【軍事講座】急降下爆撃~栄光と散華に彩られた対空母必中戦法

文:烈風改

D3A1_Akagi

■対艦攻撃の新戦法

 昭和4~5年頃、米国発の新戦法・急降下爆撃は威力はともかく、その高命中率が注目されました。即効的に艦を沈める程の威力は無くても、飛行甲板を破壊すれば発着能力を奪える対空母用の攻撃方法としては有力で、戦艦同士の艦隊決戦前段階(と当時見なされていた)の空母航空戦における価値が大きいと判断されたのです。これにより「まず急降下爆撃機で相手空母の飛行甲板を潰す」という戦法が検討されるようになります。

 最初の艦爆である九四式艦上爆撃機(採用時は軽爆撃機)が採用される(昭和9年)より前から、日本海軍は水上偵察機による『急降下爆撃』(実際は緩降下爆撃だった可能性が高い)を実戦で行っていた記録もあり、急降下爆撃の効果は非常に期待されていました。

 このような経緯を経て艦爆搭載用の空母として蒼龍以降の新造艦が計画され、既存の空母も艦爆搭載のための改装が企図されます。(例えば加賀は改装により30機の艦爆が増載される予定となっていました)

艦爆隊長 江草隆繁―ある第一線指揮官の生涯 (光人社NF文庫)
上原 光晴
潮書房光人社
売り上げランキング: 376,002

■急降下爆撃への対抗策

 
ただ、米海軍も急降下爆撃を導入し、こちらの空母の無力化を狙うことは容易に想定されるため、相手の急降下爆撃機に備える対抗策を考慮する必要が発生しました。
対抗策として考えられたのは、

1.空母を分散配置する
 高速の空母を場合によっては単艦で前方に進出させることによって敵の航空攻撃の分散を図る戦法です。一隻、二隻がやられても残った空母の攻撃を集中し敵空母部隊の壊滅を狙ったものでした。この場合は被害を予想してある程度の数を揃える必要が有るため、空母は規模を抑えた中型空母を多数配備する想定でした。

2.急降下爆撃に抗堪可能な空母を用意する。
 攻撃を食らっても発着艦に支障が起きないようぐらい頑丈にしてしまえ、という構想です。具体的には飛行甲板の装甲化となります。

3.何らかの方法で敵空母の攻撃圏外にこちらの空母を配置したまま攻撃が行えるようにする。
 いわゆるアウトレンジ戦法ですね。つまるところ飛行機の航続距離を伸ばすという方策なのですが、海大の研究では艦攻で空中給油を行う等のアイデアもあったようです。

 これらの対抗策は海軍内の各部署の思惑もあり、次のような成り行きを辿ります。

 1.は中型の空母を量産するという考えで一隻当たりのコストや造船設備・運用インフラを抑えられる点が魅力で軍令部や軍務局はこの案を当初支持していたようです。しかし航空機の発達に伴って空母の規模は大型・高コスト化の方向に移行し、最終的には攻撃時に飛行機の集中が困難であるという点が演習で認識され、昭和15年頃には空母運用方針は集中利用へと傾いていきます。

 2.の飛行甲板装甲化は「どの程度の攻撃を想定するか」が問題となりましたが、現実的なラインとしては飛行機の発着機能を担保できるものとして「500㎏爆弾の急降下爆撃に耐える」という仕様が求められたようです。しかし、高威力の水平爆撃や急速な飛行機性能の進歩による搭載爆弾の大型化にどこまで追従できるかは未知数で、当時の文書にも「確実な防御を想定するのは不可能」という文言が見られます。

 また飛行甲板の装甲化は、搭載機数や艦としての性能(復原性等)には良い影響は無い上、高コストとなってしまい空母の数を揃えるという点では不利な面も見逃せません。

 3.は艦の建造や設計では無く、飛行機の開発に左右されることとなり可能性は未知数でした。これらの計画が検討された昭和10年代の初頭頃は飛行機が長足の進歩を遂げること自体は確実視されてはいましたが、どの程度のペースでどの時期に必要な航続性能を達成できるか?の予測は困難でした。

 このような背景からか2.の飛行甲板装甲化案の亜流して考えられたのが所謂“飛び石戦法”案で、少数の高コスト装甲空母を敵の攻撃圏内に進出させ、攻撃圏外に配置した在来空母から発進した攻撃隊を中継するという方策です。3.の飛行機の航続距離延伸に失敗した場合を想定して考えられたのかもしれません。

