「日本海軍の水上機運用」 ~水上機の可能性と限界~

文:烈風改


■日本海軍における水上機の導入


 日本海軍の水上機が実戦に投入されたのは青島攻略戦が最初ですが、当時の運用は偵察・連絡が主であり攻撃(爆撃)は水平爆撃の精度が低いため、実効的な攻撃力としての効果は薄かったようです。

海軍零式観測機 (世界の傑作機 NO. 136)

文林堂
売り上げランキング: 254,618

 水上機の運用方法は、大別すると水上機部隊を攻略地域に展開させ支援を行うものと、飛行甲板を持たない空母以外の艦艇にも搭載が可能な点を生かし、艦隊の作戦任務に艦載機として従事させる二通りがあります。

 水上機部隊の展開運用を目的として整備されたのが水上機母艦ですが、当初の水上機母艦は航空母艦と異なり、発着プラットフォームというより、移動支援母艦という色合いの強い艦艇でした。本格的な水上機専用艦艇の運用はワシントン軍縮条約直後の大正12(1923)年に特務艦(運送艦)籍のまま水上機母艦に改装された能登呂がその嚆矢と言えるでしょう。

 昭和7年の第一次上海事変に出動した水上機母艦能登呂は、沿岸に水上機基地を展開、地上作戦の支援に従事しました。この時、沿岸部から離れた外洋で行動する航空母艦は天候の影響を受けやすい等、母艦への制約がそのまま航空部隊の活動へ直結するデメリットがあるのに対し、水上機部隊は長期間、地上部隊とより密接な連携が可能だったことは大きなアドバンテージでした。同事変での能登呂水上機部隊の活躍が評価されたためか、昭和8年にはさらに特務艦(運送艦)神威も水上機母艦に改装され、当時策定中だった②計画には新規建造の水上機母艦が3隻含まれることとなりました。(但し内二隻は甲標的母艦も兼ねる)

 一方、艦載水上機の新たな用途として有力視されたのが、航空砲戦観測でした。大口径化により艦砲の長射程化は著しかったのですが、これに艦艇の照準システムが追従することが困難となり、航空観測によるサポートが試みられたのです。昭和6年度以降は戦艦・重巡で航空観測訓練が実施されるようになり、砲戦観測は艦砲の命中率を左右する重要な要素となりました。砲戦観測機を他艦や陸上基地等に頼るのでなく、艦砲を持つ水上艦艇自身が艦載し任意の時点で迅速に使用可能、という点は大きな利点でした。

 この頃、艦載用の水上機として期待されたのは、前述のような艦隊決戦時の砲戦観測と敵の砲戦観測妨害の撃退を可能とする「複座水上戦闘機」でした。この機体は名称こそ複座「戦闘機」ですが、実態としては砲戦観測、近距離偵察、対空戦闘、爆撃、をこなせる多用途機として構想された機体でした。これらの機体はフロートの脱着により母艦機と共通機材とする構想があり、三菱や中島で八試複座戦闘機として試作されています。

 結果的にこの欲張りすぎた構想は上手くいかず、海軍は不採用となったこれらの機体をベースとした複座水上機である「十試観測機」の試作を要望しています。


■日華事変による水上機への高評価と新機材開発

 昭和12年に勃発した中国軍との全面衝突-日華事変では、②計画の水上機母艦は未だ未就役であり、在来の水上機母艦に加えて貨客船改装の特設水上機母艦が投入されました。この日華事変劈頭における九五式水偵の大活躍は評価され、進攻・上陸作戦時の航空支援任務における水上機部隊の重要性は当時の日本海軍で確固たるものとなったと言えるでしょう。後の真珠湾攻撃後の南方攻略戦において、特設水上機母艦は増強され上陸戦の支援に効果的に活用されています。

 このような水上機に対する高評価を背景に計画された十二試二座水偵は、再び多用途性に重点が置かれ、さら不足する空母戦力の補完となる水上急降下爆撃機をも兼ね、重巡搭載の水上機を糾合した水上攻撃機部隊の編成までも視野に入れた機体となりました。しかし、複座水上戦闘機と同様に多過ぎる要望に機体設計が追いつかず、性能的な問題から採用は見送られました。

 さらにこの頃から、艦艇搭載航空機も空母搭載機を主体とする構成へとシフトし、観測機や偵察機を含む次世代試作機は非フロート式の艦上機へと置換される方向へ切り替わっていきました。次期複座水上機の開発は中止こそされなかったものの、従前よりかなりトーンダウンした状態で継続されることとなります。

