MiG戦闘機を巡る箱館戦争の危機
(空自の日本防空史22)

文:nona

ハセガワ 1/72 ソ連空軍 ミグ25 フォックスバット プラモデル D4
 今回はMiG-25着陸から数日の函館の状況を紹介します。

ミグ25事件の真相―闇に葬られた防衛出動 (学研M文庫)
大小田 八尋
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 MiG-25事件直後のソ連軍の動き

 
1976年9月6日午後にMiG-25とベレンコ中尉が函館へ降り立ったことは間もなくソ連へ伝わり、公式に返還を求める声明がなされた一方、軍を動かすことで、日本へ圧力を加える動きが見られました。

 
3自衛隊は事件直後からソ連軍の監視に従事する部隊へ、態勢の強化を指示していますが、外交ルートでソ連艦隊が北海道へ接近している、との情報が入ります。

 
緊張が高まりが予想されたものの、すかさずアメリカ艦隊が出動の動きを見せたため、ソ連艦隊は9月8日までに反転し、ソ連による表立った軍事行動は落ち着くと思われました。


 
「A・一」情報

 
ところが、この9月8日「ソ連がMiG-25奪回もしくは破壊のため、ソ連軍ゲリラが日本に侵入する動きあり」という内容の情報が日本へもたらされます。

 
今回の事件の著作をもつ元自衛官の大小田八尋によると、自衛隊はこの知らせを「A・一」情報と判断したといいます。これは情報源が完全に信頼でき(A)、既存の情報と照らし合わせても事実と判断される(一)情報、とのことです。

 
情報源についてはスイス駐在アメリカ大使館付武官を経由しアメリカ側から伝わったものであり、確証を得られないものですが、一応は情報大国アメリカが掴んだ情報であり、一方の日本に確かめる方法はありませんから、自衛隊はこれを信ずる他になかったようです。

 
ただし、今回函館に着陸したMiG-25は他のソ連機と異なり、いまだに国外供与をされていない(国外展開の例はあり)機密性の高い機体でしたから、秘密を守るためにソ連が強硬手段をとる可能性は否定できませんでした。


 ソ連軍ゲリラはエンテベ空港奇襲作戦を再現する?

 
「ソ連軍ゲリラが日本に侵入する」する可能性ですが、9月8日の陸幕会議において、大真面目で検討されていました。

 
これは事件の3ヶ月前の1976年6月に実行された、イスラエル軍特殊部隊によるエンテベ空港奇襲作戦の成功が関係しています。

 
この作戦は、イスラエル軍特殊部隊が乗るC-130がハイジャックされた旅客機を追い、敵地ウガンダのエンテベ空港へ着陸、ハイジャック犯と現地軍を殺害し乗客約100名を連れ帰る、というもの。

 
極めて危険な作戦にもかかわらず、イスラエル側の犠牲者は誤射された乗客3名、作戦直前に現地病院へ移ったことでとり残された乗客1名、そして指揮官のネタニヤフ中佐(現在のイスラエル首相の兄)だけであり、総合的に成功と見なされています。

 
これによって、この手の特殊作戦の可用性が各国で認識され(アメリカ軍のイーグルクロー作戦など失敗例もありますが)当然ソ連軍も実行する能力があるはず、と考えられていたのです。


 
自衛隊の警戒態勢

 
ソ連軍ゲリラ部隊による空挺攻撃に備えるため、空自は北部航空方面隊へデフコン1(アメリカ軍が用いるそれと少し異なるが詳細は不明)を指示、方面隊の要撃機全機を臨戦態勢として、函館上空ではCAP(戦闘空中哨戒)が実施されました。

 
海自の大湊地方総監も津軽海峡の警備を強化。護衛艦、掃海艇、魚雷艇の13隻に横須賀から応援の2隻が加わり、24時間体勢の哨戒が実施されています。

 
一方の陸幕では、ソ連軍の作戦次第で空自と海自の防衛線が突破される可能性も想定していました。

 
一例としてMiG-25と同様のゲリラ部隊が搭乗する輸送機による低空侵入、航空機を用いた陽動戦術(複数の囮機が迎撃機の注意をそらし、その隙に別働隊が函館を奇襲)、アエロフロート定期便にゲリラ部隊を搭乗させての奇襲など、空自のスキを付く方法が複数考えられていました。

