ソ連軍の秘密戦史07
休戦には応じない
https://media.defense.gov/2010/Jun/14/2000352255/780/780/0/100614-F-1234S-019.JPG
F-84の爆撃で決壊したダム。水流によって下流の道路、線路、2つの鉄道橋が破壊され、水田地帯にも壊滅的な打撃を与えた。
ジェット空中戦―朝鮮戦争からフォークランド紛争まで (光人社NF文庫)
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木俣 滋郎
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休戦を引き延ばそうとする共産軍
開戦当初こそ戦況が極めて流動的な朝鮮戦争ですが、1951年の春に人民志願軍の攻勢が失敗した後に戦線は膠着。米国は休戦に傾き、政府と対立するマッカーサー司令は更迭されました。
一方の北朝鮮も空爆による被害が拡大したことで休戦を望んでいました。
この流れにソ連も反応し、6月23日にソ連国連大使のヤコフ・マリクは両陣営の休戦を提案、翌月から休戦交渉が開始されました。
しかし、いざ交渉が始まると会議は停滞し、戦闘も止みませんでした。
実はスターリンが中国に休戦を引き延ばすよう働きかけており、金日成主席に対し「我々は中国の代表団とこの問題を討議し、休戦には応じないという結論に達した。以上だ。」と突き放す電報を送っています。
ソ連の二枚舌の理由は、米国を朝鮮半島に釘付けにすることで、欧州のパワーバランスが東側にとって有利に傾くため、次の世界大戦までの時間稼ぎができる、というスターリンの思惑にありました。
1951年1月にスターリンは東欧各国の共産党と軍の指導部を召集し、
「無敵と言われていたアメリカが北朝鮮(実際は中国軍)にさえ勝てない。これでアメリカは今後2~3年、アジアで足止めされるだろう。これは我々にとって好都合だ。ヨーロッパにおける軍事基盤を固めるため、このチャンスを有効に活かすべきだ。」
と語り、さらには「1953年末に戦争準備を完了すべき」との指示も出していました。
地上戦の停滞
1951年の春以降、両陣営は38度線でにらみ合いを続けていました。前線部は国連軍の航空優勢下にあったのですが、人民志願軍は陣地を地下化し、比較的安全な夜間に補給をうけることで戦線を維持しました。
攻撃に際しては、ゲリラ部隊が夜間のうちに浸透し、国連軍の前線司令部や砲兵陣地を奇襲すると、すぐさま退却して掩体に隠れ、追ってきた国連軍兵に砲撃を加え打撃を与えました。
また、前線における火力戦では、国連軍が砲兵システムの即応性と射撃精度において優れていたものの、投射される砲弾量は人民志願軍が勝っており、国連軍は前線を突破できませんでした。
ただし、中国は自国の生産能力が乏しいため、人民志願軍の用いる弾薬の殆どをソ連から購入したと言われます。
兵器供与を有償としたのは毛沢東が律儀だったのか、あるいはスターリンが倹吝だったのか、詳しくはわかりませんが両国の微妙な距離感が感じられます。
空からの圧力
https://dpaa.secure.force.com/dpaaFamWebInKoreanAirBattles
1952年11月に北朝鮮内の橋を攻撃する海軍のF9F
地上戦の膠着を打破できない米国は、後方に対する戦略爆撃の強化により北朝鮮の経済基盤を破壊し、共産勢力を疲弊させることで交渉の場に引き出そうとしました。
この一環として1952年6月に水豊ダムの発電所を爆撃しますが、これは民間目標に対する攻撃とみなされて米国は世界各国から非難を浴び、世界大戦を招くとの理由で英国からも抗議されました。
それでも米軍は事前警告のうえで作戦を継続。8月29日に戦争中最大規模の1403機を投入し、北朝鮮各地の都市を空爆しました。
朝鮮戦争の3年間で国連軍が投下した爆弾量を、ある資料は66万9000トンとしています。これは太平洋戦争で日本本土に投下された量の4倍にあたるそうです。
戦略航空軍団司令だったカーチス・ルメイ大将は「我々は3年にわたり、朝鮮半島の全ての都市を焼き尽くし、人口の2割を犠牲にした。それが許されたのだ。」と回想しています。
ただし、B-29の投下量は16万7000トン(太平洋戦争で16万967トン)に留まり、爆弾の大半は戦術機によって投下されました。
いずれにしても爆撃によって共産軍が交渉に応じることはなく、ただ両陣営に無用な出血を招きました。(この作戦は後にベトナム戦争末期のラインバッカー作戦でも踏襲されますが、後者は一定の成功を収めています)
休戦の直接のきっかけは、戦争を引き延ばしていたスターリンの死でした。1953年3月5日に彼が急死したことで両陣営の交渉が加速し、1953年7月27日に朝鮮戦争は休戦に至りました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kim_Il-sung_signed_for_Korean_Armistice_Agreement.jpg
朝鮮戦争休戦協定に署名する金日成
ソ連軍の戦果
ソ連空軍は朝鮮戦争の空中戦で1250から1300機の国連軍機を撃墜し、鴨緑江北岸に配置した対空砲も153機を撃墜した、と記録されています。
これに対し、国連軍側の損失記録は米空軍機1466機、海軍814機、海兵隊368機、そのほかの国連軍機152機とするものの、損失の理由は事故945機、対空砲816機、空対空戦闘147機(その他・不明892機)としており、ソ連空軍の戦果のほとんどを否定しています。
ソ連空軍のトップエースは150回の出撃で22機を撃墜したニコライ・スチャーギン、次点は108回の出撃で19機を撃墜したエフゲニー・ペペリャーエフです。両名の戦果は国連軍側のトップエースであるジョゼフ・マコーネルの16機を上回ります。
