MiG-25「大変ご迷惑をかけました」
(空自の日本防空史23)
文:nona
今回も緊張状態の函館の模様を紹介いたします。
陸上自衛隊の35mm2連装高射機関砲L-90。MiG-25事件中に函館駐屯地へ設置された。
学習研究社
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2度の不明機騒ぎ
MiG-25事件4日目の1976年9月10日、陸自の函館駐屯地内に35mm2連装高射機関砲L-90が、人目をはばかって夜遅くに運び込まれます。
L-90はレーダーおよび光学照準によって空中目標を捜索・照準し、機関砲で攻撃する高射システム。レーダーの探知距離は約15km、有効射程は3~4kmとされています。これを函館駐屯地に設置すれば、函館西方から飛来するソ連軍機の撃墜が可能でした。
ただしソ連側が駐屯地上空を迂回する可能性もありますし、撃墜の際に残骸が函館市街へ落下するリスクを考慮する必要がありましたから、射撃可能な方位に制約があったと考えられます。
突如出現した6つの機影
L-90が待機状態にはいって間もない9月11日15時6分、ホーク部隊から函館駐屯地へ、南西200km、北西200kmと150kmの地点において3機の敵味方不明の機影が出現した、と連絡が入ります。(これはホーク部隊が直接捉えたものではなく、BADGEシステムがもたした情報と考えられます)
続く15時9分、L-90のレーダーも上記の報告とは別に、函館へ接近する反応を3つ捉えます。距離は15000m、高度800m、時速300kmで函館空港方面へ向かっており、L-90の射程圏へ入る可能性がありました。
計6機の反応のうち、ホーク部隊が伝えた3機は空自戦闘機に対する陽動部隊、L-90のレーダーが捉えた3機が本隊であると考えられたものの、これは9月8日の陸幕会議で想定された襲撃部隊の動きに符合するものでした。
函館駐屯地の第28普通科連隊本部は遂に来るものが来た、との思いで5分待機の中隊に出動準備を号令します。
この時連隊長は第11師団長から防衛出動の「見込み」出動許可をもらっており、もしソ連軍が明確に函館空港を襲撃しようとする動きが見られた場合、三木総理の防衛出動命令に先んじて駐屯地を飛び出し、ソ連軍が到着するよりも先に函館空港を抑えるつもりでした。
この師団長による「見込み」出動許可は「現場の独断専行によってなされたシビリアンコントロールを逸脱する超法規的行動」と見なされかねないものですが、実際にソ連軍が攻めて来るのであれば総理も追認するはず、との憶測でなされたものでした。
6機の正体
L-90部隊は函館空港へ接近する3機に対し戦闘配置をとり、点検射として数発の曳光弾を海側上空へ発射しました。点検射とはいえ市街地にある駐屯地から実弾を外部へむけ発砲するのは極めて異例の事態です。
しかし、駐屯地の訓練塔で識別にあたっていた隊員が、機影が空自のC-1輸送機であることに気付きます。L-90部隊長はすぐさま射撃中止を命じ、連隊も出動を取り止めています。
このC-1輸送機編隊は空幕幹部を輸送するために函館空港へ向かっていたのですが、陸自の北部方面総監部に常駐する空自の北空司令部連絡幹部はこの飛行情報をつかんでおらず、函館駐屯地へ事前に連絡されていなかったのです。
またホーク部隊が報告した3機の反応も15時16分までに消失しており、続報がありませんでした。
しばらくしてこの3機は空自(のBADGEシステム)が防空訓練用に表示した虚像であると伝えられました。この日に北空司令部が15時過ぎからレーダー訓練を実施していたものの、やはり陸自へ伝達されていなかったのです。(こんな時にわざわざ訓練などするのだろうか、という疑問もありますが。)
戦場は錯誤の連続
今回はL-90部隊の的確な判断で同士討ちを直前で回避していますが、もしC-1輸送機が撃墜されていれば、1971年の雫石衝突事故に匹敵する重大事故して記録されていたでしょう。
連隊長も「連隊が、ソ連軍からの空の奇襲に備え、緊迫した警戒態勢を敷いているとき、あのような無神経なことを、連絡なしにおこなったことに無精に腹が立った」と空自に対する憤りを語っています。
ただし陸自側も函館駐屯地にL-90を配備したことを空自へ空自へ伝えていませんから、これが彼らの油断を招いた、という見方もできます。
元自衛官の大小田八尋氏はこの件について「戦場は錯誤の連続」としています。
SA-7を担いだ潜入工作員?
