支那事変における砲兵の自衛について ―概説編―

文:たわわ星人


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 はじめに

 昭和十二年七月に発生した支那事変。
 最初期から参加した国軍砲兵は歩兵支援、城壁破壊等に活躍するものの大きな被害を受けました。

 国軍砲兵はどのような自衛装備で事変を戦ったのか?そして、どのような教訓を得たのか解説します。

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支那事変以前の砲兵の自衛について

 国軍砲兵は野砲及び山砲を装備する野戦砲兵と要塞砲や攻城砲を装備する重砲兵(要塞砲兵)に大別されます。

(1)野戦砲兵

 日清戦争では小銃は装備せず。日露戦争では騎銃を装備したといわれています。
 シベリア出兵では小銃を装備しなかったため、パルチザンとの戦闘に苦心することとなりました。
 小銃を持たなかった背景には「砲兵は本領一途に徹すべし」「自衛位に火器の二重装備は贅沢なり」との考えがあったといわれています。

(2)重砲兵

 重砲兵の砲手は全員小銃を携行しており、日露戦争においては小銃戦闘で感状を授与された部隊もありました。
 大正十四年に小銃の携行数(中隊に二十四)が定められた結果、自衛戦力が激減することとなりました。


理想の自衛戦力 『戦時編制改正案』昭和十一年五月 陸軍野戦砲兵学校

 陸軍野戦砲兵学校は砲兵の自衛装備をどのように考えていたのか、支那事変の前年、昭和十一年五月に出された『戦時編制改正案』に一端を見ることができます。

 『戦時編制改正案』の「野砲兵聯隊編制改正ノ要点」では、野砲兵聯隊(四大隊三中隊編制)の観測、通信、編制と並んで自衛装備の項目があり「今次事変ノ結果並仮想敵国ノ慣用戦法等ニ鑑ミ(略)対空対地自衛力ヲ整備ス」としており、おそらく満洲事変の経験と仮想敵国であるソ連を念頭に置いて考えられていたことがわかります。

上記改正案における自衛装備の特徴として以下の点が挙げられます。
・軽機関銃が装備されていない。
・自動小銃が装備されている。(中隊に三十七)
・拳銃の携行数が多い。(中隊に四十五、内三が機関短銃)
・地雷の携行数が多い。(中隊に百十二)
・化学戦の資材が各編制に行き渡っている。

 この改正案は、野戦砲兵学校が考えた理想的な編制の為、実際には存在しない自動小銃が装備に含まれていること、戦車及び化学戦に対応するために地雷や化学戦資材を多量に配備していることが興味深いです。


支那事変参加部隊の自衛装備と戦訓について

 支那事変に参加した部隊の自衛装備及び事変で得られた戦訓はどのようなものであったのか。例として野戦砲兵である山砲兵第二十七聯隊(支那駐屯砲兵聯隊)と重砲兵の独立攻城重砲兵第二大隊について解説します。


山砲兵第二十七聯隊

 山砲兵第二十七聯隊は、昭和十一年五月に北支の山海関で支那駐屯砲兵聯隊として編成された部隊です。創設時は山砲一大隊(二中隊)、野戦重砲一大隊(二中隊)という特殊な編成となっています。

 聯隊は事変発生当初から戦闘に参加。特に山砲大隊は歩兵直協の任務多く、昭和十二年九月、馬敞進撃中に第一大隊長松本春彦少佐が戦死し、十月には徳州・二十里舗の戦闘で大隊副官飯富大尉、中隊附古賀中尉が戦死する等、敵歩兵との戦闘により幹部を含む大きな被害を受けています。

 武漢攻略戦中の昭和十三年六月二十一日に山砲兵第二十七聯隊に改称、山砲二大隊(各三中隊)、野戦重砲一大隊(三中隊)、観測中隊に改編となりました。

 昭和十三年六月より開始された武漢攻略戦時、山砲兵第二十七聯隊の聯隊副官であった大橋武夫大尉は『武漢攻略戦ニ於テ得タル教訓』(昭和十三年十一月)において自衛兵器について以下の四項目を挙げています。

