三菱F-1戦闘機その1(空自の日本防空史29)

文:nona

F1-1
http://www.sjac.or.jp/common/pdf/toukei/50nennoayumi/4_3_nihonnokoukuki3-4.pdf
F-1戦闘機の原型となったT-2練習機

 思うところあって連載を再開します。今回は戦後初の国産戦闘機F-1の開発中のあれこについて。

戦闘機屋人生―元空将が語る零戦からFSXまで90年
前間 孝則
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日本初の超音速機開発計画

 1960年代初頭、航空自衛隊はF-104J戦闘機の導入により超音速機の時代に突入したものの、同機は極端な空力設計もあって、F-86Fと比べ操縦難易度が各段に上昇していました。

 選定時の航空幕僚長である源田実氏は「F-86が乗れれば誰でも乗れる」という旨の発言を繰り返したものの、当の空自は1000飛行時間以上(5.5年に相当)の操縦経験者にのみ機首転換を認める措置をとっており、国会では野党議員もパイロット不足を懸念した程でした。

 また、全天候戦闘機が当たり前になろうとしていた時代、機首転換用のF-104DJ型は、レーダーFCSを搭載しないなど、訓練に不都合をきたしていました。

 よって次期高等練習機は、超音速機の操縦とレーダーFCSの操作を習得できる機体が望ましいとして、1965年末に防衛庁内で機種の検討が開始されます。


国産機か海外機か

 
これを超音速機自主開発のチャンスと捉えたのが防衛庁・技術研究本部でした。東大教授でもあった守谷富次郎本部長や、戦前から旧海軍機の開発に携わっていた高山捷一技術部長は、関係各所に働きかけを進めます。

 ところが、当の空自は自主開発に乗り気ではありませんでした。高山氏は「(空自は)なにかにつけて米軍依存の気持ちが強くて、我が国独自で必要な兵器を開発することには用兵者側から少なからぬ抵抗があった」と回想しています。

 防衛庁において権勢を振るった海原治官房長らも、ノースロップ社のT-38練習機の導入を強く求めていました。T-38は第二次FX候補機のF-5戦闘機と共通設計を有しており、F-5をT-38をセットで導入し経費削減を図ろうとしたのです。

 ただし海原官房長は怪文書で汚職が指摘されたことで失脚しており、1968年に技本側の要求が通って超音速練習機の自主開発が決定されます。


T-2練習機の開発

 製造を担当するメーカーについては、独自に超音速機研究を進めていた三菱重工と、T-1練習機の開発実績を持つ富士重工と川崎重工の連合を比較検討した結果、前者の三菱重工が選定されています。

 ただし、初期設計においては三菱重工のみならず、富士重工、川崎重工、日本航空機、新明和工業の主要国内航空機メーカー5社による合同チームASTET(Advanced Supersonic Trainer Engineering Team)が担当しました。

 ASTETには30歳前後の若手技術者が多数参加しており、最盛期で150名ほどが参加しています。活動期間は1年ほどで、C-1開発に注力する川崎重工の途中離脱もあったものの、若手を積極的に活躍の場を与え日本航空機産業全体の底上げを狙うなど、未来を見据えた試みがなされています。


TF40を搭載エンジンに採用

 XT-2の搭載エンジンは英ロールスロイス・仏チェルボメカが共同開発したアドーアTF40(最大推力3300kgのターボファンエンジン)が採用され、IHIによるライセンス生産が予定されました。

 TF40はジャギュア練習攻撃機のエンジンとして開発されたもので、それまでのジェット機とは異なりターボファンエンジンを採用しています。

 主流だったアメリカとは趣を異にしたもので、日本航空宇宙工業会は「米国と異なる設計思想を体得する上で極めて有益であった」と解説しています。

 もっとも、実用化から間もないエンジンのため、XT-2の試験飛行に際し部品不足で苦労があった他、RR社が定めるエアインテイク・エアダクト形状とTF40の組み合わせで、サージング(エンジンの空中停止)を引き起こすなど重大な欠陥もありました。

 三菱とIHIはサージング問題の是正を求めたものの、気位の高いRR社の技術派遣員が頑なに認めようとしなかった、という話も残っています。

 ちなみに選定されなかったエンジンの中にGE社のGE-1/J1A1というエンジンがありました。このエンジンは最終的にF110へ発展しF-2戦闘機のエンジンに採用されたのですが、XT-2の時代にはまだ発展途上のエンジンだったようです。