 
陸自部隊による最後の守りが欠かせないことは明白で、陸幕は北方総監を通じ、北海道南の第11師団(現在の第11旅団)へ、「ゲリラの撃滅」を指示します。

 
これは陸幕長の認可をうけた命令でしたが、今回の事件で三木武夫総理は防衛出動命令を出さなかったため、これはシビリアンコントロールの逸脱、と見なされかねないものでした。


 現場から4キロの陸自函館駐屯地

 
第11師団隷下の指令をうけた函館駐屯地(空港まで約4km)第28普通科連隊は、8日午前に第三種非常勤務態勢に突入します。基地内では常に1個中隊が5分待機、それ以外の中隊も30分待機態勢を維持し、これはMiG-25が函館から移送される24日まで続きました。

 
さらに函館駐屯地は東千歳のホークSAM部隊と無線および専用電話回線で連接され、ホーク部隊を経由し、限定的ではあるものの空自のBADGEシステム情報を入手できるよう調整されました。もし函館へ接近する不明機が確認された場合、すぐ函館空港へ出動できるようにするためです。

 
理想であれば基地内での待機ではなく、函館空港でMiG-25を直接警備すべきですが、前述のとおり総理が防衛出動命令を下さなかったこともあり、これは叶いませんでした。9月11日以降は、MiG-25の管轄が法務省から防衛庁へ移管されていますが、警察による空港警備という状況に変化はありませんでした。

 
なお、函館駐屯地内には駐屯地祭の展示品として偶然搬入されていた61式戦車が2両あり、これらも5分待機態勢を維持し、砲弾が後から届けられたほか、やはり展示品の名目でOH-6偵察観測ヘリコプターや35mm2連装高射機関砲L-90も9月10日までに搬入されています。

 
105mm榴弾砲4門の搬入も画策されたものの、これは第11師団の判断により到着前に引き返へしたようです。


 箱館戦争の危機を報じる地元紙と、事件を忘れつつある全国紙

 
函館の28普通科連隊は、戦いの準備を隠密に進めたものの、駐屯地の隊員が帰宅できないことで、市民達はすぐ異変に気付きました。

 
翌日の9月9日に地元新聞は「函館駐屯地部隊が臨戦態勢。全体員が駐屯地内に泊まり込み。ミグ25戦闘機を巡り、ソ連軍相手に箱館戦争」と大々的に報じています。

 
その一方で、全国紙ではMiG-25事件の報道はすでに落ち着いていた、と防衛大出身の滝野隆浩記者は語っています。

 
MiG-25事件の代わりに一面に掲載されたのは、中国初代国家主席の毛沢東の訃報や、九州へ上陸した台風第17号(最終的な死者161名、行方不明者10名、負傷者537名)の情報、そしてロッキード事件の追及など、どれも大きなニュースです。

 
台風に関しては自衛隊も数万人規模で被災地へ派遣されていたでしょうし、ロッキード事件は自衛隊を指揮すべき三木総理の進退に大きな影響を与えていたものです。

 当時の日本では誰もがMiG-25に構っていられる状況ではなかったようです。


 
参考資料

ミグー25ソ連脱出―ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか(ジョン・バロン著, 高橋正訳 1982年3月30日)
P136-139

航空自衛隊五十年史(航空自衛隊50年史編さん委員会編 防衛庁航空幕僚監部発行 2006年3月)
P338-339

1977年 防衛白書 第4章 ミグ25事件
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1977/w1977_04.html

ミグ25事件の真相 闇に葬られた防衛出動(大小田八尋 ISBN978-4-05-901072-3 2001年8月13日)
P42-78、96-97

世界の特殊部隊作戦史1970‐2011(ナイジェル カウソーンISBN978-4-562-04877-9 2012年12月16日)
P58-66

自衛隊指揮官(滝野隆浩 ISBN4-06-211118-7 2002年1月30日)
P112-113

気象庁 災害をもたらした気象事例
台風第17号 昭和51年(1976年)9月8日~9月14日
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/1976/19760908/19760908.html