支那駐屯砲兵聯隊記
第2回 盧溝橋事件、出動命令下る(第一大隊編その1)
文:たわわ星人
wikipedia:九四式山砲
盧溝橋事件後の翌日、支那駐屯砲兵聯隊に出動命令が下ります。聯隊は第一大隊、第二大隊が分離と合流を繰り返します。
今回はわかり易くするため支那駐屯砲兵聯隊第一大隊の行動を中心に解説しますが、資料が少なく、また部隊誌も個人の回想中心で書かれておりまして不正確な部分があると思います。
間違い等ございましたらコメント欄でご指摘ください、訂正いたします。
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1.第一大隊、通州へ
昭和十二年七月七日夜、盧溝橋付近で夜間演習中の支那駐屯歩兵第一聯隊第八中隊が龍王廟付近の中国軍既設陣地方面より射撃を受けました。
翌八日午前零時三十分ごろ、支那駐屯砲兵聯隊が駐屯する東機局兵営で非常呼集が行われました。
午前三時三十分ごろ、営庭に待機する完全武装の隊員に鈴木聯隊長から「昨夜十一時四十分頃盧溝橋附近において、夜間演習中の豊台駐屯歩兵部隊の一個中隊が、支那軍から数十発の不法射撃を受け目下対峙中、我が砲兵聯隊は司令部の命に従いこのまま待機する」と下令されます。
午前八時、「我が聯隊に只今出動命令が下された。よってこれより新発する」との指令があり、第二大隊が兵営を出発。第一大隊は武装のまま営内で待機となりました。
七月十四日午後六時、第一大隊も出動となり、裏門から通州に向けて出発しました。これを最後に聯隊は天津東機局の兵営には戻ることはありませんでした。
七月十八日に通州に到着、通州守備隊の営庭にテントを張り待機となります。
2.通州城攻撃
通州で待機を続ける第一大隊に七月二十七日、非常呼集がかかります。
午前六時三十分、部隊は通州の街を一列縦隊となって前進。
午前八時三十分、射撃開始。宋哲元の第二十九軍兵営に向けて榴弾を二十二発撃ち込んだところで射撃中止の命令、歩兵部隊(おそらく支那駐屯歩兵第二聯隊)が突撃して兵営を占領しました。
正午頃、第二十九軍兵営前に陣地を進め昼食を済ませた第一大隊に飛行機の爆音が聞こえはじめます。
関東軍の戦闘機一機、爆撃機二機が上空で高度を下げながら旋回を繰り返します。地上にいる第一大隊の兵たちは銃剣に着けた日の丸の小旗を振ったり、即席の信号布板を作り合図しましたが、爆撃機は爆弾を投下。二度の爆撃で計十二発爆弾が投下されましたが、幸いにも爆弾は部隊から離れたところに落ちました。
しかし、この爆撃で親日軍である冀東防共自治政府保安隊(長:殷汝耕)の兵営に被害が発生しました。殷汝耕は夫人が日本人であり、保安隊は支那駐屯砲兵聯隊からも砲術指導として隊員が出向していたほどの親日軍でした。七月二十九日、冀東防共自治政府保安隊が通州の日本軍守備隊及び居留民に攻撃を行ったのはこの誤爆が一因といわれています。(軍事系まとめブログは政治や戦争犯罪は取り扱わないため、通州事件に関するコメントは控えてください)
この二十七日の午後八時、支那駐屯歩兵第二聯隊と第一大隊は通州を出発します。
3.豊台、南苑攻略、天津北站公大七廠の戦闘
二十八日、午後九時四十分ごろ第一大隊は豊台へ到着、夜襲を受けたものの撃退。第二大隊とともに南苑・宛平縣城攻略に参加します。
宛平縣城攻略後の七月三十日午前一時、第一大隊は豊台へ急行、正午ごろ貨車で天津に向かいます。天津では二十八日夜から支那軍の攻撃を受けていました。
「天津附近の第三十八師及び天津保安隊は、その本拠を南開大学、八里台、鉄路局、市政府、天津警備司令部、警察署、電話総局等に置き、二十八日夜半、日本軍の占拠する天津総站(駅)、同東站、東機器局、飛行場、日本租界、軍司令部を襲撃した。その数は約五,〇〇〇。」(ママ)『戦史叢書』
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111011800 第3章 天津附近の戦闘 (通州事件)
三一日午前六時に第一大隊は総站に到着、警備にあたります。
まだ戦闘は続いており、第一中隊の第一分隊は北寧公園の横にある鐘紡公大七廠(鐘淵紡績(カネボウ)の紡績工場)の救援に向かいます。
「私たちが現場に到着する直前に中国兵が工場の屋根の上まで上って来たという。もう駄目かとおもいましたと、社員たちがそのときの恐怖の模様を語っていた。日本軍の到着を知った敵の散兵は、クリーク一つ隔てた一軒家まで後退して抵抗線を張っていた。工廠の横の放列陣地は雨のために地盤がゆるんでいた。だが、方向零、三〇〇の弾丸は左の柱を打ち抜き、次が右そして三発目が真ん中と、恰も掌を指すように命中して、敵の拠点となっていた一軒家は私たちの眼の前でペシャンコに倒潰した。」『山砲兵二十七聯隊誌』
この戦闘で中国軍は馬廠方面へ退却しました。
4.支那駐屯軍の兵力集中と八達嶺の戦闘
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111012000 第4章・附図第3 軍集中配置予定要図 (8月上旬-中旬に於ける)を一枚に加工。八月ごろの支那駐屯軍の配置。
七月末までの戦闘で北平・天津方面の第二十九軍は涿州、馬廠方面に後退したものの、河北省には中国軍の兵力が増加しつつあり、房山~永定河右岸~馬廠の線に陣地を構築中。また、平綏方面の中国軍は八月二日に南口を占領しています。
八月二日、鈴木率道大佐が少将に昇進、小林信男大佐が新たに連隊長として着任します。八日頃に聯隊は北平に集結し、河辺旅団長の閲兵を受けました。(鈴木大佐は進級栄転のまま南口戦で砲兵団長として砲兵を統一指揮したとの複数の回想あり)
十二日より独立混成第十二旅団が南口に攻撃を開始するものの戦況は進展せず、第五師団が加入することとなります。支那駐屯砲兵聯隊第一大隊は第五師団大場部隊(歩兵第四十二聯隊)に配属となり南口攻略に参加します。
八月十八日、良王荘から北平北方の沙河鎮へ貨車で移動。先に到着していた熱河山砲柿原中隊と共に山岳地帯を進撃、長城線の敵を攻撃します。昼は猛暑、夜は雨の中行軍を続け、二十六日午後八時、内蒙古懐来に入城。板垣師団長より「山砲隊有難う、実に良くやって呉れた」と賞賛の言葉をもらう活躍をしました。
九月二日、北平に集結。
次回、第一大隊は津浦作戦に参加し大きな損害を受けることになります。
参考文献
『戦史叢書』 朝雲新聞社
『砲兵沿革史』 偕行社
『日本砲兵史』 原書房
『山砲兵第二十七聯隊誌』
『第27師団のあゆみ』
アジア歴史資料センター
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コメント
真崎一派なのがいやん
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