MiG-25事件の残影
(空自の日本防空史28)

文:nona

ICM 1/48 ミグ MiG-25 RBT 48901 プラモデル

 MiG-25事件シリーズ最終回です。

ミグ25事件の真相―闇に葬られた防衛出動 (学研M文庫)
大小田 八尋
学習研究社
売り上げランキング: 46,278

 MiG-25をソ連へ返還

 
1976年10月から1か月に及ぶ日ソ交渉の末、MiG-25は1976年11月15日に茨城県の日立港から、ソ連の貨物船タイゴノス号で送り返されています。

 
ソ連はMiG-25を取り返せたものの、機体の秘密、特に電子機器の詳細がすでに暴かれ防空システムの通信が筒抜けとなることが危惧されました。

 
対策として、電子機器を換装した新造機のMiG-25PDおよび改修型のMiG-25PDSが1979年から運用が開始され、同時に性能向上も果たされています。

 
さらに、ソ連政府はMiG-25の海外輸出を認め、アルジェリア、リビア、シリア、ブルガリア、イラク、インドなど、主に中東方面で活躍します。

 
1982年以降はMiG-25に大幅な改良を施したMiG-31の配備も開始されますが、1985年に電子装備と武装の仕様書が西側スパイの手で流出する騒ぎが発生し、MiG-31Bへの改設計を余儀なくされています。

 
情報流出の経緯はMiG-25事件とは異なるものの、防空軍は二度も機密漏洩に苦慮したようです。


 防衛庁および自衛隊の事件対策

 
MiG-25事件後、防衛庁および空自は判明した問題を洗い出し、翌年の防衛白書で対策措置の必要を訴えています。主だったものは以下の通り。

・早期警戒機の導入
・地上レーダーの能力向上
・要撃機のルックダウン能力の向上
・要撃機へのミサイル搭載検討
・領空侵犯機に対する措置基準の検討(詳細は不明)
・連絡体制等の整備

 
上記の対策のうち、早期警戒機は1971年の時点で既に要求された装備ですが、翌年の政情変化で予算が縮小、優先順位の低さから導入が先送りにされた、という経緯がありました。

 
また、MiG-25を取り逃したF-4EJへの対策は急がれず、事件から13年後の1989年に開始されたF-4EJ改への量産改修で、ようやく実用的なルックダウン能力を獲得しています。


 防衛庁中央指揮所の設置

 
中央指揮所の建設の契機は、事件中に判明した連絡体制の不備にありました。

 
陸自と空自間の連絡ミスによるC-1輸送機誤認騒ぎもその一つですが、その他の関係組織間においても様々な問題が見られており、事件後の検討の結果、陸海空自衛隊を統括する戦略級C4Iシステム(開発当時はC3システム)の構築が望ましい、という結論に至ったようです。

 かつて北海道の第11師団で事件対処にあたっていた大小田八尋氏も中央指揮所の建設事業に携わっており、大蔵省との予算交渉を担当しました。

 
その際、MiG-25事件で検討された「ソ連軍ゲリラの函館侵攻のシナリオ」の解説が、予算の必要を理解してもらうために役立った、と語っています。


 事件の記録を破棄した陸自

 
一方の陸自は事件の対策を検討するどころか、全てを闇に葬ろうとする動きがありました。

 
事件が落ち着いたの1976年9月末、上は陸幕、下は函館駐屯地の28普連において一斉に事件中の記録が焼却・破棄されています。

 
記録の破棄に関係する命令は全て口頭で行われたらしく、処分したという事実すらわからないようにされており、誰の命令でなされたのかも不明です。

 
破棄の理由も推測するほかにありませんが、事件中、第11師団(現在の第11旅団)は函館の第28普通科連隊に対し、総理の防衛出動命令を待たずに出動する許可を与えており、これがシビリアンコントロールの逸脱とみなされ、関係者が糾弾される可能性がありました。

 
こうして陸自のMiG-25事件記録は公式上は抹消されていますが、現場部隊は何らかの形で将来に伝えようと奔走しており(上層部の圧力で無為にされたものもありますが)、例えば事件中の動員部隊の記録等を「駐屯地警備訓練」と言い換えるなどして、どうにか部隊史上に残しています。

