DC-3 shot down by USSR
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コメント
そのKC-135、をRC-135として扱うべきか悩みます。
本記事に登場した「改造型B-47B」も用途はRB-47と同じですが
この頃はまだRB-47は登場しておらず、便宜上そのような名前で呼ばせて
頂きました。
2様
SR-71といえば実際にソ連領に奥深く入ることはなかった、という話ですが(残念
親戚のD-21超音速無人偵察機はシベリアで鹵獲されたらしいです。
そして中国は最後の4回目の実践飛行の残骸を保有している
https://www.flickr.com/photos/the_metal_merchant/8317704631/
D-21は超音速飛行とステルス技術を敵に教えるための機体としか
D−21の技術が活かされてそう
そして正式に宣戦布告をしているわけでもないのに各地で結構な数の米ソ空中戦が行われている事実、スウェーデンのDC-3撃墜を含めて如何に平時の偵察活動が重要かつ危険かという事を表している。
※4
<ソ連側もアメリカ領もしくはアメリカ勢力圏に対して似たような偵察は行ってたんでしょうか
戦後の50年代前半に日本の北海道において度々ソ連機の領空侵犯が行われ、日本の領空付近で米ソ両国で一触即発の事態が続いたのが航空自衛隊発足の要因となってたりするのだ。
気になる人はnonaさんの過去投稿を読んでみると良いぞ!
参考:航空自衛隊防空史1 航空自衛隊発足から「領空侵犯に対する措置」開始まで
http://gunji.blog.jp/archives/1066683071.html
B-36から偵察型のRF-84や核を搭載したF-84を発進させてソ連領空へ送り込む、FICON計画はこの頃でしたな。
この辺の話はめったに表に出てこないので、興味深いものが多い…。
民間機といえば、当時唯一ソ連領空に出入りできたエールフランスの機体にCIAが偵察機材を載せていたことがスパイから漏れて、ソ連が激おこになった事件もあったり。
昔の日本でもこんな事件があったんでしょうか
ラ・ブレア・タールピットみたいな『沼』に喜んで入るようなマニアならともかく、英語版Wikiの「Boeing RC-135」(https://en.wikipedia.org/wiki/Boeing_RC-135)にあるようにRC-135のバリエーションに含めても問題ないと思うワニ(たまに頭をくわえて『沼』に引きずりこもうとする事もあるワニ的提言)。
ソ連近隣地域への偵察はともかく、
米国本土へ直接乗り込む、というのは
あまり聞かない話です。
代わりにアエロフロートの国際便を使って偵察
ということはありました。
ソ連の旅客機の機首には
航法士用の視界の広い窓がありましたが
そういう所を活用したのかもしれません。
5様 6様
例の超音速無人偵察機を調べてみました。
D-21もそうですが不気味な見た目ですね。
偵察衛星の欠点を補完する機体だとは思いますが
配備状況はどうなんでしょう?
誤字様
拙文ではありますが
覚えていてくださり光栄です
今回の記事に登場させたP-63戦闘機は実に数奇な運命の機体ですが
設計そのものの奇抜さも興味深い機体です。
8様
イスラエルのバビロン作戦みたいですね。
朝日新聞のサイトが出典で恐縮ですが
この頃のソ連の核保有数は1949年時点で1発、50年で5発だったそうです。
もしかすると西側のどこかの都市が2,3個消失するのと代わりに
ソ連を地図から消すことに成功していたかもしれません。
9様
一応自衛隊の時代になってからは、
そういったことは起きていないはずですが
日本を基地とする米軍機が撃墜されたり、
あるいは銃撃で穴だらけになって帰ってきた、
ということは多々ありました。
元戦闘機パイロットの菅原淳氏によると
米軍のパイロットは「スターリンの屁に吹かれた」と表現したそうです。
名無しのミリヲタ(ワニ) 様
しいて言えば米軍のボーイング707系とC-135系の区別も正直つかないのです。
それの区別がつくのは「『沼』のヌシ」ぐらいだと思うワニ。
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