F-1の左右した日本の経済事情

 XT-2の開発は順調に進行し1971年に初飛行を迎えます。そして翌1972年にFS-T2改(後のF-1)の開発がスタートしました。

 防衛庁は第四次防衛力整備計画内で4個飛行隊126機の導入を要求したものの、直前の雫石事故やニクソン・ドルショックの影響もあって防衛費の増額が見込めず、現状の3個支援戦闘機飛行隊を代替できる68機の生産が認められています。

 1973年のオイルショックでは資材費の高騰・財政難による開発費の一時凍結も問題となりました。資材費に関して言えば、アルミニウムが精錬コストの上昇により1年で2倍の価格に高騰しています。

 その一方で円高ドル安が進行していたので輸入機は相対的に安価になり、一時は田中首相と大蔵省が防衛庁へF-5BおよびE導入を勧めたほどでした。同機の価格は8~9億円ほどだったようです。

 対してXT-2の試作機の価格は14億円、作戦用機材を増設するF-1はさらなる高騰(実際は量産初号機で22.5億円)が予想されたのです。

 確かにXT-2とFS-T2改は価格で不利でしたが、防衛庁は機体の小さなF-5は空自が求めた作戦用機材、兵装搭載量、航続距離が得られないとして、F-5の導入を固辞しています。


 キャノピーのあれこれ

 FS-T2改の開発は強い横風の中で強いられたこともあり、開発コストの増大を招かないよう、XT-2からの機体改造は最小限とされました。

 T-2の開発費は約120億円とのことですが、FS-T2改の場合はXT-2からの機体改造に10億円、システム設計およびFCS試作に12億1000万円というもので、機体の改造は最小限にとどめています。

 TS-T2改の開発に携わった鳥飼鶴雄氏は、FS-T2改の後部座席にパイロット席を移し、座席位置を高めて視界を向上させ、必要な電子機器は前席に相当する空間に設ける改造を提案したのですが、

 某技術幹部に「予算がない」として改設計を認められず、(おそらくが当初の計画どおり)後席を金属覆いで塞ぎ電子機器を設置した設計が採用された、と語っています。

 鳥飼氏は、この設計では低空飛行中のF-1が後方上空から襲撃されたとき、不利となることを危惧していました。

 ただし、F-1搭乗経験者の証言で後方視界や下方視界に触れることはほとんどないため、少なくとも運動性能等の問題と比べると、致命的な欠陥ではなかった、と思われます。

 F-1に限らず、当時の戦闘機や攻撃機は大なり小なり後部視界に制限が存在していましたから、自機と僚機が互いの死角を監視し合うことで、この問題に対処していました。

 なお、推力増強型TF40エンジンの換装も検討されていたものの、F-1の実用化に間に合わず、見送られています。

 実はエンジン開発元の1社であるロールスロイス社が71年に経営破綻しており、これが開発に悪影響をあたえた可能性もあります。


F-1の配備開始

 危機的状況を脱したF-1は77年に量産初号機が完成し、翌年から正式に部隊運用が開始されました。生産は1987年まで継続され、総生産機は当初の計画から増加し77機。生産中の価格は22.5~27億円でした。

 開発期においては何度も価格の高さを指摘されたものの、後発の第四世代機と比較した場合は開発費、機体価格とも安く抑えており、防衛庁は国会で価格の優位を強調することもありました。

 もっとも、お金をかけなかった分、F-1には能力の不足も目立ちました。パイロットや指揮官からの評価も芳しくなく、他機とのDACTにおいては、ほとんどの場合劣勢でした。

 そんなF-1でもパイロットの転機により、しばしば勝利を収めることもありました。次回はそんなF-1の空中戦闘を紹介いたします。


参考資料

戦闘機屋人生 元空将が語る零戦からFSXまで90年(前間孝則 ISBN978-4-06-213206-0 2005年11月29日)

世界の傑作機 No.117 三菱 F-1(ISBN978-4-89319-141-0 2006年10月5日)

航空自衛隊T-2F-1(イカロス出版 ISBN978-4-87149-593-6 2004年11月20日)

日本航空宇宙工業会 日本の航空宇宙工業50年の歩み 第5,6章
http://www.sjac.or.jp/data/walking_of_50_years/index.html


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