空自の日本防空史75
平屋を2階建てに


文:nona


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防衛庁50年史に掲載された、1988年頃のF-16改造案。

戦闘機屋人生―元空将が語る零戦からFSXまで90年
前間 孝則
講談社
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米国内の議論で開発開始は先延ばしに

 1987年10月にFS-XはF16改造案とすることが決定され、12月には来年度予算として開発費が計上されたものの、設計範囲の分担や技術開示事項をめぐり米国内で議論があり、開発は先延ばしにされました。

 1988年11月、両政府間で共同開発のMOU(了解事項覚書)が交わされますが、翌1989年に、対日技術供与の内容が米国に不利である、と米議会のタカ派議員や商務省がFS-Xの共同開発に反発します。

 反発の理由は、日本に航空機の開発技術を提供した場合、民間航空機の開発に転用され、将来的に米航空産業を脅かすのではないか、との危惧によるものでした。

 一方、米政府や国防総省としては、国防政策において日本を独立はさせるようなことは避けたいため、ある程度は協力の姿勢を示す必要がある、と考えており、議会や商務省とは意見の相違があったようです。

 1989年7月、米国議会は両院共同で対日技術関与条件を付すようにブッシュ大統領へ要求しますが、ブッシュ大統領は拒否権を行使し、要求を差し戻します。

 米議会では再議決が行われたものの、「1票の差」で可決されず、これをもって開発協定の大枠が定まります。


不平等な共同開発協定

 とはいえ、共同開発協定の内容が日本にとって不利なものであったことに変わりはなく、日米のワークシェア率が6対4と定められ、米国からの技術開示に制約が課された一方、米国の求めに応じ日本は技術を開示する、という規定が課されています。

 その一例として、CFRP一体成型主翼の生産技術は米国へ移転されており、後のF-2戦闘機の左主翼は米国で生産されています。

 米国が日本の技術を要求した背景には、日本の航空技術は米国が供与したものが源流であるため、それを米国に還元するのは当然、という少々横柄な考えがもとになっているようです。

 その一方で、米国の飛行制御技術など主要アビオニクス8項目の情報は非開示とされ、有償のブラックボックスとしてのみ供与することが許されました。

 この協定の内容に関し、国内の多くの専門家が批判していますが、唯一、日本航空宇宙工業会は「米国流情報管理に象徴される航空機技術に関する国家レベルでの戦略/駆け引きといった事項も体験するチャンスとなった」と奇妙なほどポジティブに記しています。

 これが執筆された2000年代には、日本から多くの企業がボーイング社の旅客機開発事業に参画していたため、表立っての批判は憚られたのかもしれません。


設計チーム発足

 FS-Xの 設計チームFSET(Fighter Surport Engineering Team)は1990年3月に三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所にて発足しました。

 発足当初の人員構成は三菱重工72名、川崎11名、富士11名、GD(ジェネラル・ダイナミクス)社の10名で、最盛期は330名に達しています。

 FSETのリーダーは三菱重工の神田國一氏。かつて三菱MU-2やT-2練習機、T-2CCVの研究開発に携わった技術者でもあります。

 チーム内の公用語は日米政府間協議で英語と定められており、留学経験のある一部の社員が会議で同時通訳を担当し各員も独自に英語を学習、各種資料の翻訳もおこなわれたものの、当初はまともな会議ができなかったそうです。


情報開示の制約

 日本に派遣されたGDの技術者はいずれも優秀な人々であったようですが、日米協定で定められた技術情報の開示制限のため、十分な協力は得られませんでした。

 GD側は担当部分の設計はしっかり行うものの、基本的に日本の担当部分はノータッチであり、設計に誤りがあっても見て見ぬふりをしたそうです。

 神田氏によると、開発当初のGDの技術者は技術情報の開示制限に疎い面があったようですが、防衛庁の審査会で制限に抵触する発言をしてしまい、そのために技術者全員が米空軍の派遣少佐に呼び出しをうけ、以降は「青菜に塩をかけられた」ように委縮し、非協力的な姿勢をとることも少なくなかったようです。

 神田氏としては日米両国の技術者が互いに技術論議を重ね、設計をより良いものにしたいと期待していただけに、これが果たされず残念であった、としています。


平屋を2階建てに改造するようなもの

 神田氏は講演会などで「改造開発は、新規開発に比べどのくらい容易か?」という趣旨の質問を各所でうけたそうですが、その質問には「平屋を二階建てに改造するようなもの」と返していたそうです。

 ジャーナリストの前間孝則氏によると、神田氏は「自分としては二階建ての瀟洒な家をデザインするのがベストですね、ところが先に平屋をあたえられましてね、これを二階建てにしなさいという。私たちはF16の設計者の本当のところまではわからない。それを図面や資料でくみ取って再設計するようになったわけです」と語っていたようです。

 テストパイロットとしてXF-2初飛行させ、後に三菱重工の小牧南工場長となった渡邉吉之氏は「(垂直尾翼を除く)主翼、尾翼、胴体、インテイク、すべて日本で線を引き直しました。」と語り、FS-Xは外観こそF-16に類似するものの、細部は別物である、としています。
(渡邉氏はFS-XとF-16を三菱自動車の製品に例え「パジェロとプラド」、あるいは「パジェロミニとパジェロJr」ほどの違いであるとも語っていますが、私にはマニアックすぎて違いがわかりません。)

 また、渡辺氏は再設計におけるエピソードの一つとして、インテイクの再設計時にGD側が「最良のインテイクがF-16に付いているのに」と日本側に不満を示した、としています。

 F-16Cのインテイクは、FS-Xで使用されるF110エンジンへの最適化がすでに実施されており、日本側がやろうとすることが、無意味に思えたのでしょう。

 しかし、試験の結果、日本で設計されたインテイクが優れていたそうで、日本のエンジニアの優秀な能力を米国に見せつける機会となったようです。


次回に続く


参考

航空自衛隊F-2(イカロス出版 ISBN978-4-87149-475-5 2003年7月20日)

戦闘機屋人生 元空将が語る零戦からFSXまで90年(前間孝則 ISBN978-4-06-213206-0 2005年11月29日)

主任設計者が明かすF-2戦闘機開発(神田國一 ISBN978-4-89063-379-1 2018年12月15日)

日本の航空宇宙工業 50年の歩み (日本航空宇宙工業会 2003年5月)

戦闘機パイロットの世界“元F-2テストパイロット”が語る戦闘機論(渡邉吉之 2017年9月10日)

三菱重工技報 Vol.33 次期支援戦闘機“XF-2”の開発(神田國一,亀山忠史,小山敏行,川崎治憲 1996年5月)
https://www.mhi.co.jp/technology/review/abstractj-33-3-154.html

戦闘機パイロットの世界――“元F-2テストパイロット
渡邉吉之
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