ソ連軍の秘密戦史05

B-29、暗黒の日


文:nona

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https://477768.livejournal.com/tag/%D0%9C%D0%B8%D0%93-15
1960年代に撮影された中国空軍のMiG-15。23mmと37mm機関砲が胴体下に引き出されている。

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B-29の撃墜

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196085/strategic-bombing-new-flexibility/
横田基地にて北朝鮮の新義州に対する空爆作戦のブリーフィングをうけるB-29の乗員。

 1951年4月9日、鴨緑江に隣接する北朝鮮の新義州上空に34機のF-84Eと18機のF-86Aの護衛をうけたB-29編隊が飛来。

 対するソ連空軍は36機のMiG-15を発進させ、1機の損失とひきかえにB-29を3機を撃墜、7機を撃破しました。(この2日前にも1機のB-29を同地で撃墜しています)

 一方の米空軍も11機のMiG-15を撃墜(うち7機はB-29の戦果)を主張したものの、空中戦の結果に極東空軍はショックをうけました。

 先の大戦と比べれば、今回のB-29の損失は微々たるものですが、極東空軍の爆撃機コマンド司令官ジョセフ・W・ケリー中将は、B-29による昼間爆撃を停止する措置を取ったのです。

 当時、極東地域にて朝鮮に投入できるB-29部隊は3個群(定数99機)でしたが、米軍自身は約2000機ものB-29を保有しており、425機は現役機として戦略航空軍団に、486機は保存性を高めた被覆状態でデビスモンサンにあったうえ、朝鮮戦争の期間中も改良型のB-50が細々と生産されていました。

 しかしながら、極東への機体の補充は潤沢ではなく、乗員の士気も無視できないほどに低下していました。


新飛行場の爆撃

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https://media.defense.gov/2010/Jun/14/2000352261/780/780/0/100614-F-1234S-013.JPG
10月の空爆でB-29の爆撃をうける北朝鮮の飛行場。米軍は「サームチャム」という仮名をつけている。


 1951年9月27日、航空偵察により平壌の近隣3か所に建設中の飛行場が発見されます。

 これまで国連軍は北朝鮮の飛行場を見つけると、復旧を断念するまで爆撃を加えており、今回も情報収集の後10月13日の夜にB-29が爆撃を開始しました。

 ところが、B-29は30キロの小型爆弾を278発投下したにもかかわらず、滑走路の端に24発が命中するにとどまり、その後数回の夜間爆撃でも十分な打撃を与えられなかったのです。

 結局、ケリー中将はB-29による昼間爆撃の再開を決定。B-29を3機ずつ3編隊にわけ、3か所の飛行場を朝夕2回に波状攻撃を加える計画を立てます。

 また、MiG-15対策として、F-86部隊をMiG-15に対する阻止スクリーンとして前進させ、F-84部隊をB-29の直掩に配置しました。

 F-84は本国の戦略航空軍団では長距離護衛戦闘機としてみなされ、最盛期に12個のF-84飛行隊があったほか、パラサイトファイターとしてB-29やB-36とのドッキングまで研究された機体です。

 とはいえ、同機の運動性はMiG-15に劣るために、朝鮮戦線では戦闘爆撃機として使用されており、パイロットも護衛任務に不慣れでした。

 B-29による昼間爆撃は10月18日の朝に開始され、当初は反撃もなく爆撃は成功します。しかし、午後の爆撃はB-29とF-84の集合に失敗したことで中止され、爆弾は副次目標に投下されました。

 21日の午後にはMiG-15の攻撃があり、B-29のうち1機が深刻な損傷を負い、乗員は安全な空域で脱出するなどの被害がありました。


暗黒の火曜日

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:F-84-9thfbs-korea.jpg
1953年に韓国上空で給油をうけるF-84G。

 10月23日朝、8機のB-29が朝鮮半島に飛来。(1機はエンジン不調で途中離脱)護衛機は35機のF-86と、55機ものF-84を伴う大部隊でした。

 9時41分、前進警戒中のF-86部隊が24機のMiG-15編隊を発見。両者は空中戦に突入したのですが、ほどなくして上空に32機、別方向からも24機ずつの2個隊が現れます。

 これらは中国人パイロットが操るMiG-15で、練度は米空軍に遠く及ばないものの、数の上では圧倒的に優勢。(米軍が自身の失敗を隠すために意図的に数を多く記録した、という指摘もあります)

 F-86部隊はラフベリー旋回を用い撃墜を免れますが、この隙をついて、ソ連空軍の44機のMiG-15がB-29に接近します。


恐慌状態に陥る乗組員

 MiG-15編隊は高度11000mで編隊を解き、2機1組に散会。高度9000m付近を飛ぶF-84を、そこに何もいないかのようにすり抜け、高度6000mのB-29を襲いました。

 B-29は機関銃で応戦したものの、ホリゾンタル・フラック(機関砲の水平射撃)と恐れられた37mm砲弾をうけるなどして、数機が致命傷を負います。

 F-84のパイロットの中には恐れをなして逃亡するものもさえ現れ、フランシス・コンレイ大尉の僚機は勝手に基地に戻ってしまい、間もなく彼は前線を追われました。

 その一方、逃げ場のないB-29の乗員は恐慌状態に陥ります。ある尾部銃手は機を守るため一人では脱出しない、という誓いを守ろうと脱出の機会を逸し、別の機銃手は他の乗員の説得も聞かず、脱出そのものを拒み、この両名は戦死しています。

 米中ソの3国が200機以上を投入した大空中戦の結果について、米側は8機のB-29のうち3機が撃墜され、2機が不時着後に修理を断念するほどの損害を追い、F-84も1機を損傷で放棄した、としています。

 その一方でB-29が5機、F-84が1機(通算6機目)MiGを撃墜した、と主張しているものの、ソ連側では自軍のMiG-15に限って撃墜被害はなかった、としています。

 この戦闘の後、極東空軍はB-29の昼間爆撃を断念するのですが、北朝鮮の飛行場も相当な打撃をうけており、今後も戦術機による再攻撃が懸念されたことから、MiG-15の発進基地は増えなかったようです。

 そういう意味では戦術的に勝利したのは共産軍でしたが、戦略的勝利を得たのは米空軍だった、とも言えます。

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https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/195885/b-29-walk-through-fuselage/
5機のMiG-15を撃墜した、とされるB-29「コマンド・デシジョン号」


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37mm弾の直撃をうけたB-29「コマンドディジョン号」のフラップ。


参考

世界の傑作機 No.97 MiG-15 ファゴット MiG-17 フレスコ(湯沢豊編 ISBN978-4-89319-097-0 2003年1月15日)
世界の傑作機 No.93 ノースアメリカンF-86セイバー (文林堂 ISBN4-89319-092-X 2001年5月5日)
クリムゾンスカイ(J.R.ブルーニング 著 手島尚 訳 ISBN4-7698-2331-2 2001年12月15日)
オスプレイ軍用機シリーズ38 朝鮮戦争航空戦のエース(ロバート.F.ドア著 藤田俊夫訳 ISBN4-499-22817-4 2003年10月10日)
超空の要塞:B-29(C・E・ルメイ B・イェーン 渡辺洋二 ISBN978-4-257-17237-1 1991年4月10日)

RUSSIA BEYOND

Korean War: How the MiG-15 put an end to American mastery over the skies
(2017年4月27日 Rakesh Krishnan Simha)

MiG Alley: How the air war over Korea became a bloodbath for the West
(2017年3月23日 Rakesh Krishnan Simha)
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