空自の日本防空史38
警戒管制レーダーの発展 その1


文:nona

 今回からは昭和時代を中心とした空自の警戒管制レーダーと移動レーダーの歴史を解説いたします。

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http://radomes.org/museum/equip/fps-20.html
レドームに格納されたAN/FPS-20(A型)レーダーの透視図

電子戦の技術 基礎編
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米軍が構築した戦後の警戒管制レーダー網

 戦後日本における最初の警戒管制レーダー網は米軍によって敷かれており、当初用いられた機材はAN/TPS-1D捜索レーダーおよびAN/TPS-10D(測高レーダー)で構成される移動式の警戒管制レーダーシステムでした。

 性能はバージョンにより異なるものの、探知距離は150~300km、方位および距離分解能は2~9km程度のようです。
 (レーダーの探知性能というものは、その時々の条件により大きく変動しますが、参考程度に記載しています)

 また、MTI(グランドクラッターを除去し動体目標のみ表示する機能)や2種類のECCM装置、無線によるリレー通信機能など、警戒管制レーダーに求められる機能の追加も可能でした。


朝鮮戦争を契機に恒久的なレーダーシステムを導入

 1950年の朝鮮戦争を発端とする極東における緊張の高まりから、1950年代に大型のAN/FPS-3またはAN/FPS-8捜索レーダー、AN/FPS-6測高レーダーも配備されています。

 これらのレーダーの配備と時を同じくして、空自のレーダーサイト要員育成も開始され、機材と施設は1958年から順次空自へ移管されました。

 AN/FPS-3の探知距離は資料によって異なりますが、おおむね330~400kmの範囲のようです。ただし探知が可能な高度は1万6000mに制限され、高高度性能を高めつつある航空機への対応に不安がありました。

 AN / FPS-8はFPS-3と同時期にGE社が開発した同規模の警戒管制レーダーで、性能も同等とされますが、詳細は不明です。


今もなお日本の防空を担うFPS-20

 AN/FPS-20は米軍から空自へ防空組織の移管が開始された1958年から63年にMSA(アメリカの軍事援助プログラム)で供与された警戒管制レーダーです。
 探知距離は約430kmに、探知可能な高度は最大2万mに延長されています。

 AN/FPS-20は配備から間もない1960年代後半から改修が実施され、真空管部品を国産の半導体部品へ換装したJ/FPS-20K(およびJ/FPS-6K)に改称されました。

 1979年以降も改修があり、サイドローブキャンセラー、ECCM、クラッター抑制圧機能が強化されたJ/FPS-20S(およびJ/FPS-6S)へ再改称されました。

 その後は国産レーダーに置き換えられ順次退役したのですが、21世紀に入ってもなお、一部のJ/FPS-20Sが現役で稼働しています。

 防衛省の資料では2013年に4箇所、2016年以降も2箇所(北海道の襟裳岬と和歌山県の串本)で運用が続いており、2018年度の行政事業レビューでもJ/FPS-20Sは東京計器、J/FPS-6Sは東芝によって定期修理されていることがわかります。

 FPS-20は2度の大改修をうけ、原型よりも性能が高められているはずですが、それでも空自の物持ちの良さには驚かされます。

 なお、J/FPS-6S測高レーダーとの混同を避けるためか、国産警戒管制レーダーとしての「FPS-6」は欠番とされています。


レーダーサイトの施設も強化

 前述のように空自へのレーダーサイト移管が進められた1950年代には恒久的なサイト施設の建設が進み、オペレーション能力が大幅に向上しています。

 まず挙げられるのが硬質ドーム(レドーム)の導入で、1964年度までにAN/TPS-1・10Dを除くレーダーサイトに導入されました。

 これにより台風や強風のたびにレーダーの運用を中断し、アンテナを固縛する作業をする必要がなくなりました。

 通信装置も見直され、当初のVHF/FM系通信装置に加え1958年からUHF、60年からはOH(見通し外通信)も導入され、基地間の無線通信状況が改善されています。


レーダーサイトに商用電源を導入

 サイトの電源は当初自家発電で賄っていたものの、ランニングコスト改善のため商用電源が敷設され、突発停電時用の自動起動装置や60Hzへの変換装置(東日本地域等)も設置されています。

 明治時代以来、日本の商用電源の周波数は東日本が50Hz、西日本は60Hzに二分されており、東日本のサイトではアメリカ(60Hz国)の電気機器動作に不都合があったのです。

 こうした電源周波数の問題は特に有事において深刻な問題となるため、かつて地域によって電源周波数が異なっていたイギリスは、第一次世界大戦後に50Hzに統一したそうです。
 日本においても第二次世界大戦後に統一の機運があったのですが、見送られた模様です。


サイト対策委員会

 レーダーサイトの建設と同様、改善の必要があったのがレーダーサイト要員の勤務環境です。
 多くのレーダーサイトは離島や僻地の海岸、あるいは山頂に置かれ、猛烈な風害や雪害に晒されやすく、勤務環境はきわめて過酷でした。当初は隊員の士気低下以前に「健康上の問題」が指摘されるほどでした。

 この問題を改善すべく、空幕は1956年に「サイト対策委員会」を立ち上げ、隊員の福利厚生サービスの改善に努めています。

 一例として隊員の健康と士気を維持のため、基本食の定額を一般基地より22.5円高く設定しています。(当時の物価では牛乳1杯に相当するようです。)

 また米軍との共同運用時に開設されたNCO(下士官)クラブを娯楽センターとして再整備し、ここでの飲酒が認められるよう、1962年に防衛長官に飲酒の許可を上申しています。

 さらに隊員の娯楽として巡回映画と音楽隊による演奏会も催され、好評につき巡回の増加が要望されましたが、予算の制約もあり、十分に応えられませんでした。

 サイト対策委員会は様々な面で勤務環境の改善に努めたようですが、やはり勤務環境の水平化に至らなかったのが現実のようです。


参考
航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
日本の防衛戦力③航空自衛隊(読売新聞社編 ISBN4-643-87032-X 1987年5月14日)
防衛省・自衛隊の警戒監視態勢について(防衛省 2015年11月)
平成30年度行政事業レビューシート 事業番号0123 通信維持費(空自)(防衛省 2018年)
公益社団方針 日本電気技術者協会 電力周波数が50・60Hzに落ち着いた事情

Artillerie.asso
FTA- Les radars AN/TPS 1

Radartutorial
AN / FPS-3
AN / FPS-20



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