 
第11旅団のWebページ(http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/11d/tracks/51.html)においても、MiG-25事件の臨戦態勢を「函館駐屯地警備訓練」と言い換えて紹介しています。

 
また、大小田氏も退官後の2001年に「ミグ25事件の真相」を著しており、当時の記録を知る貴重な資料となっています。


 アメリカ亡命後のベレンコ氏と「闇の力」

 
ベレンコ氏は亡命飛行から3日後の9月9日に日本を離れ、希望通りアメリカへ渡っています。

 
当初の彼はCIAの庇護をうけ、米軍のアドバイザーとして活動していましたが、1981年に市民権を取得し、後には講演会や航空関連事業を展開しました。小説家のトム・クランシーに助言をしたり、テストパイロットのチャック・イェーガーとも親交を深めたようです。

 
そんなベレンコの伝記を著したジョン・バロン氏は、亡命当初の彼がアメリカ社会に馴染むまでに相当な苦労があったことを記しています。

 
一例として、ベレンコ氏はアメリカのスーパーマーケットを、外国人をだますために作られた、一般人が使用できない「闇の力」のショールームと信じて疑わなかった、というエピソードがあります。

 
当時のソ連社会においては、食料や生活必需品の不足が常態化していたらしく、食料品を買うための行列も珍しくない光景でした。常に商品で満たされている店など、ソ連の常識では有り得ないことだったのでしょう。


 空母と最新戦闘機の見学を要求

 
かつてソ連の政治将校はベレンコ氏ら亡命手段を有する人々に「アメリカは亡命者をレモンのように絞り尽くしてから捨てる」と(レモンだけに)口を酸っぱくして警告していたらしく、このせいでベレンコ氏はアメリカを信用しきれていませんでした。

 
そこで彼はCIAに「海軍の空母とF-14戦闘機」「空軍基地とF-15戦闘機」を見せてくれ、という無茶な要求をしています。

 
まるで幼い子供が親に対して行う「試し行動」ですが、ベレンコ氏の場合もまた、アメリカが彼に偽りなく大切に扱ってくれるか見定めたかったのでしょう。

 
するとCIA、なんと本当にベレンコ氏の空母見学と空軍基地見学を実現させています。本当にやってくれると思っていなかったべレンコ氏を驚かせ、彼の疑いと不安を晴らしています。

 
ただし、ベレンコ氏は艦長からプレゼントされたジャケットが艦内で盗まれることをやたら気にしたり、空母の営倉に収容者が1人も居ないことに衝撃をうけるなど、乱脈に満ちたソ連軍の常識から抜け出すには、もう暫く時間がかかりました。


 路上でスピード違反を犯した元戦闘機パイロット

 
ベレンコ氏はアメリカでの生活のため、自動車の運転免許を取得しています。アメリカの制度では免許はすぐ取得できるものの、元MiG-25パイロットということもあり、まるで戦闘機を操縦するかのような運転でした。

 その結果、スピード違反で警官に止められてしまったのですが、ここでベレンコ氏、ソ連の常識的な対応として警官に賄賂を手渡そうとしています。

 
その時は車内に付き人のCIA職員が同乗しており、ベレンコ氏をロシア語で彼を叱りつけ、警官に事情を話すことで事なきを得ています。

 
アメリカへ渡ったベレンコ氏の反応からは、当時もソ連社会の停滞と腐敗が垣間見伺えますが、ソ連政府はいまだ健在で自身の不都合となる情報を統制しており、その内情が国内外へ伝わるのもしばらく先のことでした。


 
参考資料

ミグー25ソ連脱出―ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか(ジョン・バロン著, 高橋正訳 1982年3月30日)
P178-217

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P340-341

1977年 防衛白書 第4章 ミグ25事件
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1977/w1977_04.html

ミグ25事件の真相 闇に葬られた防衛出動(大小田八尋 ISBN978-4-05-901072-3 2001年8月13日)
P213-228,P230-250

第11師団 46年の軌跡>昭和51年度
http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/11d/tracks/51.html

ミコヤンMiG-25、MiG-31 (世界の傑作機 No.172)

文林堂 (2016-03-30)
売り上げランキング: 162,716

放置_300x250_02