空自の日本防空史41
移動レーダーと移動警戒隊の発展 その1


文:nona


 今回からは空自の移動レーダーを解説いたします。

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埼玉県入間基地で展示されるJ/TPS-100

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移動レーダーの必要性

 元来レーダーサイトは敵に真っ先に狙われる存在でありながら、脆弱なアンテナは隠掩蔽できないため、とても守りにくい施設でもあります。

 よって有事にレーダー設備が破壊されることを前提として、機能を代替する移動式レーダーが防空組織には不可欠ですが、創設から間もない空自には運用部隊を持つ余裕がなく、米軍から供与された移動レーダーAN/TPS-1Dも固定運用せざるを得ませんでした。

 この状況が見直されたのはBADGEシステムの開発にめどが立った1964年のことで、同年から移動レーダー導入の検討が開始され、運用要求が固まった1967年に各メーカーへ提案要求書(RFP)を上記メーカーへ送付しています。


移動レーダーへの要求

 要求書の内容を要約すると、

①期待する性能は現用レーダー(FPS-20)と同等ながら、測高精度・同時処理目標数はゆるやかな値とする

②機動性については、車両、ヘリコプター(V-107)および開発中の次期輸送機(XC-1)による輸送を要求する。

③運用方法ではBADGEとの自動連接を見送る。

というもので、当初はシステムの機動性を考慮し幾分の性能低下も許容していました。

 ただし、レーダーとは別に高度な手動式管制機能と複数系統の通信機能も要求されており、システムの肥大化は避けられなかったようです。


日本電気案が採用

 上記要求をもとに各社が作成した提案書を比較検討の結果、68年10月に日本電気案が採用されています。

 日本電気案ではアンテナは二つ折りが可能なプレーン・アンテナで、電波の位相を変化させることで仰角方向の電子走査を可能としています。(某所の説明版では「プレーナ・フェーズドアレイ方式」として解説されています。)

 J/TPS-100の初号機は1971年に受領され、実用試験を経て1973年に運用が開始されました。

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 航空自衛隊五十年史P280より
アンテナ展開時のJ/TPS-100


移動訓練名目でサイト運用中断対処にあたる

 J/TPS-100がまだ実用試験の段階にあった1972年秋、当時としては異例の長期移動訓練が実施されています。

 当時石川県の輪島分屯基地でJ/FPS-1への換装工事が予定されていたものの、同地は狭隘な土地に設けられており、建設作業の困難から運用中断の長期化が懸念されました。

 当初は高射隊の捜索レーダーを設置する案も上がったようですが、最終的に実用試験中のJ/TPS-100が選ばれています。

 ただしJ/TPS-100は制式化前の装備であり、運用部隊の臨時第一移動警戒隊も正式に任務付与されていなかったため、航空総隊にて慎重に検討調整が重ねられ「移動訓練」名目での派遣となりました。

 これをうけ臨時第一移動警戒隊はJ/TPS-100一式と人員39名をトラック15両に搭載し三沢基地を出発。約1000kmの道のりを3日間で走破して輪島分屯基地へ到着しています。

 現地においては積雪対策としてレーダーアンテナにFPS-6用のレドームをかぶせた上で、10月18日から電波を発信して訓練運用を開始。J/FPS-1の換装が完了する1974年3月まで継続されました。

 この訓練においてJ/TPS-100は予想を上回る好成績を残したそうですが、1973年2月の航空総隊による能力評価では機材に不具合が出て不合格となり、5月下旬に再評価をうけています。(今度は合格したようです)


大韓航空機の撃墜をとらえた(?)J/TPS-100

 1983年9月1日、大韓航空のボーイング747が誤ってソ連領空に侵入、樺太を横断した直後にMiG-23戦闘機によって撃墜され、乗員乗客269名(うち日本人28名)が死亡する大事件が発生しました。

 撃墜されたのは宗谷岬から北北西に100kmの地点で、稚内のレーダーサイトからはまさに目と鼻の先の場所でした。

 しかし、事件当時NHK稚内通信部に所属していた小山巌氏によると、事件の前後で稚内レーダーサイトは定期点検のため停止中で、「移動式小型レーダー」(J/TPS-100)が臨時に派遣された、としています。

 当時防衛庁はレーダーサイトの稼働状況を非公表にしたそうですが、事件当日に稚内を飛んでいた報道ヘリコプターからは移動式のレーダーが確認できたのだとか。

 移動レーダーは固定式の警戒管制レーダーよりは精度が劣るため、最初に公開された大韓航空機とそれを撃墜したソ連機の航跡情報に乱れが生じており、後日根室レーダーサイトの捕捉した情報などを用い、航跡に修正が加えられた、と小山氏は推測しています。

 さらに小山氏は、J/TPS-100がBADGEとのデジタルデータリンクに対応していなかったことで、初動対策に混乱が生じた可能性も指摘しています。


肥大化したJ/TPS-100のシステム

 その後のJ/TPS-100ですが、部隊配備は2セットにとどまり、それらは1992年から1993年にJ/TPS-102で代替されて退役しています。

 配備数が伸びなかったのは高機能な手動式の管制機能と複数系統の通信機能を持たせたことで、システムが肥大化したことが原因と考えられます。

 J/TPS-100のシステム一式を動かすには2トン半トラック 40数両、人員約70名が必要であり、当初の要求であった空輸はきわめて困難でした。

 このためJ/TPS-100に続く移動レーダーではシステムの小型化が配慮されています。

 ただしJ/TPS-100の派生として固定式のJ/FPS-2や海自の艦艇レーダーOPS-12が存在し、前者は2018年現在も運用が続くなど、レーダー自体の設計は優秀であったことがうかがえます。

 次回は1980年代以降の移動レーダーを解説いたします。


参考
日本の防衛戦力③航空自衛隊(読売新聞社編 ISBN4-643-87032-X 1987年5月14日)
航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
ボイスレコーダー撃墜の証言 大韓航空機事件15年目の真実(小山巌 ISBN978-4-06-209397-2 1998年10月15日)


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