事件が始まってから19日後の9月24日夜、ついにMiG-25の移送が実行されます。
これまでにMiG-25をカバーで覆ったり、電子機器周りの自爆用火薬を除去したりと様々なことがあったようですが、自重だけで20tもあるMiG-25を函館空港から運び出すのは容易なことではないため、アメリカ空軍の大型輸送機であるC-5Aに積み込み、安全に検分ができる茨城県の百里基地まで運ぶことになったのです。
その一方で「輸送機が離陸する瞬間をねらってSA-7携帯式地対空ミサイルを構えた潜入工作員が撃墜する」という情報も流れていましたが、やはり総理は陸自へ出動を命じておらず、北海道県警が285名体勢で空港の警備と市内のパトロールを行い、市内に滞在する13名のロシア人および4隻の不審船を海保と共に監視しています。
空港警備に関しても、陸自は最後まで出動を認められませんでしたが、武器の不携帯と制服の着用を条件に「見送り部隊」としての現場入りが許可されており、函館駐屯地から第28普通科連隊の隊員ら70名がMiG-25を見送っています。
このときMiG-25の胴体に「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」という横断幕が掲げられていましたが、これは空自の第二航空団分遣隊の発案で、函館駐屯地の業務隊に勤務する事務官が書いたものでした。
百里基地へ飛んだC-5A
23時35分、MiG-25を積み終えたC-5Aが函館空港を離陸。SA-7の攻撃を未然に防ぐために急旋回をした後、津軽海峡へ飛び去っていきました。
上空では千歳、百里、小松のF-4EJが実弾を搭載しC-5Aを護衛しています。滝野隆浩氏によると、パイロットは不審機の撃墜が許可されていたようです。
日付が代わって9月25日の0時45分、C-5Aは隊員1600名が非常配備で待機する茨城県の百里基地へ到着しました。
この時、百里基地に勤務していたパイロットの村田博生氏は「9月の終わりなのに、その夜は冷え込んで寒かった」MiG-25がやって来たことを予感させる、奇妙な体験を語っています。
参考資料
ミグー25ソ連脱出―ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか(ジョン・バロン著, 高橋正訳 1982年3月30日)
P136-139
航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P338-339
1977年 防衛白書 第4章 ミグ25事件http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1977/w1977_04.html
ミグ25事件の真相 闇に葬られた防衛出動(大小田八尋 ISBN978-4-05-901072-3 2001年8月13日)
P160-188,P206-212
ファイターパイロットの世界(村田博生 ISBN978-4-87687-245-9 2003年4月18日)
P193
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コメント
あと機体を分解する時の工具はメートル規格のが必要だったので、自動車用のを使った話があったとか。
それと、洋上のソ連船から短距離SAMが発射されると言う情報がもたらされたとかで、護衛艦もソ連船の動きに神経を尖らせていたという話もあったり。
誤射は極限まで減らす事は出来ても無くす事は不可能ですし。
明確な命令がなく、一元化された指揮系統が無いこの状況では尚更。
ちなみにこの射撃はどういう名目で処理されたんだろ。
ごしゃごしゃしてんな
ドウスル?( ´・ω・)(´・ω・)(・ω・`)(・ω・` )エイソウイキ?【審議中】
CAST IN THE NAME OF GOD. YE GUILTY.
「撃ちぃ方はじめ」
現実は連絡不足だったけど、それ実は某国の秘密戦闘機とか一瞬でもときめいたのは俺だけじゃないはず・・・w
ホウレンソウは大事! ってなんども言われていることだけれど、こういった連絡・連携の不足は今でもボチボチとあって犠牲者も出ているので人間である以上はヒューマンエラーは無くならないのだと深く思う。
やっぱり全部無人化しないと(使命感
パトレイバー2のあのシーンは、子供の頃は意味不明だったけど、今見るとなかなか面白い。
誤射、特に友軍相撃は本当に難しく考えさせる。色々な識別方法や報告の徹底をやっても瞬時の判断を迫られる時は特に難しくて、その一瞬の遅れでこちらがやられると言う事は往々にしてあるし、識別がおろそかになると今度は誤射、友軍相撃につながる。
BBY-01の砲雷長「まかせろ。俺は大砲屋だ」
(BGM「ヤマト渦中へ」)
子供の時「何か偉そうな人がゴチャゴチャ言ってるなぁ。いいから戦闘機見せてよ」
今「93年当時でどうしてこんなストーリーを作れるんだ…」
戦後の緊急時は歴代でも残念な総理がなっている。
4様
陸自は今回の誤認騒ぎを含む一連の事件ついて
(誰の指示かは不明ですが)記録を抹消した上で、
現場でやっていたことは「基地警備訓練」
だった、としています。
よって、誰も責任を負わなかったものの
陸自における事件対策も有耶無耶になっています。
ただし、MiG-25事件における連携の不備は
陸空だけの話ではなかったようで
防衛組織全体の対策として防衛庁中央指揮所(自衛隊の戦略級C3システム)
が設置されています。
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