ソビエトおよびロシアが認める事故を含めた損失は319あるいは345機とされ、120名程度のパイロットが戦死しました。回収された遺体は旅順港のロシア人墓地に埋葬され、現在は60に近い墓石が残っています。
ちなみに、米軍の合計空中戦果は967機で、うち792機はF-86が撃墜したMiG-15だったのですが、ソ連崩壊後にMiG-15の撃墜数を379機に減じ、逆に撃墜されたF-86を58 機から103機へ増やし、かつては10対1と宣伝されていたF-86とMiG-15の撃墜比を下方修正しています。
英雄になりそびれたパイロット
朝鮮戦争の空中戦果に関しては両陣営とも誇張する傾向がありますが、ソ連空軍は現場に対しては厳正な戦果報告を求めていました。
ところが上に挙げたペペリャーエフ氏は、他のパイロットに戦果を横取りされかけた、と語っています。
ある時、ペペリャーエフ氏がF-86を撃墜し基地に戻ると、別隊の某副連隊長が先に戦果を申告していました。ペペリャーエフ氏は不服を申し立て、両者のガンカメラ映像は上級部隊の第64戦闘航空軍で検証されました。
これにより、ペペリャーエフ機がF-86を至近距離で射撃していたのに対し、副隊長の狙うF-86は機関砲の射程外にあったことがわかり、空軍は前者による撃墜を認めます。
副連隊長は、これ以外の戦闘で14機(13機あるいは12機の説あり)の撃墜記録を得ており、師団長のコゼドゥブ大佐はソ連邦英雄章を推薦していますが、ソ連本国はこれを認めませんでした。
朝鮮戦争において、この勲章は3または4機の撃墜戦果で授章を認められるものだったそうです。
ペペリャーエフ氏は「指導者たちは自分をだまそうとしたものを決して容赦しなかった」と書いていますが、副連隊長は帰国後もパイロットとして在職していました。しかし、1953年に空中衝突事故で死亡した、と言われています。
彼の死が事故に偽装されたものなのか、それとも単に不幸が降りかかっただけなのか、この詳細は不明です。
参考
超空の要塞:B-29(C・E・ルメイ B・イェーン 渡辺洋二 ISBN978-4-257-17237-1 1991年4月10日)
ジェット空中戦(木俣慈朗 ISBN4-89409-041-4 1992年7月10日)
オスプレイ軍用機シリーズ38 朝鮮戦争航空戦のエース(ロバート.F.ドア著 藤田俊夫訳 ISBN4-499-22817-4 2003年10月10日)
クリムゾンスカイ(J.R.ブルーニング 著 手島尚 訳 ISBN4-7698-2331-2 2001年12月15日)
図説ソ連の歴史(下斗米伸夫 ISBN978-4-309-76163-3 2011年4月30日)
ヴィジュアル大全火砲・投射兵器(マイケル・E.ハスキュー著 毒島刀也訳 ISBN978-4-562-05097-0 2014年9月30日)
NHKオンライン 朝鮮戦争不信と恐怖はなぜ生まれたのか?
(2019年3月1日 NHK NスペPlus)
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コメント
戦線という意味で中国軍の人海戦術が見られたのは朝鮮戦争くらいだったろうから(ベトナムはゲリラ戦術を取っただろうし)、記録から読み取るに数に圧倒されるっていうのが凄いよねって話
バイク部隊や嘘ついて日本から購入した重機で突撃
兵器の質に悩むイラン、兵力に劣るイラクという構図
兵器の有償供与というと、朝鮮戦争の後にソ連が、北朝鮮に供与した兵器の代金として、北朝鮮内にある日本が戦前に建設した発電所をいくつか解体して持っていってしまったという話があったような。
※3
いやベトナム戦争でも、人海戦術を含む大規模な戦闘が何度か発生していたかと。
『ワンス・アンド・フォーエヴァー』のイア・ドラン渓谷の戦いとか、今度やる(といってもコロナで公開延期になっちゃった…)『デンジャークロース』のロング・タンの戦いとか。
そしてベトナム側がそれらの戦いの経験から、西側相手に正面から戦っても勝てないということになって、ゲリラ戦術に切り替えたという経緯があったり。
※4
朝鮮戦争開戦時のアメリカでは、特に真っ先に投入された海兵隊の場合、召集した将兵の装備で武器どころか軍服の支給すら間に合わなかったという、冬戦争のフィンランドか独ソ開戦時のソ連みたいな話があったりして。
いや、ベトナム軍の突撃がベトナム戦争の趨勢を決めた戦いであったのは知っているけども、圧倒的な人的資源がある上に文革前の将軍が残ってる朝鮮戦争期中国軍の大突撃を見たかったって話なんです。言葉足らずですみません。
※3に適当なこと書いちゃったけど中越戦争ではベトナム軍縦深防御陣地に中国軍が自殺的突撃をかましたらしいので、戦争の中での中国軍の突撃は文革後も見れたらしいしゲリラ戦術じゃなくて迎え撃ったという点で訂正いたします。
多忙につきコメントへの返信ができず申し訳ありません。
本記事の内容からはそれますが
先日C.W.ニコル氏が
直腸がんにより、79歳で逝去されました。
ニコル氏が書籍化された
「日本海軍地中海遠征記」は
私の第二特務艦隊の研究を深める上で
大きな助けとなりました。
ニコル氏のご冥福をお祈りいたします。
ところでニコル氏が海外向けに執筆した「特務艦隊」という小説では
「日本海軍式肉入りポテトシチュー」なる謎の日本食や
英兵が「チョコレート」と呼ぶ歩兵用の武器が登場します。
さて、これは何のことでしょうか?
ドイツの三割にも満たなかったとか
おかげで西部戦線のドイツの二軍相手に大苦戦
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