1.軽砲
「十五榴部隊ニハ近接戦闘用トシテ軽砲(旧式ノモノニテモ可ナリ)ヲ装備スルヲ要ス」

2.小銃
「中隊ニ約八〇ノ小銃ヲ装備スルヲ要ス」
「砲兵ノ自衛兵器トシテハ小銃ヲ最モ適当トス」

3.拳銃
「通信手ノ約半数ニハ拳銃ヲ携行セシムルヲ要ス」

4.武漢作戦時において山砲兵第二十七聯隊が携行した自衛兵器数
C95-1
※三八式騎銃が二項目あるがおそらくどちらかが「三八式歩兵銃」と思われる。


 大橋大尉は、上記の自衛兵器をもって砲兵独力の自衛の目的を達したと判断しています。


独立攻城重砲兵第二大隊

 独立攻城重砲兵第二大隊は、由良要塞(現・兵庫県洲本市由良)の一部である深山地区に置かれた深山重砲兵聯隊から編成された部隊です。

 昭和十二年七月動員となり、二中隊編成、八九式十五糎加農八門を装備。八月十三日に大連へ上陸しました。九月中旬の房山及七里店附近の戦闘以降、北支を転戦、十一月に上海に移動、南京攻略戦及び武漢攻略戦、南昌攻略戦に参加。また、警備においては、残敵等の討伐を行っています。

独立攻城重砲兵第二大隊の人員と装備(昭和十二年七月)
C95-2

 上記のように編成時の自衛兵器は小銃のみでしたが、昭和十二年九月二日に自衛兵器として「チェッコ」機関銃一、鹵獲小銃十四、弾薬一三〇〇発を受領との記録もあり(『陣中日誌 自昭和十二年九月一日至昭和十二年九月三〇日 独立攻城重砲兵第二大隊本部』)、その後も鹵獲兵器を自衛兵器として装備していると思われます。

 昭和十三年六月十三日付の『野戦兵器長官視察ニ関スル報告 兵器ノ現況並兵器ニ関スル意見』において独立攻城重砲兵第二大隊が装備する自衛兵器の現在数及び定数、改正の希望数が掲載されています。
 なお、上記の鹵獲兵器等は計上されておらず、不明です。

 また、自衛兵器についての問題点として以下を挙げています。

・自衛兵器が部隊の人員数に比して著しく少数であり、鎮江警備に不便を感じる。
・戦闘間、特に後方攪乱を企図する敵に対する為の自衛力が極めて小さい。
・火砲の射撃準備には相当の地域と少なくとも一時間は必要であり、臨機の射撃が実施不可能なことに加えて小銃数が著しく少数である。 

独立攻城重砲兵第二大隊の自衛兵器と改正案(昭和十三年六月)
C95-3


 その後も部隊は改正案を度々出しています。
 『独立攻城重砲兵第二大隊関係史料 ―作戦ノ経験ニ基ク八九式十五加大隊自衛装備ニ関スル意見―』(昭和十四年)は独立攻城重砲兵第二大隊が今までに提出した自衛関係の意見をまとめたものです。

・「「攻城」ハ名称ニ過キスシテ実質ハ終始野戦砲ト行動セリ(略)攻城砲ナルノ故ヲ以テ自衛装備ヲ軽視スルカ如キハ八九式十五加ニ関スル限リ絶対許スヘキモノニアラス」
・「前進間ハ勿論放列布置間ト雖モ火砲ヲ以テ敵襲ニ対処スル自衛目的ノ達成ハ一般ニ不可能ナリ」
・「八九式十五加大隊ハ戦斗ノ為ノ前進並戦斗間通常軽車団(観測機関ヲ主トス)戦砲隊及段列ノ三団ニ分割シ各梯団毎ニ独立行動スルヲ通常トス(略)各機関ニハ独立セル自衛力ヲ具備セシメ置クコト絶対必要ナリ」
・「警備間ニ於ケル自衛兵器ノ必要モ亦痛感スル所大ナリ」

独立攻城重砲兵第二大隊の自衛兵器(昭和十四年三月)
C95-4

 さらに詳しく各編成の自衛装備に言及しています。

大隊本部
・本部自隊において警戒しなければならない場合が多いことから重機もしくは軽機を主体とした警戒小(分)隊が必要である。
・通信手には拳銃が必要。
・観測所には敵襲に対し自衛の処置を講ずることが必要。
・観測斥候要員には自衛火器の携行が必要。