 また挫折した二座水偵と異なり要求値がさほど高くなく、(後に零式水偵として採用となった)十二試三座水偵は長距離偵察と夜偵に代わり夜間触接とを主目的とした水上艦艇用の搭載機として昭和15年に採用されました。開戦以降の搭載水上機が零式三座水偵だらけとなるのはこのような経緯もあったと思われます。

 また、以降の艦載水上機の新規開発は空母部隊よりも先行する潜水艦部隊用の偵察機(十四試高速水偵)のように特殊な機体へと限定されつつありました。


■上陸戦用水上機部隊

 一方、日華事変の上陸戦における活躍によって基地航空隊が進出するまでの間や、そもそも飛行場の設営が困難な場所での航空支援という目的に水上機部隊は最適な兵器と認識されるようになりました。この水上機部隊による上陸作戦支援というパッケージを強化する目的で作られたのが、単座水上戦闘機という新カテゴリの機体です。

 この機種は前述の複座水上戦闘機とは異なり、上陸作戦時に水上機部隊の天敵である敵航空兵力の妨害を自力で排除することを目的として構想された機体なので、計画初期は水上機母艦での直接運用も考えられていたようですが、中途より艦からの射出運用を考慮しない基地専用の機材となりました。そもそも局地戦闘機の水上機版という立ち位置で、射出機による運用が見られないのはこのためだと思われます。これら水上戦闘機に要望された速力のハードルが当時としては極めて高いのも、敵の戦闘機部隊を迎撃撃退する能力を求められていたという背景によります。

 この単座水上戦闘機は昭和14年末に、前述の高速水上機(十四試高速水偵)を開発していた川西航空機で開発が始まりますが、開戦が迫る状況に対応し、昭和16年に応急改修機の二式水上戦闘機が開発され、第二段作戦の進攻作戦に間に合わせることが出来ました。

 ガダルカナルにおける戦闘で、飛行場と航続距離の問題から進出できない零戦隊に代わり、集成水上機部隊・R方面隊は特設水上機母艦によりショートランドに基地を設営し、中継基地ブインの完成まで前線の航空支援を良く支えました。R方面隊は、昭和17年11月までに初期の進出機がほぼ壊滅したものの、前述のような戦前の構想通りの活躍を果たしたと言えるでしょう。しかしながら、この上陸支援水上機部隊構想も進攻作戦の停止共に終焉を迎えることとなりました。


■水上爆撃機計画の再来

 また、次期複座水上機である十四試水上偵察機の開発は愛知飛行機で継続されており、昭和17年には試作機が完成しました。

 当時ミッドゥェー海戦の有力空母喪失により生じた艦載艦上爆撃機戦力の不足(小型空母は十分な数の艦爆・艦攻を運用できない)という窮状に対応するため、航空戦艦が改装・配備さましたが、肝心の新艦爆・彗星に配備遅延が生じてしまいます。

 このため当時未だ主力の地位にあった九九艦爆と、スペック上は同等以上の性能を持つ十四試水上偵察機-瑞雲が脚光を浴びました。これにより本来彗星の臨時プラットフォームとして予定されていた航空戦艦の搭載機として瑞雲の転用が図られたのです。

 戦力化を急がれた瑞雲に対しては、かつての十二試二座水偵と同様に万能機化が要望されるようになり、20ミリ機銃の増設が図られるなど、昭和12年頃に構想された水上爆撃機計画の再来を思わせる状況となりました。しかし、戦線が本土に接近した状況では、基地が豊富にあり、無理に航空戦艦から発進する必要性も低下、結局瑞雲を航空戦艦で運用する機会は訪れませんでした。

 瑞雲はガダルカナルの島嶼戦で得られた戦訓を元とした、夜間攻撃や小舟艇狩りといった水上機のハンデや特性を取り入れた作戦に投入され、フィリピン・沖縄で末期の日本海軍航空部隊を支えました。

<著者紹介>
烈風改
帝国海軍の軍艦、特に航空母艦についての同人誌を多数発行。
代表作に『航空母艦緊急増勢計画』
Twitter: https://twitter.com/RX2662

タミヤ 1/48 傑作機シリーズ No.54 日本海軍 愛知 M6A1 晴嵐 プラモデル 61054
タミヤ(TAMIYA) (1997-06-26)
売り上げランキング: 38,822