空自の日本防空史45
基地抗堪化の推進と施設隊


文:nona


45
http://www.mod.go.jp/asdf/wadf/activi/activ3/26act/2608/index.html
西部航空方面隊の滑走路被害復旧訓練で爆破される模擬滑走路

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基地抗堪と修復

 1980年代以降、空自基地の防空体制が強化されていますが、これと並行して基地施設の抗堪化工事も進行しています。

 これまで後回しにされていた抗堪化施策は1976年の防衛計画の大綱策定に伴い具体化し、1978年ごろから複数の研究チームが組織され、1980年代以降の抗堪施設の建設態勢が整えられました。

 当時建設された主要な抗堪化施設には、1980年から建設された航空機えん体(後述)が挙げられますが、1982年より重要施設の抗堪化工事も進められています。

 1987年以降は航空基地の電源系統が見直され、商用電源、予備電源、局所予備電源の3重電源化と、電源ケーブルの二重化工事が実施されています。

 航空機燃料タンクは以前から地上盛土式だったものの、法規制の緩和をうけ1996年から燃料タンクの地下化が実現。同年には航空基地の航空団戦闘指揮所(WOC)も地下化工事が開始されました。

 レーダー網の抗堪性は、バックアップの移動警戒隊を12隊へ増勢(後にE-767導入の兼ね合いで削減)し、1990年からサイト自体の抗堪性も強化。

 抗堪化されたサイトではレーダーアンテナと信号処理装置の隔離され、一度の攻撃で複数の設備が無力化されない体制が整えられています。


航空機えん体(掩体)

 抗堪化施設の代表例として挙げられるのが航空機えん体です。
 航空自衛隊を中心に防衛庁の施設建設部と装備局工務課、防大の土木工学教室、技本第四研究所の5社体制の研究体制で行われ、さらに米空軍のTAB-VEE硬化航空機シェルターも参考に設計されました。

 これらのシェルターはいずれも鉄筋コンクリート製で対爆扉を有し、戦術核を含む爆風や化学兵器、ナパーム弾やクラスター爆弾に抗堪するものです。

 米軍は1969年に最初のシェルターが完成し、冷戦の終結までに1000個ほど建設していますが、ゲリラ部隊の迫撃砲に対抗する目的で南ベトナムでも建設されました。

 欠点としては高貫通力兵器の直撃には耐えられない点が挙げられ、以前は貫通弾頭を搭載した無誘導空対地ロケットが、現在は各種精密誘導兵器が航空機えん体の天敵となっています。


建設が遅れる航空機掩体

 空自の航空機えん体の建設費用は当初1個あたり3億円強で、1機100億円と言われたF-15戦闘機の入れ物として申し分のないものでした。

 防衛庁の夏目晴雄官房長(後に防衛大学校長 )は、国会で1986年までに5基地へ69基のシェルターを建設し、計画達成後もその数を増やす方針を表明しています。

 もっとも、肝心のF-15J導入で予算がひっ迫しており、計画期間内に所定の数を建設できなかったようです。

 また新千歳のシェルターを視察した民社党の柄谷道一議員によると、パイロットの待機所まで抗堪化が及んでおらず(有事には周囲に土嚢を積むと説明されたそうです)、防衛庁は正面と後方のバランスを欠いている、と批判されました。

 さらに、アメリカ空軍が駐留する青森県の三沢基地、沖縄県の嘉手納基地においては防衛庁の在日米軍駐留経費負担(いわゆる思いやり予算)によって、(空自のえん体が不足しているにもかかわらず)シェルターが建設されるなど、批判の対象となっていました。


施設隊が活躍する滑走路の修復

 空自の基地施設は1980年代以降、次第に抗堪性を高めていますが、滑走路だけは抗堪性の向上が困難であるため、攻撃で破損した滑走路をいかに素早く復旧させるか、という方向での対策が進みました。

 滑走路の修復は1961年に創設された施設隊が担当しており、1979年から模擬滑走路の爆破による滑走路被害復旧訓練が実施されています。

 現状の能力としては500ポンド級爆弾2発の弾痕を4時間以内で対応できるよう訓練されているようですが、これは平時に維持している必要最低限の能力であり、有事においては基幹要員に増強要員と部外協力をうけ、部隊を増強する方針が採られています。

 余談ですが、この爆破訓練では付近に試験車両や施設を傍らに置き、対爆性の試験を行う場合もあるそうです。


施設隊の装備

 施設隊では一般的な重機に加え、1977年以降に滑走路復旧用のアルミマット、1993年から軽量で展張しやすいグラスファイバー製マットを導入しています。

 これらはアメリカからの輸入品でしたが、かつては日本独自の装備を開発しようと、空自は技術研究本部に対し、滑走急速復旧資材の研究を依頼したこともあります。

 研究期間は1975年から77年の間で、浮上コンクリートを砕くモンロー効果爆薬や弾痕を修復する有機化学系材が検討されたようですが、実用化に至りませんでした。

 さらに1990年にも技本へ「弾痕復旧用資材」を依頼していますが、これも実用化されず、翌年に前述のグラスファイバーマットが導入されています。

 この他の施設隊独自の装備として1977年から偽装網や簡易防護壁が増強されており、土嚢等と組み合わせ、抗堪化されていない施設や航空機を隠掩蔽に使用されます。


高速道路を代替滑走路に

 諸外国において有事に高速道路など自動車専用道を代替滑走路に転用する計画があり、海外ではロードベース、ハイウェイストリップとも呼ばれました。

 当時は世界的な流行もあって陸自の永野茂門陸幕長が代替滑走路の検討を公言し、夏目官房長も「これは必要であると私は考えております。」と賛成を表明。

 ただし直後に永野陸幕長はコズロフ事件の責任を取る形で辞任したほか、夏目氏も後になって「公式に検討したことはない」と発言するなど、現実に向けた具体的な動きはありませんでした。

 空自が高速道路の使用を検討していたかは不明ですが、北海道内の2か所の空自分屯基地に休眠状態の代替滑走路が存在し、非常とあれば民間の飛行場も活用されますので、あえてハードルの高い自動車道の転用は不要とされたのかもしれません。


 次回は1983年の大韓航空機撃墜事件を扱う予定です。


参考
航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
防衛施設庁45年史(防衛施設庁史編さん委員会  2007年)
日本の防衛戦力③航空自衛隊(読売新聞社編 ISBN4-643-87032-X 1987年5月14日)

国会議事録
第93回国会 参議院 内閣委員会 1980年11月25日
第96回国会 参議院 安全保障特別委員会 1982年8月4日
第101回国会 衆議院予算委員 1984年3月9日
第102回国会 参議院 内閣委員会 1985年6月20日


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