中隊
・観測小隊は本部に準ず。
・戦砲隊は大砲による自衛は不可能な為、十分な自衛装備が必要。
・道路橋梁等の制限を受けることが大きく、戦場に遅れて到着する場合が少なくない為、戦砲隊に自衛上の独立性を付与することが必要。
・放列陣地は観測所と殆ど常に離隔し独立しており、自衛警戒は戦砲隊自ら実施しなければならない為、重機又は軽機主体とする小銃二個分隊程度の自衛力が必要。

大隊段列
・常に大隊主力と独立行動するため、自衛装備も独立性の付与が必要。
・各車両に所要の小銃のほか、各小隊に軽機一が必要。


支那事変の戦訓から

 支那事変によって砲兵の自衛戦闘についての考え方はどのように変化したのか?
 前述した山砲兵第二十七聯隊の大橋大尉の報告及び独立攻城重砲兵第二大隊の改正案が提出される前ですが、昭和十三年六月の教育総監部『事変の教訓 第四号 砲兵訓練の部 昭和十三年六月』に「砲兵ノ自衛」として一項目が立てられています。

 ここでの自衛は対地上(対歩兵)、対空のみであり、特に航空機による空襲は射撃して撃墜することだけであり内容も不足が多いものでした。


・大本営陸軍部『対支作戦参考資料 (教)其の七 (野戦砲兵将校陣中必携) 昭和十三年十月』

 はじめて、対地上(歩兵、戦車)、対空、対瓦斯からの自衛、また、行軍間、戦闘間、宿営間における自衛という区分が見られるようになりました。

 なお、要旨と行軍間の自衛についてほぼ同様の内容が『偕行社記事 抄録 昭和十四年十二月』に陸軍野戦砲兵学校「野戦砲兵将校ノ参考自衛ニ就テ」として掲載されています。


・陸軍野戦砲兵学校『自衛ノ研究』 昭和十三年十月十七日

 おそらく陸軍野戦砲兵学校内部で使用されていた資料であり、前述の『対支作戦参考資料 (教)其の七 (野戦砲兵将校陣中必携) 昭和十三年十月』と同様に要則、行軍間、戦闘間、宿営間の自衛という区分で記述されています。

 特徴としては、張鼓峰事件後という背景からか対戦車戦闘を強く意識しており、火砲、小銃、地雷による肉薄攻撃による戦闘について詳細に解説しています。
 また、教育及び教練の為、各章は非常に詳細な解説がされています。


・陸軍野戦砲兵学校『野戦砲兵自衛ノ参考』昭和十四年二月

 序に「未ダ教育訓練ノ準縄タルベキ良参考書ナカリシヲ以テ教導聯隊ノ将校ヲシテ外征教育繁忙ノ間拙速ヲ主トシテ本書ヲ編纂セシメタルニ各隊ニ於テ本書ヲ希望スルモノ多キヲ以テ」公刊したとしています。

 内容は「自衛ノ対象ヲ対地上(対徒歩兵、対機甲)対空、対瓦斯ニ置キテ先ヅ自衛一般ノ要則ヲ述ベ行軍、戦闘、宿営間ニ於ケル各種野戦砲兵ノ基本動作ヲ記述シテ初心者ニ対シテモ自衛ヲ容易ニ了解セシメ併セテ教育計画及教練計画ノ一例、自衛教育ノ参考、戦例集等ヲ添附シ以テ戦地及内地ニ於ケル教育訓練ニ便ナラシメタリ」とあるとおり『自衛ノ参考』とほぼ同様ですが、「自衛教育ノ参考」として以下の一篇と『自衛ノ研究』に目次のみであった戦例集が追加されています。


おわりに

 以上、簡単にですが、支那事変における国軍砲兵の自衛装備と戦訓についてまとめました。

 支那事変以前の昭和十一年五月に陸軍野戦砲兵学校が提出した『戦時編制改正案』は砲兵が理想とするものでしたが、自動小銃の装備など実現が困難な内容でした。

 昭和十二年七月以降、支那事変での自衛戦闘を経験した山砲兵第二十七聯隊及び独立攻城重砲兵第二大隊は自衛兵器の定数が少ないことが問題となりましたが、鹵獲兵器の運用によって砲兵による自衛の目的を達成しています。

 さらに、現地部隊の戦訓をもとに『自衛ノ研究』や『野戦砲兵自衛ノ参考』といった教育、教練の参考書が拡充されることとなりました。


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支那事変における砲兵の自衛戦闘 ―概説編―