 結果的には飛行機の性能向上を期待しつつ、空母も今後建造するものは(完全な防御ではなく)一定の防御力を持つ装甲空母に切り替える、という方針が取られました。

 その後、新世代機(十三試艦爆=彗星や十四試艦攻=天山)で航続距離延長のメドが立ち、結局3.の方向性が期待されることとなりました。

 
但しこの時点で、そもそも邀撃作戦においては、航空攻撃は陸上基地から行えば良いのでそもそも空母は不要なのでは無いのか?という点も認識されるようになり、海戦要務令でも「基地航空隊を主要し」とされるようになりました。この方針に沿うように、開戦後、戦況が守勢になった後、航空兵力の主体は空母航空隊から基地航空隊へと移り変わります。


■実戦~急降下爆撃の終焉

 
そして昭和16年12月。結局、日本海軍は肝心の長大な航続力を持つ新鋭機も装甲空母も未配備のまま開戦を迎えます。

 戦争初期、機動部隊の艦上爆撃機は(敵の抵抗が微弱だったこともあり)驚異的な命中率を記録、機動部隊の主力として想定以上の大活躍を続けました。

 しかし、ミッドウェー海戦では長年想定していた“艦隊決戦”が攻守入れ替えたような状況で行われ、皮肉にも急降下爆撃機の導入当初に思い描いていた「劣勢な状況下から先制攻撃を成功させ敵空母の機能を奪う」という理想形をそのまま米海軍にやられてしまうことになりました。

 このためミッドウェー海戦直後は、急降下爆撃が対機動部隊の最重要攻撃方法として再認識され、機動部隊では艦隊の再編成と共に残存した大型中型空母の艦爆定数増載が行われています。また次期艦爆である彗星を運用が可能な空母が激減してしまったため、艦爆をカタパルトで射出するというイレギュラーな手法の改装艦が実施されたり、艦攻/艦爆機種統合方針に逆行するような艦爆専用機の緊急開発が提案される等、“艦爆バブル”とも言える状況を呈すに到ります。

 そして米陸海軍の本格的な反攻が開始されるようになると敵戦闘機や対空火器の数が充実、さらにそれらがレーダーと連動して猛威力を発揮し始めました。急降下爆撃は雷撃と共に損耗率が激増し、それに反比例するように戦果は低下の一途を辿ります。艦爆隊はこの過酷な状況に対抗して生存性を確保するために、ダイブブレーキを使用せず、高速で接敵して投弾する緩降下爆撃を採用するようになりますが、これも命中率の面では悪影響の一因となった可能性が有ります。

 長大な航続力を持つ期待の新艦爆・彗星はようやく、昭和19年に機動部隊への配備が進みマリアナ沖海戦で敵空母に対するアウトレンジ攻撃がついに実現しました。しかし、開戦時とは比較にならない程勢力が増大した米戦闘機群とそれを指向・誘導する高度な迎撃システムの前に攻撃を阻まれ、艦爆隊は殆ど戦果を上げられずに終わります。この傾向は前年の第三次ボーゲンビル沖海戦の頃から顕在化しており、攻撃隊は米機動部隊に対して有効な打撃を与えられないという困難な現実に直面します。

 十年近くの構想期間を経た日本海軍の急降下爆撃による対空母先制攻撃計画は、最終的には戦前想定しえなかったエレクトロニクスの発達による防空迎撃システムに止めを刺されることになりました。

 
手詰まりとなった対米機動部隊戦闘ですが、悪化する戦況下でも戦いを止めることは許されませんでした。そして日本海軍は急降下/緩降下爆撃戦法を禁断の領域へと推し進める選択をしてしまいます。

 特攻-有人による体当たりによって達成される高い命中率と生還を期さないことによる防空網突破率は、撃沈には至らないものの発着艦機能を奪い、多数の米空母を前線から後退させることに成功します。ですがそれは既に戦法とすら言えない攻撃方法と数千の人命を贄とした「統率の外道」による“代償”に過ぎませんでした。

<著者紹介>
烈風改
帝国海軍の軍艦、特に航空母艦についての同人誌を多数発行。
代表作に『航空母艦緊急増勢計画』
Twitter: https://twitter.com/RX2662


マルシン工業 99式艦上爆撃機11型
マルシン工業
売り上げランキング: 66,158

放置_300x250_02